半田 風天会 事件。 【若頭】高山清司伝説part2

自白調書の読み方74

半田 風天会 事件

豊橋事件 豊橋事件 【事件概要】 1970年5月15日深夜、愛知県豊橋市の文具店が出火、半焼させ、焼け跡からこの家の母子3人が遺体となって見つかった。 母親は強姦された形跡があり、放火殺人と断定された。 事件から3か月後、同店店員の男性が逮捕され、全面自供を始めた。 焼けた2階10畳間からは妊娠5ヶ月の妻・みつるさん(35歳)、長男・敏彦ちゃん(2つ)、次男・充彦ちゃん(1つ)の3人の遺体が発見された。 子ども2人は性別も判別できないほど黒焦げであったが、みつるさんは両足が焦げている程度だった。 みつるさんは上半身が血まみれで、下半身は裸という姿。 電気コードで絞殺されており、右耳後ろに3カ所、前に1カ所に裂傷傷がある。 死因はみつるさんが首を絞められたことによる窒息死、死亡推定時刻は出火直前の15日午前1時前後。 子ども2人は焼死だった。 そして1階、2階とも、よく物色した形跡があった。 豊橋署はこれを放火殺人と断定した。 子ども2人はすでに眠っていたらしくパジャマ姿。 みつるさんはまだ起きていたのか、普段着だった。 みつるさんの両足は、約90度に開かれており、下着は左足から脱がされ、右腿にからまっていた。 遺体には着物類、その上に新聞紙や布団3枚がかぶせられ、そこを放火されていた。 主人の証言から、家からは手提げ金庫の中の現金12万円、みつるさんの運転免許証が入った財布、結婚指輪などが紛失していた。 文房具店は豊橋駅新幹線口から600mのところにあり、西は市道を挟み市立羽根井小学校、道路を挟んだ北側に羽根井公園、東と南側には民家がそれぞれ並んでいる。 主人の増田さんは事件当日、取引先の人と大阪の万博に行っていて不在だった。 増田さんが結婚後に家を空けたのは親族と旅行に行った日だけで、犯行は内部の事情に詳しい人物ではないかと見られた。 【店員逮捕】 文房具店には2人の店員がいた。 そのうち1人はMさん(当時21歳)と言った。 Mさんは68年に同店に就職、300mほど離れたアパートに下宿していたが、食事は風呂などは増田さん方にお世話になっており、まだ幼い増田さんの子どもたちも彼になついていたようだ。 Mさんは事件直後、豊橋署に呼ばれ、8時間にわたって事情を聞かれた。 そして昼からは、火事場の検証の立ち会いに呼ばれたのだが、この時顔や手に不審なひっかき傷があるのを確認された。 これが疑いの第一歩であった。 みつるさんの乱暴しようとして、抵抗された際についた傷と見られたのである。 内偵捜査が始まる。 22日になってMさんは「事件前日の夕方、店に靴下を忘れてきたように思う」と言った。 事件現場の流し台の食器洗い桶には、男物靴下一足がなぜか入ったのだが、それがMさんのものだったのである。 事件直後にMさんが靴下のことを言い出さなかったことで、さらに怪しまれた。 5月26〜28日、Mさんが任意出頭を求められ、取り調べを受けた。 しかし全体的に供述はあいまいで、答えも二転三転した。 28日にはポリグラフ検査をしたが、やはり反応があいまいだった。 6月12日にも2度目の任意出頭。 Mさんの主張したアリバイは次のようなものだった 「事件当夜はバスケットボールの練習をして、そのまま下宿に帰り、テレビを見て寝た」 見ていたテレビ番組は11時10分から始まる「11PM」。 ところが隣室のH君の「僕は11時半過ぎに帰ったが、森の小型自動車は帰ってなかった。 12時まで起きていたが森が帰った形跡はなかったテレビはついていなかった」と証言した。 Mさんのアリバイは崩れた。 8月25〜27日、Mさんに対する3度目の任意出頭。 この3日間の取り調べで、Mさんはバスケットの練習の帰りに、増田方に寄ったことを認めた。 この他にも「みつるさんから性教育を受けた」と日記帳に記していたこと、残虐かつ性的な雑誌を読んでいたことなどが逮捕の要因となった。 8月28日、Mさんが逮捕され、29日から一部を自供しはじめ、9月3日に完全自供、同18日に強姦致死、殺人、放火、窃盗容疑で起訴された。 逮捕直後の記者会見で捜査本部長は「犯行現場にMさんの靴下があったこと」「アリバイの不在」「Mさんの顔面、手の甲のひっかき傷」などから逮捕状を請求したと発表している。 自白の内容はだいたいにおいて次のようなものだった。 『事件当夜、Mさんは珍しく増田さんが不在のこの日に普段から親しいみつるさんと肉体関係を持ちたいと思って、バスケットボールの練習後に車(ホンダN360)で同店を訪れた。 しばらく2階でテレビを観ていると、みつるさんがラーメンを作ってくれた。 異性経験のなかったMさんは、その後ドキドキしながら子どもが寝るのを待った。 その後、Mさんは寝室でお乳をあげるみつるさんに欲情し、抱きついたが、「何するの!」と突き飛ばされた。 Mさんは無我夢中でみつるさんに馬乗りになり、顔面を殴りつけ、電気コードで首を絞めた。 みつるさんの体が動かなくなると、衣類などをかぶせて顔を殴り、体を弄んでいるうちにパンツの中で射精した。 そして物盗りによる犯行と見せるために遺体に布団をかぶせ、財布を盗ったうえで放火した』 【記者と刑事の奮闘】 同年11月4日に開かれた名古屋地裁豊橋支部の初公判では犯行を全面的に認めたMさんだったが、翌71年3月17日の第2回公判では否認に転じた。 公判は検察側ペースで急ピッチに進められていた。 残虐な犯行であり、Mさんに死刑判決が下されるのはほぼ間違いないものと見られた。 この頃から豊橋母子殺し事件の真相を知るべく奮闘した人物がいる。 毎日新聞・椎屋紀芳氏と中村署の現職刑事・奥野正一氏である。 ある日、椎屋記者のところに奥野刑事が訪ねてきた。 その帰り際、 「あのさ、豊橋の母子3人殺し放火事件のM君なあ、ありゃ犯人じゃないぜ」 と言い残した。 椎屋記者も奥野刑事もこの事件の担当ではなかったが、奥野刑事によると、捜査に関わった多数の刑事が「Mはシロだ」と言い続けているのだという。 その話を聞いた後、椎屋記者はMさんと面会しに行ったが、Mさんはそこでも「自分はやっていません」ときっぱり言った。 1972年1月4日、椎屋記者は、愛知県警捜査一課・神谷太一郎警部補方を訪れた。 裁判中であったため、神谷警部補は詳しく語ることはできなかったが、ただ一言 「半田の二の舞は動かんな・・・」 と漏らした。 巡査殺しの犯人として、地元の不良グループ7人が逮捕されたが、のちに神谷警部補の私的捜査で真犯人がつきとめられた事件だった。 それから1週間も経たないうちに、地元不良グループ「知多風天会」のメンバー7名が、不法監禁、暴行、恐喝などの容疑で別件逮捕される。 捜査本部は事件直後から「風天会が前夜逮捕された仲間を奪い返そうとした」と見たのである。 メンバーは逮捕容疑に関しては素直に認めたが、警官刺殺については「全く知らない」「身に覚えがない」と否認した。 その後、1ヶ月が経過してもこれといった自白も得られず、捜査員の中からは「やはり風天会は無関係ではないか」という声も出た。 しかし特捜本部はこれを聞き入れず、さらに取調べを厳しくした。 8月はじめ、7人のうち6人が「仲間を取り返そうと署に侵入して、警官ともみ合いになり刺した」という内容の自白をはじめた。 しかし、自白があったにも関わらず凶器は発見されず、自白したメンバーも次々と撤回しはじめた。 12月5日、県警は警官殺人を名古屋地検に送致したが、21日になって工員の少年(17歳)が自首してきた。 手には凶器の短刀、そして格闘のなか彦坂巡査に引き千切られて片袖のない背広の上着が握られていた。 県警にとっては思わぬ真犯人の登場だった。 これは当初から「風天会はシロ」と主張していた捜査1課警部補・神谷太一郎の追跡の賜物だった。 取り調べに異議を唱えた神谷警部補は取り調べから外されたが、彦坂巡査が引き千切った布きれから、私的に部下に調べさせ、ついに少年をつきとめた。 椎屋記者は続いて、事件を担当した刑事にも事情を尋ねて歩いたが、彼らは「言えばクビだから」と言った調子で口を閉ざした。 だが最後には口をそろえてこう言っている。 「天日さんのところへ行ったか。 わしらはあの人と同じ考えだから・・・」 捜査の中心人物だった「捜査の天様」こと天日政次氏。 事件直後の5月15日朝、「増田さん方の事情に最も詳しい人物」として豊橋署に呼ばれたMさんの事情聴取を行ったのが天日氏だった。 当初から「Mはシロではないか」と考えていた。 彼は部下や同僚に対しては人懐っこい性格だったが、捜査に関しては口の固い人物であった。 椎屋記者も玄関払いされる日が続いた。 1972年4月某日、椎屋記者は奥野刑事と会い、天日氏を証人として呼ぶことを相談、そのために多忙で2度しかMと面会していない弁護士を代えることを話し合った。 奥野刑事は豊橋署勤務ではないため、直接捜査に関わった人物ではないが、第2回公判でMさんの全面否認があって以降、この事件に取り組み始めた。 以来、仕事の合間をぬって故郷の豊橋に赴き、Mさんと面会したり、病気の彼の父親の世話をしてきた。 定年退官したあとも、独自の再捜査をおこなってきた。 【冤罪】 (刑事たちの証言) 椎屋記者の熱心な聞きこみの結果、口の固い刑事たちだったが、有力な情報もあった。 Mさんの自白では、劣情をもよおして犯行を窺っている時で、話などはしていなかったことになっていた。 みつるさんの運転免許証を盗られた理由 みつるさんの車にしか使えないキー、ネーム入りの指輪。 強盗犯に見せるにしても、不可解な被害品。 また捨て場所についてMさんの自供も転々とし、結局これらの品々は発見されていない。 別な所で2人の刑事が調べているのを、O係長がMさんから見えない所で調書にしていた。 うち5人は「シロ」、O係長は「クロ」、残る1人がうやむやという結果。 担当警部もMさん逮捕の後にそのことに気づいて驚いていた。 また12万円を奪ったことになっているが、あの夜店にはまとまった現金は置かれていなかった。 取引銀行で預金不足になる心配のある日で、みつるさんとMさんは1日中駆けずり回って集金をしては、Mさんが入金に行っていた。 午後10時頃、主人が大阪から家に電話をかけてきた時も、このことを心配する内容だった。 逮捕はもう少し待った方がいいんじゃないですか」と幹部に申し出た人もいたが、幹部は「お前は知らなかったことにしておけ」と聞き入れられなかった。 それ以降も幹部に「Mはシロです」と言う刑事はいたが、幹部から「いつまでもそういうことを言ってると、山に上がってもらうぞ(僻地に転勤してもらう)」という意味のことを言われた。 (自白 テレビ番組をめぐって) 自白についても不審な点があった。 「バスケットのあと、まっすぐ午後11時10分か15分の間に家に帰り、テレビを見た」 それは「11PM」(日本テレビ系)という番組で、「強い者が勝ち」というテーマで、ピラニアが金魚を食べ、人間がそのピラニアを食べるという映像だった。 Mさんは「赤いピラニアが映っていた」と説明した。 どこかの店に寄って見たことも考えられるが、当時はみんな閉店していた。 だから被害者宅で見ているはずである」とした。 つまり途中から見ていた。 また「犯行前に増田さん宅でカラーテレビを見た」と自白調書にあるが、当日に限って「11PM」は白黒放送であったことがわかると、Mさんは「白黒だったかもしれない」と言い換えた。 そんな感じで、調書の内容は次々に内容が変わっていった。 (男物のパンツ) そしてMさんがシロであることの最大の根拠として、血液型の問題がある。 みつるさんの陰部には男物パンツ(下着)をが当ててあった。 パンツは唯一の物証と言ってもいいもので、墨で名前を書いた跡があったのだが、持ち主はわからない。 サイズから増田さんのものではなかったが(Mさんにしても同様だった)、近所の主婦の「みつるさんが妊娠中だから男物のパンツを履いてると言っていた」という証言があった。 このパンツには精液らしきシミがあった。 鑑定によると精液かどうかははっきりしなかったが、血液型はB型。 それに対しMさんはA型だった。 この事実が明らかにされたのは無罪確定から5年後のことだった。 つまり、この無罪の証明になることは公判の間は極秘にされていた。 このパンツの捜査がなかなか進まなかった頃、O係長班の担当していたMさん身辺捜査の方が進展、そうした障害をとりのぞき、Mさん逮捕近づいていった。 血液型の違いは決定的な証拠であるが、捜査に関わったある警部は法廷で次のように証言した。 もはや引くに引けない雰囲気が伝わる、苦しい主張となる。 「(パンツに付着していたものは)前の夫婦生活でついたものかもしれないし、子どもの汗か小便がついたのかもしれない。 (捜査体制) 事件から2ヶ月経った7月、捜査を指揮してきた主任官に加え、もう一人の警部が主任官となった。 これは事実上の更迭である。 さらに捜査員も増やされた。 実は半田風天会事件でも、捜査一課主任官に、暴力団担当の四課主任官が据えられミスをしていた。 【天日証言】 1972年7月、弁護士が国選から私選に替わった。 半田風天会事件も担当した郷成文弁護士である。 弁護人らは無罪要求の冒頭陳述を行う。 1973年12月12日、第24回公判。 ついに天日氏を弁護側証人として呼ぶことに成功した。 定年退官を待ってのもので、元刑事が検察側でなく弁護側に立つことは異例中の異例であった。 そして真犯人でない人物が、「真犯人である」と嘘の自白をすることもあるということを、刑事の職にあった人が証言したのである。 この天日証言について、刑事たちはこう言った。 「天日さんは、思っていることを半分もいわなんだなあ。 Mの死刑を防ぐことだけでいいと考えたんだな。 あの人が何もかもぶちまけてくれれば、捜査幹部たちをやっつけてしまうこともできたんだが、それはしなかったなあ」 それまでの情勢を覆す証人喚問から裁判はさらに半年続いた。 その間、疑問点は次々と挙げられていった。 そして1974年6月12日、「Mさんは犯人になり得ない」と無罪判決。 事件から4年が経過していた。 怪しい怪しいというだけでは犯人ではない 新しい事実が出なければダメだ 犯人ならば、捜査をすれば新事実が出てくる 出て来んのは犯人にはなり得んのだ、ということを言った (天日証言より。

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自白調書の読み方75

半田 風天会 事件

自白調書の読み方75 「自白調書の読み方」2013. 18 2011年1月〜 宮道佳男 任意性を否定した例 浦和地裁平成3年3月25日判決 覚醒剤取締法違反 判例タイムズ760-261 この件で否認しても、前の尿で出ているから起訴する、否認したら重くなる。 母親が認めろと言っている、母親が警察から刑務所へ行かせてくれ、被告人がいなくても一家団欒していると言っている、とウソをついた。 任意性否定の根拠とされた。 浦和地裁 平成3年5月9日証拠取調請求却下決定 判例タイムズ764-271 町長に対する贈賄者の取調で、妻が町長に面談したことをとらえて「女房を使って鳩まで飛ばして、女房を逮捕する、弁護人の証拠隠滅だから資格剥奪。 お前が認めれば女房も弁護人も助けてやる」と脅かした。 よく似た例として、おびき尋問、カマ掛け尋問がある。 自白 真実への尋問テクニック 1990年 Fインボー・Jリード・Jバックリーぎょうせい によると、 被疑者に「被害者宅の隣人が、当夜君の車が被害者宅前に駐まっているのを見た」と尋問する。 無実の被疑者ならば、駐車自体を否認する。 しかし「ちょっと駐めただけでそのまま帰りました」と弁解したら、取調官は被疑者の顔色を読んで合点がゆくと、嫌疑の確信を強める。 被疑者が最初犯行を否認していたとき、「被害者宅に立ち寄ったこと自体を否認していたのに、何故だ」と追求します。 「金庫から君の指紋が出たんだよ。 以前にうっかり金庫に手を付いたことはなかったかね」 取調官は被疑者が日記を書く癖があるのか、知らないのに「君の日記は何処にあるのか」と尋問する。 もしも「君は日記を書くのか」と尋問すると、被疑者は否定するかも知れない。 取調官が既に日記のことを知っているのかと被疑者に思い込ませるのです。 「君はAを知っているか」と尋問するより「君はいつからAを知っているのか」と尋問した方が効果的とされる。 その時、取調官は書類を見ながら尋問する方が、被疑者の不安感を掻き立てるから良いとされる。 「犯行時間帯に何処にいたか」との質問、被疑者は「高速道路をドライブ中」と答えた。 取調官「その時間には交通事故があり、大渋滞だったが、どうしたね」と質問する。 被疑者は何と答えるか。 「渋滞なんか知らない」と答えるか。 高速道路での渋滞は日常茶飯事だから、犯行の日の渋滞のことは思い出さない。 取調官の尋問に合わせるために「大分遅延しました」と答えるかも知れない。 実際には渋滞はなく、取調官のカマ掛け尋問だとすると、取調官は、カマに掛かった被疑者を冷笑し、有罪を確信する。 被疑者はカマを掛けられて落とし穴に落ちる。 取調官はカマを掛けたつもりで、自分の掘った落とし穴に落ちるのです。 「渋滞なんか発生していないのに、していたと答えたお前は嘘つきだ」と責めるのです。 このように、アメリカでは合法とされているカマ掛け尋問は、真実発見のために、被疑者の為にも取調官の為にも、とても危険なもので、禁止されなければなりません。 官は嘘を言うべからず。 弁護士は、カマ掛け尋問が為されたと、取調官の証人喚問を請求するでしょう。 ただ、有能な取調官は、カマ掛け尋問を絶対に自白調書の中に残さない。 取調官が被疑者に嘘を付く機会を与えることは合法です。 取調官が分かっていることを分かっていないように装い、何気なく質問する。 事件日が雨だと分かっていても、「天候はどうだったね」と質問して、回答を確かめる。 嘘を付く機会を与える余裕と技術。 晴れだと教えてはいけません。 帰宅時間が23時と分かっていても「帰宅時間は何時」と質問する。 インボー=リード小中信幸訳尋問の技術と自白 洗脳 記憶の混乱を利用した催眠術的詐術 富士高校放火事件 「人間は酒を飲むと、やったことを全部忘れてしまうから、お前も自分では放火など絶対にしていないと言っているが、無意識のうちにフラフラ起き出して知らないうちに放火して家に帰って寝てしまった」と繰り返し繰り返し洗脳していると、被疑者もその気になってしまった。 「お前は記憶がないと言うが、放火したかしないかはどちらでもいいから、もしお前が冨士高へ行って放火するなら、どうするか、考えてみよ」 その気にさせられた被疑者は自分が犯人との仮定の上に立って想定を話すと、取調官はそれを自白調書に取った。 自白調書には「仮定のうえ」は書かれず、被疑者がやったというふうに書かれてしまった。 被疑者は取調官の詐術に気が付かない。 取調官のこのやり方は結構多い。 豊橋母子殺人事件、半田風天会事件.

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豊橋事件

半田 風天会 事件

1970年5月15日午前1時45分頃、愛知県豊橋市八通町の文具店・増田政明さん方から出火し、1時間後、住宅兼店舗の2階50㎡を焼いたところで消し止められた。 焼けた2階10畳間からは妊娠5ヶ月の妻・みつるさん(35歳)、長男・敏彦ちゃん(2つ)、次男・充彦ちゃん(1つ)の3人の遺体が発見された。 子ども2人は性別も判別できないほど黒焦げであったが、みつるさんは両足が焦げている程度だった。 みつるさんは上半身が血まみれで、下半身は裸という姿。 電気コードで絞殺されており、右耳後ろに3カ所、前に1カ所に裂傷傷がある。 死因はみつるさんが首を絞められたことによる窒息死、死亡推定時刻は出火直前の15日午前1時前後。 子ども2人は焼死だった。 そして1階、2階とも、よく物色した形跡があった。 豊橋署はこれを放火殺人と断定した。 子ども2人はすでに眠っていたらしくパジャマ姿。 みつるさんはまだ起きていたのか、普段着だった。 みつるさんの両足は、約90度に開かれており、下着は左足から脱がされ、右腿にからまっていた。 遺体には着物類、その上に新聞紙や布団3枚がかぶせられ、そこを放火されていた。 主人の証言から、家からは手提げ金庫の中の現金12万円、みつるさんの運転免許証が入った財布、結婚指輪などが紛失していた。 文房具店は豊橋駅新幹線口から600mのところにあり、西は市道を挟み市立羽根井小学校、道路を挟んだ北側に羽根井公園、東と南側には民家がそれぞれ並んでいる。 主人の増田さんは事件当日、取引先の人と大阪の万博に行っていて不在だった。 増田さんが結婚後に家を空けたのは親族と旅行に行った日だけで、犯行は内部の事情に詳しい人物ではないかと見られた。 文房具店には2人の店員がいた。 そのうち1人はMさん(当時21歳)と言った。 Mさんは68年に同店に就職、300mほど離れたアパートに下宿していたが、食事は風呂などは増田さん方にお世話になっており、まだ幼い増田さんの子どもたちも彼になついていたようだ。 Mさんは事件直後、豊橋署に呼ばれ、8時間にわたって事情を聞かれた。 そして昼からは、火事場の検証の立ち会いに呼ばれたのだが、この時顔や手に不審なひっかき傷があるのを確認された。 これが疑いの第一歩であった。 みつるさんの乱暴しようとして、抵抗された際についた傷と見られたのである。 内偵捜査が始まる。 22日になってMさんは「事件前日の夕方、店に靴下を忘れてきたように思う」と言った。 事件現場の流し台の食器洗い桶には、男物靴下一足がなぜか入ったのだが、それがMさんのものだったのである。 事件直後にMさんが靴下のことを言い出さなかったことで、さらに怪しまれた。 5月26~28日、Mさんが任意出頭を求められ、取り調べを受けた。 しかし全体的に供述はあいまいで、答えも二転三転した。 28日にはポリグラフ検査をしたが、やはり反応があいまいだった。 6月12日にも2度目の任意出頭。 Mさんの主張したアリバイは次のようなものだった 「事件当夜はバスケットボールの練習をして、そのまま下宿に帰り、テレビを見て寝た」 見ていたテレビ番組は11時10分から始まる「11PM」。 ところが隣室のH君の「僕は11時半過ぎに帰ったが、森の小型自動車は帰ってなかった。 12時まで起きていたが森が帰った形跡はなかったテレビはついていなかった」と証言した。 Mさんのアリバイは崩れた。 8月25~27日、Mさんに対する3度目の任意出頭。 この3日間の取り調べで、Mさんはバスケットの練習の帰りに、増田方に寄ったことを認めた。 この他にも「みつるさんから性教育を受けた」と日記帳に記していたこと、残虐かつ性的な雑誌を読んでいたことなどが逮捕の要因となった。 8月28日、Mさんが逮捕され、29日から一部を自供しはじめ、9月3日に完全自供、同18日に強姦致死、殺人、放火、窃盗容疑で起訴された。 逮捕直後の記者会見で捜査本部長は「犯行現場にMさんの靴下があったこと」「アリバイの不在」「Mさんの顔面、手の甲のひっかき傷」などから逮捕状を請求したと発表している。 自白の内容はだいたいにおいて次のようなものだった。 『事件当夜、Mさんは珍しく増田さんが不在のこの日に普段から親しいみつるさんと肉体関係を持ちたいと思って、バスケットボールの練習後に車(ホンダN360)で同店を訪れた。 しばらく2階でテレビを観ていると、みつるさんがラーメンを作ってくれた。 異性経験のなかったMさんは、その後ドキドキしながら子どもが寝るのを待った。 その後、Mさんは寝室でお乳をあげるみつるさんに欲情し、抱きついたが、「何するの!」と突き飛ばされた。 Mさんは無我夢中でみつるさんに馬乗りになり、顔面を殴りつけ、電気コードで首を絞めた。 みつるさんの体が動かなくなると、衣類などをかぶせて顔を殴り、体を弄んでいるうちにパンツの中で射精した。 そして物盗りによる犯行と見せるために遺体に布団をかぶせ、財布を盗ったうえで放火した』 同年11月4日に開かれた名古屋地裁豊橋支部の初公判では犯行を全面的に認めたMさんだったが、翌71年3月17日の第2回公判では否認に転じた。 公判は検察側ペースで急ピッチに進められていた。 残虐な犯行であり、Mさんに死刑判決が下されるのはほぼ間違いないものと見られた。 この頃から豊橋母子殺し事件の真相を知るべく奮闘した人物がいる。 毎日新聞・椎屋紀芳氏と中村署の現職刑事・奥野正一氏である。 ある日、椎屋記者のところに奥野刑事が訪ねてきた。 その帰り際、 「あのさ、豊橋の母子3人殺し放火事件のM君なあ、ありゃ犯人じゃないぜ」 と言い残した。 椎屋記者も奥野刑事もこの事件の担当ではなかったが、奥野刑事によると、捜査に関わった多数の刑事が「Mはシロだ」と言い続けているのだという。 その話を聞いた後、椎屋記者はMさんと面会しに行ったが、Mさんはそこでも「自分はやっていません」ときっぱり言った。 1972年1月4日、椎屋記者は、愛知県警捜査一課・神谷太一郎警部補方を訪れた。 裁判中であったため、神谷警部補は詳しく語ることはできなかったが、ただ一言 「半田の二の舞は動かんな・・・」 と漏らした。 巡査殺しの犯人として、地元の不良グループ7人が逮捕されたが、のちに神谷警部補の私的捜査で真犯人がつきとめられた事件だった。 椎屋記者は続いて、事件を担当した刑事にも事情を尋ねて歩いたが、彼らは「言えばクビだから」と言った調子で口を閉ざした。 だが最後には口をそろえてこう言っている。 「天日さんのところへ行ったか。 わしらはあの人と同じ考えだから・・・」 捜査の中心人物だった「捜査の天様」こと天日政次氏。 事件直後の5月15日朝、「増田さん方の事情に最も詳しい人物」として豊橋署に呼ばれたMさんの事情聴取を行ったのが天日氏だった。 当初から「Mはシロではないか」と考えていた。 彼は部下や同僚に対しては人懐っこい性格だったが、捜査に関しては口の固い人物であった。 椎屋記者も玄関払いされる日が続いた。 1972年4月某日、椎屋記者は奥野刑事と会い、天日氏を証人として呼ぶことを相談、そのために多忙で2度しかMと面会していない弁護士を代えることを話し合った。 奥野刑事は豊橋署勤務ではないため、直接捜査に関わった人物ではないが、第2回公判でMさんの全面否認があって以降、この事件に取り組み始めた。 以来、仕事の合間をぬって故郷の豊橋に赴き、Mさんと面会したり、病気の彼の父親の世話をしてきた。 定年退官したあとも、独自の再捜査をおこなってきた。 (刑事たちの証言) 椎屋記者の熱心な聞きこみの結果、口の固い刑事たちだったが、有力な情報もあった。 Mさんの自白では、劣情をもよおして犯行を窺っている時で、話などはしていなかったことになっていた。 みつるさんの運転免許証を盗られた理由 みつるさんの車にしか使えないキー、ネーム入りの指輪。 強盗犯に見せるにしても、不可解な被害品。 また捨て場所についてMさんの自供も転々とし、結局これらの品々は発見されていない。 別な所で2人の刑事が調べているのを、O係長がMさんから見えない所で調書にしていた。 うち5人は「シロ」、O係長は「クロ」、残る1人がうやむやという結果。 担当警部もMさん逮捕の後にそのことに気づいて驚いていた。 また12万円を奪ったことになっているが、あの夜店にはまとまった現金は置かれていなかった。 取引銀行で預金不足になる心配のある日で、みつるさんとMさんは1日中駆けずり回って集金をしては、Mさんが入金に行っていた。 午後10時頃、主人が大阪から家に電話をかけてきた時も、このことを心配する内容だった。 逮捕はもう少し待った方がいいんじゃないですか」と幹部に申し出た人もいたが、幹部は「お前は知らなかったことにしておけ」と聞き入れられなかった。 それ以降も幹部に「Mはシロです」と言う刑事はいたが、幹部から「いつまでもそういうことを言ってると、山に上がってもらうぞ(僻地に転勤してもらう)」という意味のことを言われた。 (自白 テレビ番組をめぐって) 自白についても不審な点があった。 「バスケットのあと、まっすぐ午後11時10分か15分の間に家に帰り、テレビを見た」 それは「11PM」(日本テレビ系)という番組で、「強い者が勝ち」というテーマで、ピラニアが金魚を食べ、人間がそのピラニアを食べるという映像だった。 Mさんは「赤いピラニアが映っていた」と説明した。 どこかの店に寄って見たことも考えられるが、当時はみんな閉店していた。 だから被害者宅で見ているはずである」とした。 つまり途中から見ていた。 また「犯行前に増田さん宅でカラーテレビを見た」と自白調書にあるが、当日に限って「11PM」は白黒放送であったことがわかると、Mさんは「白黒だったかもしれない」と言い換えた。 そんな感じで、調書の内容は次々に内容が変わっていった。 (男物のパンツ) そしてMさんがシロであることの最大の根拠として、血液型の問題がある。 みつるさんの陰部には男物パンツ(下着)をが当ててあった。 パンツは唯一の物証と言ってもいいもので、墨で名前を書いた跡があったのだが、持ち主はわからない。 サイズから増田さんのものではなかったが(Mさんにしても同様だった)、近所の主婦の「みつるさんが妊娠中だから男物のパンツを履いてると言っていた」という証言があった。 このパンツには精液らしきシミがあった。 鑑定によると精液かどうかははっきりしなかったが、血液型はB型。 それに対しMさんはA型だった。 この事実が明らかにされたのは無罪確定から5年後のことだった。 つまり、この無罪の証明になることは公判の間は極秘にされていた。 このパンツの捜査がなかなか進まなかった頃、O係長班の担当していたMさん身辺捜査の方が進展、そうした障害をとりのぞき、Mさん逮捕近づいていった。 血液型の違いは決定的な証拠であるが、捜査に関わったある警部は法廷で次のように証言した。 もはや引くに引けない雰囲気が伝わる、苦しい主張となる。 「(パンツに付着していたものは)前の夫婦生活でついたものかもしれないし、子どもの汗か小便がついたのかもしれない。 (捜査体制) 事件から2ヶ月経った7月、捜査を指揮してきた主任官に加え、もう一人の警部が主任官となった。 これは事実上の更迭である。 さらに捜査員も増やされた。 実は半田風天会事件でも、捜査一課主任官に、暴力団担当の四課主任官が据えられミスをしていた。

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