働か ざる もの 食う べから ず。 働かざるもの食うべからずよって英語でなんて言うの?

「働かざるもの食うべからず」と言う人は自分で自分の首を絞めている

働か ざる もの 食う べから ず

下記はある本で語られた「人のマネジメント(活用法)」についての一節。 なお、原文が長いので、適宜中略している。 *************************** 第一に、既に述べたようにいい働きにはきちんと報いることで、 これは何度強調してもしすぎることはない。 さんざん苦労したのに怠けていた者と同じ食事しかもらえないとしたら、 どんな者でもやる気をなくす。 彼ら一人ひとりに長期目標を持たせることも重要である。 第二に、役割分担を明確にするといい。 分担が明確になれば責任の所在も明らかになる。 なお、彼らはグループで働かせると仕事が早くなり、集中するようになり、出来も良くなる。 管理人や作業長など、彼らの中でも上に立つ者たちには 特別な報酬を与えて士気を高め、いっそう精を出すように後押しするといい。 妻子を持てば腰を据えて仕事に取り組むようになり、 あなたの家の繁栄に貢献したいと思うようにもなる。 また彼らの立場にふさわしい敬意を示してやれば、心をつかむこともできる。 彼らが徳高く勤勉になるように願っていても、実際に彼らを働かせるには、 時には力づくでわからせるしかない場面も出てくる。 反抗的な者に理屈は通じないし、動物と同じで鞭を使わなければ 態度を変えさせることはできない。 *************************** あなたはこれを読んでどのように感じただろう。 この本のタイトルは「奴隷のしつけ方(太田出版刊・マルクス シドニウス ファルク著)」という。 引用にて「彼ら」「者」とした部分は、原著では「奴隷」となっている。 ちょうど一年前、アイドルグループSMAPの解散騒動について、この本を引用した論評があり話題になった。 「奴隷のしつけ方」は、架空の古代ローマ人(マルクス シドニウス ファルク)が 奴隷の管理方法を語るという体裁をとっている。 史実をネタに、話を「盛っている」感は否めないが、なかなか興味深い内容だ。 人のマネジメントは数千年前も今も、本質的に変わらないのだろうか。 しかし、これは「奴隷」についてである。 いわゆる「ブラック」な会社・団体での恣意的で杜撰な労務管理の下で 心身を損ねる人が後を絶たず、もはや一部の特殊な例ではないと。 と書きながら、「何をいまさら・・・」と思うのは私だけはないだろう。 これは昔から見て見ぬ振りされてきた「勤め人あるある」のダークサイド。 「綺麗事だけじゃ世の中渡れねぇーんだよ」。 「あのさぁ、いちいち法律守ってたら会社潰れんだけど」。 「黒を白と言いくるめるのが正しい組織人」。 「休んだら損害賠償もんだよ、責任取れるの?」。 「いやなら辞めてもいいよ」。 そういう暴言を前に、正論を振りかざしたところで結局損するのは自分。 口を噤(つぐ)んで唯々諾々とするのが賢い大人。 働くとはそういうことなんだ、と。 働くとは、自分(の心)を殺して命を切り売りした対価を得ること。 給料は我慢料。 自分の好きなことで食うなんぞ、甘ったれた考えだ。 そういった勤労観・就労観が、日本にはまだまだ根強く残っている。 高度成長期を最前線で仕切ってきた成功体験(「鬼十則」みたいなもの)を 正しいと信じている人間と、それを「仕方がない」こととして 受け入れる人間がいる限りはなくならないだろう。 この違いをご存知だろうか? その明快な答えが、約60年前の著作にある。 ドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントによる「人間の条件 」。 やや難解な本なので、もし読むなら その解説本(「ハンナ・アーレント」現代書館刊・ 杉浦 敏子著)の方がまだ読みやすい。 (それでも慣れない言い回しが多いけど) アーレントは、その思索において 人間の生活を「観照的生活」と「活動的生活」とした。 前者は永遠の真理を探究する哲学者のそれであり、 後者についてはあらゆる人間の活動力を合わせたもので そこには「活動」、「仕事」、「労働」がある。 簡単に言うと、 「活動」は、自発性をもった、純粋に好きでおこなう行動。 「仕事」は、報酬が理由であっても、強制ではなく職人的な気概と誇りをもってやる行動。 「労働」は、生きるために仕方なくやる行動。 作業や処理、苦役に従じるイメージ。 そして人間の行動として、活動>仕事>労働、の順に質が高いものとし、 さしあたっては、苦役である労働を仕事に変えていかねばならない、とした。 古代ギリシャ、ローマ時代、「労働」は奴隷が担い、 「活動」ないし「仕事」は自由市民が行うことであった。 しかしとりわけ産業革命以降、経済が社会の中心活動になるとともに 多くの人々は1日の大半を「労働」に費やすように。 いつしか「人間の本質は労働をすることにある」となった。 これは人間の望ましい姿なのか。 人間らしくあるためには「仕事」と「活動」と「労働」とが バランスよく保たれている必要がある、とアーレントは考えた。 子供の頃、だらだらしていると親から小言として言われた。 きちんとできない子は、立派な労働者になれない。 何か道徳的な格言かのように、思われているが 調べると、元はレーニンが社会主義を実践する上で 守らないといけない掟として使った言葉だという。 もともとは社会主義体制下で有効な理屈である。 日本国憲法では、たしかに国民の三大義務に「勤労」があるが、 自由・民主主義に依拠する国の憲法に 勤労が国民の義務として規定されているのは異例だという。 確かによく考えると、国の運営には資金源としての「納税」があればよく、 それが何によって生じるかまでを規定する必要を感じない。 「勤労」が「納税」の拠り所である必然がない。 はるか昔、生きるために人は自分で自分の食料を確保すればよく、 食が足りれば、あとは寝ていようが遊んでいようが自由で 他の誰かから「食料確保」を強要される言われ(道理)はなかったはず。 ここで食料確保は労働ではないのか、という疑問が浮かぶが 労働と呼ぶには「指揮命令」が要件として必要になる。 単に食料確保の必要が生じたので「行動」したというだけである。 やりたくなかったら、ひもじくても我慢すればいい。 義務ではない。 ちなみに、戦前の憲法(大日本帝国憲法)での義務は 納税と兵役の2つであった。 戦後新憲法で戦争の放棄を記す以上、兵役はありえない。 代わりに何かないか?ということで「勤労」が上がった。 戦後復興において「労働」は重要な資源であるので、国民啓蒙に好都合じゃないか。 などという想像をしたが、どうやら当時の政治イデオロギーの争論を 官僚が苦し紛れにまとめた「妥協の産物」が正解のようだ。 本来であれば「労働の権利」だけでいいものを 一部の思惑によってスターリン憲法の思想の一部が取り込まれ 「勤労の権利と義務」という趣旨不明で、 都合でいかようにも解釈できる玉虫色規定になった。 憲法論議は、ややこしい側面も多く、あまり深入りしたくない。 憲法は、賢人たちが整然としたロジックと哲学の上に考え 構築したものだ、と勝手に(期待を持って)思っていたが、そうでもないらしい。 なので、日本の労働慣習(またそれを形作る商習慣)を変えようと思うなら ここに切り込まないと、表層的な変化で終わるだろうと思う。 まずは「生存」と「働く(労働)」を切り離して成立するようにする必要がある。 それができなければ「労働者」は「奴隷」と同義のままだ。 指揮命令に従わなければ、それは「死」を意味するという環境が どうして「人間らしい生き方」になるのか。 「働かざる者食うべからず」はまさに呪いの言葉である。 大昔(それこそローマ時代)なら、人でないと出来ない労役がほとんどで 生活インフラとしての労働者(奴隷)が「必要悪」だっただろう。 しかし、これからはそういった部分はAIやロボットを駆使した テクノロジーで置き換えできるはず。 AIやロボットが仕事を奪うという「脅威論」があるが 「生存」と「働く(労働)」の分離が行われ 「生存」が別に担保されれば(例えばベーシックインカム)、反対者はいなくなると思う。 ベーシックインカム論は、その原資が疑問視されるが つい先日、世界富豪トップ8人の資産が貧困層36億人分と同じ、という記事があった。 あるところにはあるのだ。 あとは再配分のしくみの問題だ。 そんなことをしたら、みんな怠けて働かなくなって それこそ「亡国の道」だ、という意見もあろう。 いやいや。 このままでもう既に亡国という棺桶に片足突っ込んでますよ、日本は・・・。 付け加えるなら、そこに「教育」の意味があるはず。 戦後以降の日本の教育は「立派な労働者」にするためのもの。 「生存」と「労働」の分離が実現できた後は 生きてゆく上で「怠惰」がなぜダメで、ならばどう生きるべきなのかを 新たな価値観の上で教えてゆけばいい。 教育の話は長くなるので、また別の機会に・・・。 それが唯一にして最大の要諦。 とは、言うものの一足飛びにそこには行けない。 さしあたっては、「労働」に費やす時間を減らして行くのがいい。 日本企業での週休2日制は、1988年改正・1997年に完全施行となった 労働基準法第32条によって実現できた。 (ただし「三六協定」が抜け穴になって、それが様々な問題の原因になっているが) それを推し進めて、週休3日制とか週休4日制とか。 当然そのためには生産性を上げる知恵や 思い切った決断が求められるだろうが、 日本人得意の漸次改善でもなんとか出来るのではないかと。 24時間営業や正月営業といった商習慣を見直す動きも出てきている。 実効性は疑問だが「プレミアムフライデー」とか。 「そんなことになったら、休みの日にすることがない」。 もしあなたがそうであるなら、重篤な「社畜」状態だ。 ちなみに「奴隷」は始終労働のみだったと思われがちだが 「余暇」や「祭りへの参加」なども認められていたそうだ。 そう、誠に申し上げにくいが「社畜」は「奴隷」以下。 「労働」以外の時間を「休息」や「享楽」だけで終わらせず、 夢中で打ち込める、楽しめる何かを探すこと。 個人としてやるべきは、まずそこではないかな。 今年の抱負がまだであるなら、それをオススメしたいと思う。 ということで、本年もよろしくお願い致します。 菊水電子工業株式会社 ウェブマスター 藤川 貴記.

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働かざるもの食うべからずよって英語でなんて言うの?

働か ざる もの 食う べから ず

これは、一応聖書にも出てくる文章で、 英語がちょっと古めな雰囲気がありますが、以下になります。 ---------------------- He who does not work, neither shall he eat. ---------------------- もうちょっとシンプルにするなら、 ---------------------- He does not work shall not eat. ---------------------- です。 また、僕でしたら、 もうちょっと一般的な英語を使い、以下のような方針で訳します。 ---------------------- Eating is a privilege for those who work. (食べることは、働く者の権利。 ) ---------------------- ---------------------- Food is earned, not given. (食べ物は、働いて得るもの。 ) ---------------------- ---------------------- Don't work? Don't eat. (働かないのなら、食べないで良し。 ) ---------------------- 状況に合わせて色々変えてみるといいです。 またご質問ありましたら聞いてくださいね~ yoshikoさんへ こんにちは。 既に別のアンカーさんが回答されて いらっしゃいますので、私からはご参考までに別表現を 紹介させて頂きます。 (既にご存知かもしれませんが、「不定詞」という 文法です。 ) ・・・少しでも参考として頂けますと幸いです。 LLD外語学院 学院長 前川 未知雄.

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「働かざる者食うべからず」の本当の意味とは?

働か ざる もの 食う べから ず

無駄なものが許されない集団は滅びる 中野信子氏(以下、中野):もう1つ、「祝祭」ということの意義ですね。 これって、個体がただ命を永らえて生き延びるためだけだったら、必要ないかもしれない。 しかしながら、集団が集団として生き延びるためには必ず、絶対に必要です。 無駄なものが許されない集団は滅びます。 長谷川祐子氏(以下、長谷川):もう一度言ってください、先生。 中野:ああ、大事なところですからね。 無駄なものが許されない集団というのは滅びます(笑)。 遠山正道氏(以下、遠山):上司にも聞かせたいですね。 (会場笑) 中野:そうか。 確かに、遠山さんがやっていることは、そういう意味では非常に先駆的ですね。 遠山さんの試みとは対極にある、無駄なものが許されない社会というのは、「働かざる者食うべからず」の社会ですね。 「働かざる者食うべからず」の社会というのは、何か。 目に見える、目先の利得の大きさ、効率のよさを追求するという戦略を是とする社会です。 それ以外の寄り道を、無駄であり悪とする。 短期的には、確かに「働かざるもの食うべからず」のほうが、ほかのやり方よりもずっと迅速に華々しい成果を上げることができるでしょう。 集団同士、国同士の実戦なら、そのやり方のほうが勝利により近いかもしれない。 けれども、そのやり方をいつまでも続けることは難しい。 サステイナブルではなく、適応的な期間は非常に早く終わりを迎えます。 利得の大きさや効率といった単調な目標だけを重視するパラダイムは、たった1つの要因で滅びてしまう社会を作り上げかねない、という脆弱さがある。 私たちは、こんなコストをかけてまで、有性生殖をやっているわけですから、やっぱり多様性を保持する方向にいないと滅びてしまう種なんだということは、ちょっと考えれば自明だと思うんです。 多様性を保持できない集団はもう、その都度、歴史の中で滅びていっていますよね。 遠山:本当に上司に聞かせてあげたい。 (会場笑) 現生人類と滅んだネアンデルタール人の違い 中野:(笑)。 多様性が保持できなくて滅びた集団の例は、ちょっとレイヤーは違う話になるかもしれませんけれど、ハプスブルク家ですね。 遺伝子の多様性を失って、最後は遺伝的な疾患で滅びた。 長谷川:それも、やっぱりウイルスなり遺伝的な病気で感染すると、それで全部が途絶えてしまうという。 中野:文化的にもそういうことが起きただろうと。 おそらく、集団には「無駄を許す」ことを、象徴的に行う必要があるんです。 その作業をやっている集団とやっていない集団では、やっている集団のほうが生存適応的であっただろうと考えられる。 それが祝祭が残ってきたことの意義、淵源だろうと。 イスラエルの研究チームが、約5万5000年前には現生人類はネアンデルタール人と共存していたという説を発表しています。 しかし、やがてネアンデルタール人のほうはその数を減らし、集団としては滅んでいきました。 現生人類とネアンデルタール人には、いったいどんな違いがあったのか。 最近発表された、東大と名古屋大学博物館などの合同研究チームによるリサーチでわかったことですが、約4万年前、西アジアでネアンデルタール人と現生人類がそれぞれ集落を作り、近くに居住していた。 しかし、現生人類の遺構からだけ、あるものが見つかったんです。 それは、食用にならない貝の貝殻でした。 彼らの居住地は内陸乾燥域です。 そして、その貝は、そこから数十キロ離れた紅海でしか採れないのです。 この研究のほかにも、現生人類の特徴として、海岸からかなり離れた場所で貝殻が見つかることは知られていますが、その貝殻がどうやら象徴としての役割を果たしていたということが興味深いところです。 象徴品として用いていたという行動が何を意味するのか。 ものと交換するための貨幣としてなのか。 もっと別の象徴品として、装飾に使われたり、地位や権威を表すものとして使われたりしていたのか。 いずれにしても、非常におもしろい。 「食べられる」という目先の利益でなく、「美しい」という感覚を価値を持っていたということを、これらの発見が示しているからです。 つまり、「美しい」を価値として採用した集団のほうが、現在も生き延びているというわけなんです。 普段とは違う空間・環境に身を置く大切さ 遠山:その非生産的なものによるカタルシスというのは、お二人それぞれにあります? 年に一度のカタルシスというのは? 長谷川:年に一度のカタルシス? 遠山:なんだかそれをやらないと、まずいと思うんですよ。 滅びていくと思うので(笑)。 (会場笑) 長谷川:そうですね。 カタルシスを得るためには、普段とは違う空間や環境に自分の身を置くことが大切だと思います。 日常を振り切るための環境としても、アマゾンというのは最適でした。 本当に7年ぶりくらいで行きましたが、最後には、ジャングルで周りが何も見えないところをガイドの背中だけを信じて歩いていく、という。 なんか「コブラの香りがする」と言われて立ち止まるとか。 あとはダイビングですね。 海もわけがわからない場所ですね。 魚や水中生物はまったく別のスピードで動いているので。 そういうことを年に1回、必ずやっています。 遠山:そもそもブラジルに行かれたのは、特段理由があってというよりも、理由がないぐらいの感じで? 長谷川:アートのリサーチで行きました。 現地の人たちの生活の知恵や美意識が近代化の中でどのように変化しているのかを調べるということです。 でも、年に1回は、そういう制御できない場所に自分を置いてみることで、自分がいかに傲慢で弱くて、自分を守れない存在であるかということを再認識する。 場所や彼らから多くのことを感じたり学んだりします。 だから、山籠りみたいなものでもいいと思います。 なにかそういう体験を通して自分の体に思い知らせないと。 自分の意識や感覚がうまくリセットできないという世界を感じ取るセンサーがどんどん鈍くなってしまうという感じはあると思います。 特にアートの仕事をしていなくとも自分の感覚の鈍化についての危機感は必要かと思います。 「苦手な人とのコミュニケーション」から得られる学び 遠山:なるほど。 中野さんは? 中野:私ですか? 「ちょっと苦手な人としゃべる」という。 (会場笑) 遠山:おぉ〜(笑)。 それはちなみに……? 中野:あの、ちょっと……これWebに載っちゃうんですよね? 遠山:載ります。 ははは(笑)。 中野:まぁ、いいかな。 メディアに出るというのは、意外と私にとってそういうハードルになっている部分があってですね。 予期しない人がその場にいたりすると、もちろん会いたかった人もいるんだけれども、「あっ、この人ちょっと苦手かな」という人がまれにいるんですね。 ごくまれにね。 (会場笑) でも、そういう方とどういうふうにコミュニケーションをしたらいいかなと考えることが、すごくおもしろいというか。 別に生きていくためだけだったら、そういう人は避けて通ればいいので、目先のことだけ考えればまったく無駄なんですけれど、長期的に見ればとっても学びがあったりするんですね。 もしかしたら、その学びは何にも生かされないかもしれない。 けれども、非常に刺激的でおもしろいものなんですよ。 その楽しみは、私はちょっと手放せないなと思っています。 刺激的ですね。 遠山:わかりました。 すみません、私に同じ質問をしてくれますか? (会場笑) アートに関わることで、社長業から自分をリセットする 長谷川:はい。 遠山さんはカタルシス体験というか、1年に1回でも何か自分をリセットすることってありますか? 遠山:めっちゃ優等生的な答えで「アート」ですね。 (会場笑) ビジネスをフィールドにしていて、芸術祭などにスマイルズという会社が作家として作品を出しているんですね。 これはなかなか説明がつかないわけですよ。 私、社長で株主ですけれど、うまく説明できん。 ちなみに、最初に越後妻有の「大地の芸術祭」をやった時に、我々はビジネスがコンテキストだから、あえて記者会見を無理やりやったんですね。 その時に「今は理解されないけれども、5年後には『あの時スマイルズがアートをやっていてよかったね』と言われるようになりたいなぁ」って言ったんですよ。 今4年目ぐらいで。 でも、もはやスマイルズとアートって切れない感じになっているなと思っています。 だから、「じゃあ、それはなんなの」ということを問うための、このカンファレンスだったりするのかもしれませんけれどもね。 「非生産的なことがなければ滅びる」ということだったんですね。 今日、学びました。 (会場笑) 人類は、集団を作って生き延びるほかない存在 長谷川:先日の中野さんのお話で、たった1人ではアートは成立しないと。 1つの社会やコミュニティがあって、アートは成立するという話をされていましたね。 中野:ちょっと繰り返しになっちゃうんですけれども、個体が生き延びるためだけなら、アートはおそらく必要ないだろうと思います。 だけれども、人類って、実は1人だけ生き延びても意味がないんですよね。 私たちは有性生殖をするし、少なくとももう1人異性がいないと子どもは作れない。 つまり、子孫が続いていかない。 それで、さらに言えば、人間は非常に脆弱な肉体を持っているので、1人で戦って勝てるような種ではないんですね。 残念ながら、猛獣と戦って勝てるような強さはほとんどの人は持っていないし、逃げ足も遅いし。 まぁ、そういうことができるのは、武井壮さんぐらいじゃないですか(笑)。 (会場笑) そうなると、集団を作って生き延びるほかにないんですね。 武井壮さんは男性ですけれども、子どもを作るのは今のところ女性であって、妊娠して、子どもを孕んで、しかも子育て中の子どもがいたりすることもある。 これではとてもじゃないけど、外敵と肉体的に戦える状態ではない。 現代社会なら事情は変わってくるでしょうけれども。 インフラも整っているし、もっと未来になればもしかしたら子育てロボットとかできてですね(笑)。 なんか全部機械化されて、なんなら子どもを人工子宮が産んでくれるようになったら、ずいぶん事情も変わってくるかもしれません。 が、まだそういう状態ではない。 そうなると、いまだに我々は、集団で自衛し、子孫を残すことを念頭に置きながら、社会を形成して生きなければならない状態に置かれている。 アートを必要とする存在のほうが適応力が高い 中野:この時代に都市生活者として生きていると、とってもいろんなことが自分の意志ひとつでコントロールできるような錯覚があるでしょうし、もしかしたらあまりピンと来ないのかもしれない。 本当は警察も自衛隊も水道もガスも電気もコンビニも宅配も、誰かの力に頼っているのだけれど。 都市インフラがすごすぎて、自分ひとりで生きていけるような感じが強くなってしまう。 そういう思考ですと、まぁ、究極的には「普段の生活にはアートなんていらないよね」というところに行きついてしまうんでしょうね。 ここに来られた方は、そうじゃないかもしれないけど。 ただ「アート」という言葉も定義が曖昧ですよね。 ちょっと自分の生活とは縁遠いものというふうに思っている人もいるかもしれない。 でも、人類の存在にとっては必須のもので、個体の生存と種の保存と、その間の均衡を調整するものというふうに捉えるとおもしろい現象が見えてくるんですよ。 3,000年ぐらい歴史を回すと、アートのある集団とない集団では、アートのある集団の方が適応的だということがわかるでしょう。 先史時代の例を尋ねなくとも、ない集団のほうが長期的に見て脆弱であることは容易に予測がつくはずです。 遠山:では、先ほどの質問をもう1回繰り返すと、「『アートのない世界』で人は生きられるのか?」という質問に対しては、まず「ノー」ということですね。 そこをもうちょっと補足ありますか? 中野:補足するともっと長くなります......。 (会場笑) 現代人にとってのアートの価値 遠山:わかりました。 先ほどの質問をお二人からお聞きしたんですが、わりと概念的だったり、古い人類の歴史からの考察だったと思います。 もうちょっとキュッと現代に。 今の現実の中で「アートがないと生きられない」「アートがあるからこんなに自分たちはがんばれる」とか、そのへんの(お話があれば)……。 みなさん、今日はアートになんらか興味のある方が集まってきていただいているとは思うんです。 でも、相変わらず「アートってなんだっけ?」という感じがあると思うので、そのへんを現代に引き戻していただいて。 長谷川:そうですね。 お見せしたこのスライドは、昼間から午後のセッションでお話に出た、石上純也さんの現代美術館でやったプロジェクトです。 「四角いふうせん」というテーマで、本当に立体が浮いてるんです。 これは中が薄い鉄骨の構造になっていて、外がアルミで貼ってあって、要は4階建てのビルディングが浮いているという状態を示しているんですね。 中にヘリウムが入っていて浮いている。 そのビルディングに当たる巨大な立体の表面が周りをリフレクションしながらゆっくり回るという、ちょっと信じられないようなもので。 「建物ってこうだよね」という概念を変えてしまう。 空間体験を変えるということが、石上さんにとっての建築の概念なので。 それで、これは最後まで浮くかどうかは、ヘリウムを入れてみないとわからなかったんですけれど、まぁギャンブルのようなものにいつも付き合わされていて。 アーティストと仕事をすることは「動物使い」または「ギャンブル」とも言えるかもしれません。 どちらに向かって、どこまで走っていくかわからないということで。 まぁ、そういう動機ですよね。 やっぱりワンダー(驚き)ですね。 自分たちの見知っているものが変容することへの驚き。 空間の概念を変容させるアート作品 遠山:これ(「四角いふうせん」)、ご覧になった方いらっしゃいます? 長谷川:だいぶ前のやつですが。 遠山:これは本当に静止しているのがすごいですよね。 長谷川:それはそれはゆっくりと動いています。 遠山:ゆっくり動いてね。 でも、これ言っちゃうとあれですけど、ちょっと下がペロッとなっちゃってたりして。 あのへんの芸術が……(笑)。 (会場笑) 長谷川:ご愛嬌で(笑)。 遠山:ははは(笑)。 でも、本当に痺れますね。 僕は石上くんの(作品の)中で一番素敵だなと思いますね。 これは一応、建築ですか? 長谷川:はい、建築という概念で。 これは空間の概念を変容させることだと彼は言っています。 非常にはっきりとした考え方を持った人ですね。 遠山:はい。 じゃあ先ほどの質問で、「現代においてアートが何を与えてくれるか」ということで言えば、空間の概念を変容させることが可能であると。 長谷川:もう1つは、やっぱり知っているものをどう変えていくのか、変容させるのか、という。 1つのワンダーですよね。 遠山:なるほど、確かに。 誰も思いつかないものを現実の形で目の前に突きつけるのは、本当にすばらしいと思いますね。 長谷川:この作品ですと、ゆーっくりと回るので、ある意味で見ていて癒されるような、安らぎとメディテーションを与えてくれるので。 なんだか丸の内のオフィス街に勤めている人が昼休みにわざわざ見に来たという、嘘のような話があるんですけど(笑)。 遠山:なるほど。

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