聖なる ズー。 聖なるズー

『聖なるズー』動物性愛者に密着取材!近来稀な問題作

聖なる ズー

【開高健ノンフィクション賞(第17回)】犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。 性暴力に苦しんだ経験を持つ著者は、ドイツで彼らと寝食をともにしながら、取材を重ね…。 人間にとって愛とは何か、暴力とは何かを考察したノンフィクション。 【「TRC MARC」の商品解説】 2019年 第17回 開高健ノンフィクション賞受賞作 犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。 性暴力に苦しんだ経験を持つ著者は、彼らと寝食をともにしながら、 人間にとって愛とは何か、暴力とは何か、考察を重ねる。 【選考委員、驚愕! 】 ・「秘境」ともいうべき動物との性愛を通じて、暴力なきコミュニケーションの可能性を追い求めようとする著者の真摯な熱情には脱帽せざるをえなかった。 しかし読み進めるにしたがって、その反応こそがダイバーシティの対極にある「偏見、差別」であることに気づいた。 この作品を世間がどのように受容するのか、楽しみである。 こんな読書体験は久しぶりだ。 1977年、広島県生まれ。 2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。 インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。 2018年、京都大学大学院修士課程修了。 現在、同大学大学院博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。 【商品解説】 2019年 第17回 開高健ノンフィクション賞受賞作 犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。 性暴力に苦しんだ経験を持つ著者は、彼らと寝食をともにしながら、 人間にとって愛とは何か、暴力とは何か、考察を重ねる。 【選考委員、驚愕!】 ・「秘境」ともいうべき動物との性愛を通じて、暴力なきコミュニケーションの可能性を追い求めようとする著者の真摯な熱情には脱帽せざるをえなかった。 しかし読み進めるにしたがって、その反応こそがダイバーシティの対極にある「偏見、差別」であることに気づいた。 この作品を世間がどのように受容するのか、楽しみである。 こんな読書体験は久しぶりだ。 投稿者: にゃっつ - かなり硬派なノンフィクションである。 動物とのふれあいで人間としての性欲を満たすものがいるのかという好奇心で手に取った。 開高健ノンフィクション賞受賞作だけに緻密に構成されたルポルタージュである。 しかしながら、筆者の前半生で壮絶なドメスティックバイオレンスを受けたことを知りながら読み進めていくのは苦しい。 非常に息苦しい。 というのも、本来人間が交わすべき愛情の交換としての性交を知らずにいる筆者が海外の動物性愛者をインタビューするということが危なっかしくてハラハラするからである。 現代において、個人の嗜好は自由であり、愛の形も様々でいいのだと思うが、動物性愛者に会いに行くのに人間同士の性愛について偏向している筆者が痛々しくてならない。 幸せになってほしいと思う。 本の内容は踏み込みが一歩足りないかな、と思う。 ドイツの団体を軸に友人関係を広げて、取材を掘り進めたのも力がすごい。 動物を対等のパートナーとして受け入れ、(たまたま)彼らがしたがるからセックスもする(主に受け入れる)、という人々の話を丁寧に追う。 自らのDV体験を照らし合わせながらセックスのありようを探るのは論文ではなくノンフィクションならではの書きぶりであり読ませ方だ。 ただ著者も中盤で書いているように、取材対象者のほとんどは受け入れる側。 動物と心が通じ合う側面はあるのだろうが、もともと裸で寝ていたりして彼らの性的な本能を刺激しやすいのも確かだろう。 書名ともしたように、この団体の人々を「聖なるズー」と揶揄する人もいる。 要するにちょっとええかっこしい、だと。 自ら動物としようとする人もそれなりにいるらしい。 そこは取材しきれなかった、と書いているように、著者も物足りなさを感じているからこの書名としたのだろう。 ぜひ、その先を読みたい。 言葉?態度?表情?そのどれも、嘘をつくことが可能だ。 そしてそれを本当の意味で見抜くことが出来る人はどれくらいいるのだろう。 それが対人であれば確かに確かめようはあるかもしれない。 では、動物は? 今あなたの隣にいる、猫や犬や馬があなたを信頼し、愛していると何で判断するのだろう。 私はこの本を読んで、「合意」とはなんなのだろうかとぐるぐると頭の中を駆け巡った。 相手が笑顔だったから、嫌だと言わなかったから、なんだかんだ受け入れたから、いいよと言ったから。 その言葉にどれほどの本心があるのだろう。 人は言葉をしゃべる、同じ生き物だから態度の意味もわかる。 でも、それが真意かどうかまではわからない。 この本を読むと、私は今までどれくらい相手のこと考えられていたのだろうかと振り返ってしまう。 何も否定しなくていいと思う。 多分、人間は進化の過程で脳がそのように「進化」してきたのだろう。 いろんな人がいるものだ、ということ。 それでいい。 ドイツの犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」の話である。 自ら性暴力の被害者であった著者は、ズーたちと寝食を共にしながら、会話やインタビューを重ね、行動を観察し、愛やセックスや暴力について考えていく。 人間以外の動物と対等である、ということは可能なのか。 異種間での対等な関係性とは、人間の解釈に過ぎないのではないか、という疑問もあるし、本当のところは知れない。 ただ、人間以外の動物の異種間での対等な、あるいは恋愛のような関係性も実際には観察されることもあるわけだし、人間と動物の間であっても可能なのかもしれない。 しかし、動物は語らない。 私たちは、自分以外のことについては、基本的には言葉でもってしか認知し得ない。 本書を通じて感じること、それは人間というのは、とてつもなく多様であって、基本的にそれでいいということ。 それがいいということ。 自分を試される本、だと思う。 本書は「動物との性行為を選ぶ人々、ズー」を対象として、我々が盲目的に信じ込んでいるテーゼに揺さぶりをかける。 なぜ彼らは動物を選ぶのか、どのような性行為が実際には行われるのか、それは動物虐待ではないのか、という様々な疑問を、数年に渡るズーとの生活を元にまとめられている。 自身が自明と信じ込んでいることが実は全く違うのだということをここまであからさまに示してくれる読書体験はそうそうない。 読む前と読んだ後で世界が違って見える。 動物とのセックスと聞けば嫌悪感を示す人が大多数でしょう。 私もそうでした。 しかし著者がセックスを含めた「動物を愛すること」について丁寧に取材した結果から浮き彫りになる事実がかなり論理立っているため、動物の性欲について認識を改めざるを得ない。 言われてみれば当たり前なんだけど動物にも性欲が存在して、それを受け止めるのが同種の動物なのか異種の人間なのか、それだけでしかない。 では、なぜ嫌悪感を持ってしまうか?それはペット自体がどれだけ年を取ろうとも、人間はペットのことを子どもと認識しているから。 (ペットの去勢文化も影響している)その結果ペドフィリアと同一視されてしまう。 逆に動物性愛者の多くはセックスを伴うか伴わないかに問わず、動物を成熟した存在と考えて、水を飲みたい、食事をしたいと同じように性欲に対して自然に接している。 それはある種保守的とも言える愛の形であるというのが、「1周まわってそうなる?!」といった驚きがある。 ズーフィリアと呼ばれる動物性愛者からなるドイツの団体セータに所属するメンバーを中心に、彼らの家に一定期間宿泊し紋切型のインタビューに陥らない形で引き出した様々な証言が上記で述べた著者の見解をどんどん紡いでいく過程がスリリングだった。 そして本著は「動物とのセックス」という矮小化された「ゲテモノ」扱いされるような本ではなく、もっと広く、セックスとは?愛とは?という議論にまでリーチしているところが興味深い。 それはひとえ冒頭でカミングアウトされる著者の背景があってこそ。 これだけ身を切って書かれたノンフィクションは読んだことがない。 犬や馬と性交すると聞くととても暴力的に感じていたが、この本に出てくるズー(動物性愛者)達から感じるイメージは全く逆。 彼らは驚くほど動物と対等であろうとする。 言葉を介せずノンバーバルなコミュニケーションで動物達と自然な性行為を行う。 なので、彼らは必ずしも挿入や性行為そのものにこだわらない。 ズーとは動物と対等なパートナーでいたいという生き方なのだろう。 筆者の被DV体験が対比として語られた時にそれは明確になる。 言葉が通じる人と人の恋愛だからといって、私達は対等なコミュニケーションを取って恋愛をしているとは限らないのだ。 動物性愛から全ての愛に通じる大事なものを感じられる良書。 ぜひ多くの人に読んでもらいたい。 フリーズしたのは、書かれているモチーフに衝撃を受け、そしてページから動物の臭いが漂ってくるような気になり、なんで、自分はこの本読んでんだっけ?と思ってしまったからです。 なんかソファーの上でもベットの上でも読みたくない気分になり、でもほとんど電車の中で読んだのですが、とにかく凄い本でした。 途中で放棄しなくてよかったです。 この本を読んでの変化。 LGBTとか、ダイバシティとか時代のキーワード軽々しく口に出来なくなったこと。 自分の中にある排他性を感じてしまったこと。 その排他性を時代はどんどん煽ってくること。 そして、小説でも論文でもなくノンフィクションじゃなきゃ書けないことがあるってこと。 作者、濱野ちひろから目を離せなくなったこと。 動物性愛者に対するコミュニケーションを自分のトラウマから構築し、セックスの問題を超えて人間のコミュニケーションの問題まで考察する一歩一歩の積み重ねに、結果ズッポリ巻き込まれてしまいました。

次の

「聖なるズー」書評 人間の定義揺さぶる真摯な問い|好書好日

聖なる ズー

作品内容 【2019年第17回開高健ノンフィクション賞受賞作】犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。 性暴力に苦しんだ経験を持つ著者は、彼らと寝食をともにしながら、人間にとって愛とは何か、暴力とは何か、考察を重ねる。 しかし読み進めるにしたがって、その反応こそがダイバーシティの対極にある「偏見、差別」であることに気づいた。 この作品を世間がどのように受容するのか、楽しみである。 こんな読書体験は久しぶりだ。 Posted by ブクログ 2020年05月20日 ドイツの動物性愛者達にただインタビューするのではなく数日共に生活して話をする文化人類学的なアプローチを重ねる。 犬や馬と性交すると聞くととても暴力的に感じていたが、この本に出てくるズー(動物性愛者)達から感じるイメージは全く逆。 彼らは驚くほど動物と対等であろうとする。 言葉を介せずノンバーバルな コミュニケーションで動物達と自然な性行為を行う。 なので、彼らは必ずしも挿入や性行為そのものにこだわらない。 ズーとは動物と対等なパートナーでいたいという生き方なのだろう。 筆者の被DV体験が対比として語られた時にそれは明確になる。 言葉が通じる人と人の恋愛だからといって、私達は対等なコミュニケーションを取って恋愛をしているとは限らないのだ。 動物性愛から全ての愛に通じる大事なものを感じられる良書。 ぜひ多くの人に読んでもらいたい。 Posted by ブクログ 2020年03月09日 動物との性的な関係をもつ人々へのインタヴューを軸に、セックスについて正面から超ラディカルに考えていくノンフィクション。 文体はまさしく手慣れた「ライター」のそれであるが、もとが論文執筆のための調査であるので、学術的な目配りや抑制はきちんと効いている印象。 そして何よりも、観察者である著者自身が、なぜこの テーマに取り組む、その過程で自身がどうなっていったのかを自覚して、それをも読者に真摯に提示しているところが素晴らしいと思う。 242頁の「「セックスは本能的で自分ではどうにもできないもの」ではない。 セックスの本能が先にあってセクシュアリティが発生するとは限らない。 セクシュアリティを考えるとき、セックスとセクシュアリティの位置を逆転させることもかにうだ。 」という、一見常識外れの見解も、そこまで本書を読んでくれば、「そうかもしれない」と受け止めることができる。 Posted by ブクログ 2020年03月01日 最初にこの本を開いて一気に半分、読み進め…そこからフリーズ、なんか読めなくなってしまい、別の本を何冊か読み終えて、気合入れて再開してまた一気ということで読み終わりました。 フリーズしたのは、書かれているモチーフに衝撃を受け、そしてページから動物の臭いが漂ってくるような気になり、なんで、自分はこの本読ん でんだっけ?と思ってしまったからです。 なんかソファーの上でもベットの上でも読みたくない気分になり、でもほとんど電車の中で読んだのですが、とにかく凄い本でした。 途中で放棄しなくてよかったです。 この本を読んでの変化。 LGBTとか、ダイバシティとか時代のキーワード軽々しく口に出来なくなったこと。 自分の中にある排他性を感じてしまったこと。 その排他性を時代はどんどん煽ってくること。 そして、小説でも論文でもなくノンフィクションじゃなきゃ書けないことがあるってこと。 作者、濱野ちひろから目を離せなくなったこと。 動物性愛者に対するコミュニケーションを自分のトラウマから構築し、セックスの問題を超えて人間のコミュニケーションの問題まで考察する一歩一歩の積み重ねに、結果ズッポリ巻き込まれてしまいました。 Posted by ブクログ 2020年02月12日 自分と違うとかアブノーマル(異常なものに対する生理的忌避感)を理由に、知ることを放棄・反対する危険性を思い知る。 動物とのSEXは動物性愛とイコールではない。 ましてや獣姦と動物性愛は全く別物。 紹介されるズー(動物性愛者)達は動物含め誰も傷付けていない。 ただ心からパートナーを愛している。 そんな彼らを攻撃 ・否定する権利が一体誰にあるだろうか。 誰も傷付けない限り、セクシュアリティは自由であるべきだと感じた。 性は操縦できぬ本能と思っていたが自らズーになることを選ぶ人がいること、ほか、ズーにはパートナーの誘いが空腹と同じで自然とわかることには驚いた。

次の

聖なるズ- / 濱野 ちひろ【著】

聖なる ズー

第17回開高健ノンフィクション賞を受賞した、濱野ちひろさんの『聖なるズー』。 本作は濱野さんがドイツで出会ったズー(動物性愛者)たちを通して、セクシュアリティの多様なあり方について迫ったもの。 ズーたちは、共に暮らす犬や馬をパートナーとして、時に性行為にも及ぶ。 「動物とセックスをする」というと、ともすればスキャンダラスにとらえられがちだが、本書を読み終わると、そうした思いは見事に払拭されていることに気づく。 選考委員の藤沢周氏がいうように、「この作品は『セックス』のみの問題ではない。 それを超えて世界の 襞 ( ひだ )の多様さ、可能性を提示した物語でもあるのだ」。 濱野さんは、自身の性暴力の経験をきっかけに、愛とセックスに対する不信感と挫折感を根深く抱えてしまった。 それにまつわる苦しみをきちんと考えたいと思い、京都大学大学院に進学。 文化人類学を専攻する。 研究テーマとして選んだのが「動物性愛」だった。 そのスタート地点から、どのような経過を経て今回の作品に結実したのか。 学術調査のために訪れていたドイツから帰国されたばかりの濱野さんにお話をうかがった。 日本では動物とのセックスというと、「獣姦」という言葉がまっさきに思い浮かぶと思います。 獣姦を意味する英単語のbestialityは、もともと法律用語でした。 ベスティアリティは、動物とのセックスという行為そのものを差します。 その行為には、ときに動物に対する暴力的な態度や行動も含まれます。 一方で、動物性愛は医療領域の用語として生まれたものです。 動物性愛は、動物に対する心理的愛着に重きが置かれていて、動物に対する暴力的な行為は含みません。 以後、動物性愛という言葉は主に精神医学・性科学・心理学などの分野で使用されてきたという経緯があります。 人文科学の方面では、動物とのセックスについては、これまで文化人類学の一部の民族誌などでも取り上げられてきましたし、哲学などの分野でも議論されています。 でも、動物性愛者ひとりひとりに会い、その実生活を調査して論じるという文化人類学的研究は、これまでにもあまりないと思います。 いいえ、知りませんでした。 この研究テーマに取り組もうと思い始めたきっかけに、当時の指導教員からのアドバイスがあり、それが発想の種になりました。 指導教員から、獣姦を研究してみたらどうかと、あるとき言われたのです。 はじめはその提案に取り組む気はまったくありませんでしたが、妙に気になってしまったのも事実で、bestialityといった言葉で検索を続け、いろいろ調べていくうちに、動物性愛を意味するzoophiliaという言葉に出合いました。 先ほどお話ししたように、動物性愛は、動物に対する暴力的な行為は含みません。 また、2000年代以降、主に性科学の分野で、動物性愛は性的指向のひとつかもしれないと議論されていることも分かりました。 「動物を一方的に支配することもある獣姦について研究することは自分にはできないが、動物性愛の研究は面白そうだ」というひらめきがこのころに生まれました。 動物性愛という性愛のありかたには、セックスと愛についてのさまざまな難しさ、ねじれがあるように思えたからです。 調べ続けるうちに、本書で取り上げたドイツにある動物性愛者たちの団体「ZETA/ゼータ(寛容と啓発を促す動物性愛者団体)」に行き着きました。 当事者の話を直接聞けば、議論すべきことが明確になってくるだろうと思いました。 もともとノンフィクションを書くためにおこなったものではありません。 文化人類学的手法でフィールドワークを行い、その成果を修士論文と、そのほかの学術論文二本にまとめています。 さらにノンフィクションとして書き下ろそうと思った理由は、研究に至った個人的理由を掘り下げる必要があると感じたからです。 わたしは過去10年間、当時のパートナーからのドメスティック・バイオレンスと性暴力を経験しています。 その経験をいつか言葉にしなくてはならない、書かなくてはならないという思いがありました。 そもそも大学院でセクシュアリティ研究に携わろうと思ったのも、それが最大の理由です。 でも、論文では自己を開示する必要がありません。 一方、ノンフィクションでは、わたし自身がどのようにテーマに関わり、人々と関係を築き、何を発見したかということが重要になります。 調査の過程で、ズーたちと密接に付き合うなかで、彼らに対して真摯であるためには、わたし自身も率直でいなければならないと常に感じていました。 ノンフィクションというかたちであれば、自分も相手も裸になって話し合った内容を紡ぎ合わせていくことができます。 『聖なるズー』では、わたしが見た現実を、素直に書くことを心がけました。 ありがとうございます。 彼らはわたしに、普段は秘密にしていることまで話してくれました。 わたし自身、調査に実際に行く前はずいぶんびくびくして、どんな人たちなのだろうと不安に思っていましたし、彼らを理解できるかどうかさえわからない状態で調査を始めました。 でも、彼らの生活を間近で見るなかで、目が開かされたことがたくさんありました。 いまはもう、ズーという人々やズーというありかたを理解できますし、ある部分ではズーに共感しています。 調査を通して、ずいぶん自分自身が変わったと思います。 そうですね。 わたしの場合は、ドイツという、日本ではよく知られた国で、なおかつ憧れを持って旅行にいくこともあるような場所がフィールドでした。 ある意味で、すでに知っている気がする土地なのです。 けれども、よく知られた国や地域、身近な場所にも、かならず未知の領域があるはずだとわたしは思っています。 実際、ドイツにもたくさんの興味深い世界があり、知的冒険を叶えてくれるフィールドがあるんです。 ですから今も、ドイツでの挑戦は続けています。 動物に暴力を振るわず、また、動物の性を無視せずに、それを当たり前のこととして受け止めつつ、性を含めてケアをする。 そのときに実際の性行為があるかどうかはそれほど重要ではありません。 わたしがもっとも共感したズーたちは、「ズーになっていく」人々でした。 彼らは、生まれながらのズーではなく、ズーというあり方を知って共感し、自分もズーとなっていくんです。 そして、身近な動物の性を直視して、パートナーのいのちを「まるごと受け止めたい」と話し、実践します。 はい、そうです。 ズーたちは、パートナーとなる動物をとても大切にしますから。 たとえばミヒャエルという男性は、パートナーの犬が求めてこないので、セックスは一切しない。 また、セックスはせずにマスターベーションをサポートして、動物の性をケアする人々もいます。 さらに、ズーになる人々のなかには、まだ実際のセックスはしていない人もいます。 セックスをするかどうかより、相手の性をどう尊重し受け止めるかが問題なのです。 それは本当に重要なことだと思います。 ズーたちは動物といかに対等に接するかを試みているわけですが、果たして本当にそれができているかというのは、判断のしようがないことでもあります。 試みているだけでも、十分だとわたしは思っています。 誰かと対等であるという意識を貫いていくのはそう簡単なことではありません。 常に相手と対等であり続けて、どんな瞬間もそれを守り続けるというのは、人間同士でもものすごく難しいと思います。 それでも、対等な関係でなくなった瞬間に、相手の存在がとてももろいものになってしまうとわたしは感じるんです。 自分の過去を振り返ってみると、どうしてわたしは対等でない扱いに甘んじていたのだろうと思います。 相手との関係が対等ではないということだけで、本来は怒っていいし、逃げていい。 とてもシンプルなことなのに、わたしはそれをしなかったんですね。 少なくともズーたちは、動物のパートナーたちとどうにか対等になりたいと思っています。 身体も脳も違う動物という存在と人間が対等であるというのは、理解されがたいことかもしれません。 けれども、それを追求しているのがズーたちです。 そんな彼らのありかたを本書では詳しく書いています。 人間関係でもそうですが、お互いの立場などを抜きにしても、いつもシーソーゲームのように力のやりとりが生じる。 日々、相手と対等であるべきだ、ということを念頭に置いていなければならないのだな、と強く思うようになりました。 対等であること抜きには、相手の存在を抱え込むことはできませんから。 本書に出てくるエドヴァルドという30代の男性は、ゼータの設立メンバーの一人であるミヒャエルのブログを読んで、自分は「病気」ではない、ズーというセクシュアリティのあり方があるんだと知り、すごく励まされたと言っていました。 インターネットの隆盛とズーというセクシュアリティの顕在化は関係が深く、もともと誰にも言えずに孤独を感じていた人たちが、オンライン・コミュニティを通じてつながり、徐々にカミングアウトが進んでいったという経緯があります。 ゼータもオンライン・コミュニティの側面が強く、メンバーたちはチャットなどを頻繁にしながら、支え合っています。 そうであれば嬉しいです。 わたしがこのテーマを論文で書くようになって、実は「自分も犬から性的なアプローチをされたことがあり、戸惑っていたけれど、少し理解ができるようになった」といったことを打ち明けられることが何度かありました。 日本ではまだ動物性愛という言葉は浸透していませんし、ズーというありかたも知られていませんが、身近な動物との関係を考えるときに、ひとつの問題提起となればいいなと思っています。 まだまだだと思います。 ここから相当踏み込んでいかないと、見えてこないことばかりだと思います。 遠いというより、広い。 広すぎてまだほんの入口のところでウロウロしている感じです。 つい昨日まで、ズーではないテーマでのセクシュアリティ研究のためにドイツに二カ月ほど行っていましたが、毎日驚くようなことばかりで、何をどうまとめたらいいものか、頭の中がごちゃごちゃしています。 人間のセクシュアリティというのは、どうしてこんなに生殖から離れてしまっているんだろうなとは思います。 いい側面をいえば、人間のセクシュアリティってここまで充実して、ここまで自由に楽しい。 そういうことを、この二カ月の間に何度も目にしてきました。 手応えは感じています。 調査をすれば毎回、迷路にはまります。 けれどもその迷路で思う存分迷いながら、論じてみるとおもしろいんじゃないか、という気がします。 これからもきっちり取り組んでいきたいです。

次の