アミニズム。 アニミズムとは

アニミズムに関心があり、自然崇拝・自然信仰について調べたいと考えています。いつごろアニミズムという観...

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【 文化人類学による宗教研究】 文化人類学では、宗教という名の下に、何を研究するのか? 人は目に見えないもの(超自然的存在、精霊)や力の存在(呪術など) を信じ、 そのような人間の知識や能力をはるかにこえたものに畏れや感動を覚える。 幽霊は存在するのか? 心霊写真には何が写っているのか? 多くの文化では、目に見えない存在や力にどのように接し、 それとどのように付き合うかについての作法が人びとの間で共有されている。 はたして霊は本当にいるのか? 文化人類学はそのような研究をする学問ではない。 ある共通した信仰・信念を持っている人々が どのようにそのような現象を信じ、生活する上で どのようにそれが重要であるのかを記述・考察しようとする。 いわゆる 精霊信仰 である。 現生人類の脳は、さまざまな存在に対する 知識を結び合わせて、「石」や「木」などの無生物にも、 人間と同じように意思や意識のようなものが あると考えるようになった。 アニミズムは、現生人類が認知進化の過程で 流動的知性を獲得した結果として、 事物や事柄のうちに、人間と同じ性質を読みとって、 それらとの関係において、日常の現実を組み立てたり、 日々の問題を解決したりする手立てとして立ち現われた。 デスコーラという南米のアシュアルを調査した人類学者は、 アニミズムは、動物や神、精霊やその他の無生物 といった非人間的な存在が、人間との間で、 身体性は異なるが、 内面性において類似しているという事態を意味している と言う。 つまり、人間と人間以外の存在が、異なる身体性をもつが、 類似する内面性を有することである。 どういうことか? お化けと人間は、身体は違うけど、内面は同じ だということ。 たしかに、 お化けは足がないし、人間は足がある。 でも、感情の面では、お化けは人を羨んだり、 復讐してやろうとする点で人間と同じ。 要は、タイラー流のアニミズムでは、 人間と人間以外の存在との断絶が前提 とされて、両者がまず「きり」よく分けられた上で、 人間のもつ特質としての精神や魂が非人間の上に投影される。 人 人以外 精神、魂(内面性)を持つ存在 ふつうは精神、魂(内面性)がないが、人以外にも精神、魂(内面性)を読みとる考え方 = アニミズム それに対して、 人間と非人間は、はじめから内面性において通じている。 そうした 相互の内面性の連続性こそが、アニミズム なのである。 その意味で、非人間存在物への人間の性質の投影という、 タイラー流のアニミズム理解は、役に立たない 【アイヌのイヨマンテ】 アニミズムの一つの事例として、 アイヌのイヨマンテ(クマ送りの儀礼)を 取り上げよう。 アイヌ・モシリ ムックリ 竹製の口琴 トンコリ 伝統的な五弦琴 OKI-SAKHALIN ROCK アイヌのクマ猟 アイヌは、冬眠中のヒグマを狩る。 母グマは殺して食べるが、 子グマがいた場合、子グマは集落に連れ帰って育てる。 最初は、人の子と同じように家の中で育て、 赤ん坊と同様に母乳をやる。 大きくなると屋外の檻に移す。 ずっと、上質の食事を与えて育てる。 1年〜2年ほど育てた後、 集落をあげて盛大な送りの儀礼(イヨマンテ) を行い、子グマを屠殺し、解体してその肉をふるまう。 アイヌの解釈 イヨマンテは、熊の姿で人間の世界に やってきたカムイ(神)を丁重にもてなした後、 送りの儀礼を行って神々の世界に お帰り頂くものとして解釈されてきた。 熊を屠殺して得られた肉や毛皮は、 もてなしの礼としてカムイが 置いて行った土産であり、皆でありがたく頂く。 地上で人間にもてなされた 熊のカムイは、神の世界に戻った後も 再度肉と毛皮を土産にたずさえて、 人間の世界を訪れる。 人の世界の素晴らしさを伝え聞いた ほかのカムイたちも、クマとなって、 肉や毛皮とともに人の世界を訪れる。 それは、人間とヒグマ=神がともに 内面性においてはつうじているという意味での アニミズムである。 問い アイヌのイヨマンテとはいったい何か? アイヌは、なぜイヨマンテの儀礼をするのか? イヨマンテに関して、さらに理解を深めよう。 Neil G. Munro 1931 The Ainu Bear Ceremony. の一部を見よう。 <ビデオの4分21秒以降> それは、飼い育てたクマを残酷な方法で殺害し、 肉をみなで食べるという内容の儀礼であるが、 なぜアイヌの人びとが、そうしたことを しなければならないのか? そのような儀礼を行うことによって、何をしようとしているのか、 何を表現しようとしているのかを考えてみてほしい。 一つの回答 アイヌのイヨマンテは、人々の前に、 まさにこの「原光景」をまざまざとしめそうとするのです。 そのとき、アイヌの人々は、 熊の姿をして人間の世界に現われた神を見て、 その神をもう一度神の世界に送り返そうとします。 人間の世界は人間だけでつくられているものではなく、 人間を越えたもの、人間の外にあるものによって ささえられていることを、この儀礼ははっきりと表現しようとします。 それと同時に、 人間は動物を食べ、ほかの自然物を食べる ことによって、生きることができるのだ、 という条件をむき出しにして、しめそうとしています。 そして、 その食べ物がどこからもたらされ、またそれをもたらしてくれるものにたいして、 人間はどのような態度をとらなければならないのか、 ということについて、イヨマンテの儀礼は 明確な表現を行おうとしているのです。 つまり、この儀礼は宇宙の中でこの人間がどのような存在なのか、 ということを表現しようとする哲学であると同時に、 そういう存在がどのような生き方をしなければならないのか、 ということについての基準をしめそうとする倫理学でもあるのです。 中沢新一「映像のエティック」 せりか書房、1991年、292-3頁。 OBR大生によるイヨマンテ理解 2010年にも、文化人類学の授業でこれを取り上げて、 受講者に<小テスト>を行った (「何が分かったのかについて簡潔に書きなさい)」。 A.う〜ん! 【A-1】 イヨマンテの儀礼をする時には、本当に多くの人たちが協力し合っているということが分かりました。 大人から子供が全員の力を合わせてイヨマンテの儀礼をしていました。 熊に対する攻撃をする時でも集団で攻撃をしていました。 イヨマンテは、動物に関して独特の考えを持っていて、 文明の違い が分かりました。 そうした奇妙なやり方を、たんに「文明の違い」に還元してしまっているのではないでしょうか。 【A-2】 今の私にとっておかしい所もたくさんあるが、それは 文化の違い であり、人間の開き直りではないと信じるしかないと思った。 そこで考察が止まってしまうからです。 【A-3】 ただ自分の意見としては動物を殺す、物を壊すといった行為を神と神の世界に返すなどの理由をつけてやっているにすぎないのだと思いました。 人間は神という理由があれば平気で残酷な事をする人だなと思ったのが正直な感想です。 【A-4】 どうしても感情論的に見ると、人間の子供以上に大切に育てた熊を殺して食べるなんて、残酷だと思ってしまいました。 これはあくまで儀礼なので、アイヌの人々は心を痛めたりしないのでしょうか?儀礼に参加していた人々がみんなが、熊から少しも目をそらさずに、熊を見つめていたのが印象的でした・・・。 「熊から少しも目をそらさずに、熊を見つめていたのが印象的だった」ということの意味を考えてみてほしいのです。 なぜ、そうした華やいだ雰囲気のなかで、飼い育てた熊を殺すのでしょうか?残酷かもしれないけど、あえてその残酷さを目にすることによって彼らは何をしているのでしょうか。 そうした儀礼でしか表現することができない、人間の実存のあり方が、そこでは表現されているのではないでしょうか。 【A-5】 アイヌにしてみれば、自分たちがより良く生きるために必要な儀式なのだろう。 しかしボクは『逆の立場だったら』と考えてしまってしかたがない。 人間が、もし他の星へ行って人間を食す高度な生命体につかまり同じことをされたら・・・どうしてもそんな考えばかり頭にうかぶ。 あの映像を見て、それしか考えられなくなってしまった。 B.そうだ! 【B-1】 例えば、身近な所で言えば日本人は魚などを食べる時骨をしゃぶるくらいキレイに食べる。 このことについて私は父に『日本人は食べ物(動物)にも神がいて、自分達が生きていく上で殺して食べなくてはいけない。 だからこそ敬意を表していただくんだ』と聞いた。 【B-2】 現在の私たちは動物を殺すこと=残酷として背を向けている。 しかし何物も自然からの贈り物であり、それらのおかげで私たちは生きている。 イヨマンテは、『自然に感謝する』という当たり前な、しかし現代の私たちには忘れがちなことを思い起こさせてくれるものだった。 また、アイヌの人々はイヨマンテを行うことで(自分たちと関わる全てのものに)神として送り出していたことから、それが礼儀(エチケット)だと考えていたことが分かった。 そのことをイヨマンテが思い起こさせてくれるのですね。 【B-3】 イヨマンテの儀礼というのは、何も知らない人から見れば、ただのむごいだけの儀礼かもしれません。 しかしその行為の一つ一つにはとても深い意味があるということを知りました。 熊を神の化身として丁重にあつかい、その後神々の世界に返すために盛大な儀礼を行い、その熊を殺す。 この儀礼の中で、わたしはアイヌ民族の日々生きていけること、食事をできることへの自然に対する深い感謝の念を感じました。 現代に生きる私たちは、食事ができることが当たり前で、生命を殺し作った食べ物を平然と捨てる。 私たちとアイヌ民族、本当に野蛮なのはどちらか?深く考えさせられる儀礼でした。 【B-4】 この儀式は、自分達にめぐみを与えてくれる自然神に対して、アイヌの民族の人達の礼儀、思想の一部なのだという事がわかった。 一見残酷に見えるこの儀礼の中には、自分達のために利益を与えてくれる物達へのアイヌの人達の思いやり、感謝を表す一つの方法なのだということが理解できた。 なぜ?子熊を自分の子以上に可愛がって育てるのに、最終的に殺してしまうのかという事に対しては、その熊の器を借りてやってきた神に対して、心づくしのおもてなしをして、あちら側の世界(神々が本来あるべき場所)に気持ちよく帰ってもらうための行動なのだと言う事なのだと思った。 アイヌの儀式を通して、命を捧げてくれる物達へ、人間は本来どのようにあるべきなのかを教えてくれた。 【B-6】 イヨマンテは、人間として自然・動物たちと向き合うことの真実を伝えている。 人間はいろいろなものに支えられていて、キレイ言ではなく、そこと人間はどうつながっているのか。 今の人間が忘れてしまった、また避けていることをつきつけてくれる。 (LA3) 【B-7】 神を送り返す、また来てもらい肉や毛皮を持ってきてもらうという熊送りのイヨマンテ。 神を人間に豊かさを与えてくれるという、ある意味都合のいい解釈に感じたが、そこには熊をはじめ全ての自然に人間は生かされているという自然崇拝の形を見た。 小熊を育てるという点は、より大きくして肉を得るという利己的な面があるように思えたが、それよりも神をもてなす、感謝する、そして家族の一員として人間も神(自然)も同列にあり、だからこそ礼を尽くすことで対価としての豊かさを得ようという考えもあるように思った。 このようなアイヌの自然観、あるいは世界観をイヨマンテから理解することができると私は考えた。 わたしたちの当たり前(常識)を持ちこんで、異文化(他者)を 理解しようとしてはいけないのではないか。 あらゆる行動は、文化的なものであり、行動の違いを、 わたしたちとの文化・文明の違いに還元してはならないのではないか。 異文化(他者)の見方・考え方に寄り添って、内在的な観点から理解を試みるならば、 彼らのやり方がわたしたちの前に開かれてくるはずである。 池澤夏樹 『静かな大地』 朝日文庫 池澤夏樹のルーツともいうべき、 彼の祖先たちの北海道開拓の物語、 いや、読みようによっては、 和人とアイヌの交わりをめぐる 分厚いエスノグラフィー。 徳島との政争に敗れた淡路の武士たちは 明治維新以後、蝦夷地の静内に開拓民として入植、 宗形三郎と志郎の兄弟は現地のアイヌの人たちと 仲良くなり、アイヌ語を学んだ後に、 兄三郎は札幌の官園でアメリカ式の牧畜を学び、 静内でアイヌの仲間たちとともに馬の飼育を開始する。 そこで育てられた馬は軍馬として高い評価を得、 中央財界の重要人物の目に留まって 経営拡大を求められるが、三郎はその誘いを 和人のためのものであると見抜いて断る。 彼は、和人を裏切りアイヌの側に立つことを志して, 牧場経営を始めたのだった。 やがて彼は和人たちから睨まれるようになり、 さらには、妻の産褥死という不幸な出来事を経て、 自ら命を絶つ。 三郎を失った牧場はやがて没落する。 三郎は、なにゆえに、そこまでアイヌに 対して思いを寄せたのか。 作中で、三郎は、『日本奥地紀行』の作者、 イザベラ・バードに会って、 アイヌは気高き人びとであるという言葉に我が意を得る。 『静かなる大地』は、和人である三郎による アイヌという他者の理解の物語であり、 全体をつうじて、クマ送りをすることに対する 真の理解などを含めて、 自然のなかに生きるアイヌの人びとへの 共鳴が聞こえてくる。 訪れたことがある日高に吹く涼しい風を思い出した。 池澤夏樹 『熊になった少年』 スイッチ・パブリッシング アイヌのクマ送りが題材となっている。 トゥムンチという、 アイヌに抗する民族に生まれたイキリ少年は、 トゥムンチが、自分たちが強いと思っているために クマが獲れると思っている思い上がりに つねづね心を痛めていたが、 あるとき、猟に出かけて、クマの世界へとまぎれこむ。 そこで、アイヌが捕獲した子グマに対してするように、 クマたちがイキリを慈しみ育てて、ついには、 成長したクマとして、 イキリをクマのまま人間の世界に送り返すのである。 その後、クマであるイキリは、 トゥムンチである自分の父の矢に撃たれるのであるが、 そこで、ふたたび人間のイキリへと戻る。 イキリは母グマたちと暮らした日々を トゥムンチたちに語り、 クマ送りをするように頼んだが受け入れられず、 虚しさを抱えて、高い崖から谷底に身を投げ、 魂を正しい国へと送り込むのである。 私たちに糧を与えてくれる動物に対して、 自分たちの力のみを頼り、 感謝の念を忘れたトゥムンチの奢り に対する静かながら強い抵抗の念が、 本書全体をつうじて感じられる。 トゥムンチとは、実は、自らの力だけを過信し、 他者としての動物の痛みに思い至ることがない、 現代日本人のことなのではないかとも思えてくる。 映画<いのちの食べ方> 私たちが日々食べているものは、 どのように生産されているのだろうか? 畜産工場において、どのように食肉が 大量生産されているのかについて、 私たちは全く知らないということに気づく。

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「アニミズム」の意味とは?「シャーマニズム」との違いや例も

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ジャン・ピアジェ(Jean Piaget)はスイスの発達心理学者・児童心理学者で、20世紀の心理学の進歩に大きく貢献しました。 1896年8月9日にスイス・ヌーシャテルに生まれたピアジェ。 父はヌーシャテル大学の中世文献学の教授、母は信仰に厚いプロテスタントです。 早熟で研究熱心な子どもだった彼は10歳で白スズメの観察を論文にまとめ、「ヌーシャテル博物学雑誌」に発表しました。 19歳でヌーシャテル大学動物学科を卒業すると、ローザンヌ大学・チューリッヒ大学・パリ大学で心理学を学びます。 その後、各地の大学で心理学・児童心理学の教鞭を取り、1980年に亡くなるまで精力的に研究を続けました。 私生活では1923年に結婚し、3人の子どもに恵まれています。 ピアジェにとって、子どもたちの心身・知能の発達の観察も重要な研究材料だったようです。 ピアジェによって提唱された「認知発達理論」(または「発生的認識論(genetic epistemology)」)は、心理学のみならず教育学・哲学・生物学の分野にも影響を与えました。 認知発達理論は 人の知能・心理の発達を「生物的な成長」と「成長過程の中で知識・経験を重ねたことによる成長」の両面から考察したもの。 認知発達理論では、 認知力の成長を4つの段階に分けて考えます。 これが認知発達段階説です。 認知発達段階説において、0歳~12歳の子どもの認知力(知覚・記憶力・推理力・記憶力・言語能力など)の成長順序は、 個人差はあるものの普遍的なものだとしました。 この考え方はフロイト(Sigmund Freud)の「リビドー発達段階理論」、エリクソン( Erik Homburger Erikson)の「心理社会的発達理論」と並んで3大発達段階説とされています。 ピアジェの考えた4つの発達段階は 「子どもによって個人差はあっても、普遍的な順序で経験していく」というもの。 それぞれの発達段階を学ぶことで、子どもの成長に合わせた適切な接し方が見えてくるはずです。 ピアジェは人が生まれてからいろいろなものを認知し、学んでいく過程を 「シェマ」「同化」「調節」の3段階に分けました。 シェマ・同化・調節を「子どもに鉛筆を認知させる場合」に当てはめて考えてみましょう。 2歳児に黒鉛筆・色鉛筆・長さの違うものを組み合わせた数本の鉛筆セットを見せて、「これは鉛筆だよ」と教えます。 すると子どもは 色・長さが違うけれど共通点を見つけ「これらは鉛筆なのだ」と認識します。 これが 「シェマ」です。 次にボールペン・シャープペンシルを見せます。 子どもが「これも鉛筆でしょ」と言った場合、一度見た鉛筆から得た知識から「鉛筆っぽい」と予想したわけです。 このように シェマをほかのものと見込んで考えることを「同化」と呼びます。 その後「違うよ。 これはボールペン、こちらはシャープペンシルだよ」と教えることで、子どもは鉛筆・ボールペン・シャープペンシルを それぞれ別のものとして認識します。 これが 「調節」です。 0歳~2歳の乳幼児期 をピアジェは 「感覚運動期」としました。 生後1カ月くらいまでは反射的な行動(モロー反応・吸てつ反応など)を使って外界と接触を持ち、シェマの土台を持ち始めます。 自分と他者の区別はありません。 成長とともに自らの体を動かし、五感の刺激を求めシェマ・同化・調節を繰り返します。 周囲の人の声かけ・お世話・スキンシップで 「他者と自分を区別」「ものの形・役割」「物事を予測する」ことを覚えていくのです。 この時期は以下の3つの認知機能が発達します。 循環反応 「足・指しゃぶり」「ガラガラを振り続ける」「同じおもちゃを何度もベッドから落とす」など、同じことを繰り返し行い、自分の身体・ものの存在を確かめます。 対象物の永続性 生まれてすぐの赤ちゃんは、パパママが物かげに隠れると「消えてしまった」と認識して泣きます。 しかし1歳を過ぎると「隠れているだけ」だと理解が可能に。 人・ものが目の前から見えなくなっても、状況に応じて「存在を予測」できるようになります。 シンボル機能 物事を象徴的に捉え、認識できる機能です。 猫のぬいぐるみと写真の猫を見て「どちらも猫だ」と分かります。 言語機能・運動機能ともに発達が著しい前操作期は、 物事を自分のイメージを使って区別して認識できるようになります。 創造力・想像力を使った「ごっこ遊び」を盛んに行う時期です。 論理的思考力・共感力などは未発達な場合が多く、自己中心的な思考・行動パターンになります。 この時期には3つの特徴が見られるでしょう。 自己中心性(中心化) 「世界の中心は私!」という自己中心的な考え方は幼児・児童に多いもの。 自分から見た視点でしか物事を考えられず、他者の気持ちを思いやることが難しい時期です。 自分の行動・言動を振り返り、反省することができません。 保存性の未発達 論理的思考ができないため「ものの形状が変化しても、量・性質は変わらないこと」の理解も困難です。 たとえば、子どもの前におはじきを2列に等間隔に並べます。 1列は10個にして、その際にどちらの列も10個おはじきがあることを確認させたとしましょう。 そのまま片方のおはじきの間隔を広げて、列が長くなるようにします。 このとき「2列のおはじきの数は同じ?それともどっちかが多い?」と質問すると、前操作期前期の子どもの場合「間隔を広げた列のおはじきが多い」と答えるケースが多いようです。 アミニズム的嗜好 もの・事柄に命・意思があるように擬人化する傾向のことです。 ぬいぐるみはもちろん、食器・家具・食べ物に話しかけたり、それを使ってひとり芝居をする様子が見られます。 論理的思考力が発達 し、 相手の気持ちを考えて発言・行動できるようになります。 数的概念が理解できるようになり、重さ・長さ・距離など比較も可能になるでしょう。 もの・事柄の擬人化は徐々に減っていきます。 この時期の特徴は以下の2つです。 保存性の習得 前操作期はおはじきの例のように、「物事の本質」を論理的に考えることができませんでした。 しかし具体的操作期になると、見た目に惑わされることはなくなります。 「おはじきの列の間隔を空けても、数は変わらない」「5リットルの水はどんな形の容器に入れても5リットル。 3本の瓶に分けて入れても総量は5リットル」などと認識できるようになります。 脱自己中心性 自己中心的な考え方から脱却し始めます。 コミュニケーション能力が発達し、共感力が育つことで他人の立場に立ったものの考え方ができるようになるでしょう。 脱自己中心性の発達度を測るテストに「3つの山の問題」があります。 特徴の違う3つの山の模型を見せ、それぞれ違う位置に立った場合の景色の見え方を問うテストです。 これは「子どもの空間認知能力の発達」を確認するもので、ピアジェと発達心理学者インヘルダーが考案しました。 ピアジェの4つの発達段階を見ると、子どもへの接し方・しつけ方のポイントは各時期によってまったく違うことが分かります。 0歳~2歳の感覚運動期は、 「周囲の人からの働きかけ」が非常に重要だとわかるはず。 数字・文字などを暗記させて知識を増やすよりも、以下のようなことが心身の発達を促します。 ・自由に運動させること ・声掛け・スキンシップ またこの時期は反省ができない時期でもあるので、繰り返しいたずら・失敗をします。 長々と叱ることはせず、 その 都度短く「良い・悪い」だけを教えたほうが良いでしょう。 前操作期にあたる2歳~7歳は、幼児から小学生に成長する時期です。 言語能力も発達し、親が叱ると口答えすることも増えるかもしれません。 自己中心性が強く、兄弟・友達とのけんかも起きやすくなります。 つい感情的に怒りたくなりますが、 努めて静かに「子どもの言い分」を聞くことからはじめましょう。 その後に 悪かった点を伝え、必要な場合は謝罪をさせます。 このように過ちを整理して認識させることが、具体的操作期(7~11歳)と形式的操作期(11歳〜)の論理的思考・抽象的思考を育みます。 乳幼児期に読み・書き・計算の学習を行い、小学校入学前に基礎学力を固めておきたいパパママは多いでしょう。 その際は 「その子の発達段階に合った学習内容」で行います。 保存性の未発達な前操作期(2歳~7歳)は数・量の大小・多少を「見た目でのみ」判断しがちです。 小学校の先取り学習の算数ドリルには、先に述べた「2列のおはじき」のような問題もありますが、分からなくても大丈夫。 たとえほかの子が理解できていても、焦る必要はありません。 発達段階とは、子どもによって個人差はあっても普遍的な順序で経験していくものなのです。 お子さまが生まれたばかりの頃は「立った」「歩いた」など、「できたこと」に対して喜び感じていたのではないでしょうか。 それが年齢を追うごとに、ほかの子と比べて「できないこと」を見つけるようになってしまうのは悲しいことです。 その子の 成長段階に合わせた向き合い方で、余裕を持った子育てを楽しんでみてください。 この記事は執筆時点のものですので、最新情報は公式サイト等でご確認ください。

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アニミズムかアミニズムか迷ったときは・・・:塾長の独り言

アミニズム

私たちの身の回りにあるもの全てには魂が宿っている といった説明がされることもある考え方です。 一方で、 アニミズムには 多様な形が存在する、つまり、 決まった地域に限って広まっている概念ではない点は、アニミズムを理解する上で大切。 地理的な環境、文化、宗教あるいは精神文化の歴史など、それぞれの地域またはコミュニティ独自の世界観が取り入れられて反映され、独自に発展しているのが特徴です。 例えば、日本発祥の神道にもアニミズムの概念を見つけることが出来るため、アミニズム信仰であると言えますが、他の地域で発展したアニミズムを信仰する人々全てが、神道を信じているかといったらそういうわけではありません。 このように、同じアニミズムと言っても、それぞれの地域に昔からある慣習、宗教的行事、世界観が取り入れられているため、 その実践方法や信仰の細部は、地域ごとに大きく異なってくるのがアニミズムなのです。 アニミズムの名前の意味 英語でアニミズムは「animism」と表記されますが、この 「animism」は、「 霊魂」や「 生命」を意味するラテン語由来の言葉。 そのため、英語で「霊魂」や「生命」と関連のある以下のような単語とも関連付けられます。 animal = 動物• animate = 生命を吹き込む/活気づける• inanimate = 生命のない/無生物の/活気のない このように、アニミズムを英単語の「animism」で捉えると、より意味が理解しやすくなるかと思います。 ちなみに、「アニミズム」を間違えて「アミニズム」と表記してしまう人もいるかと思いますが、アニミズムが大切にする「自然界」に欠かせない「アニマル(=動物)」と関係づけて覚えると、間違いが少なくなると思います。 アニミズムという「定義」はそこまで古くない 「アニミズム」という言葉は、人類学者などの第三者が、この考え方や信仰を説明するために使ってきた言葉であり、アミニズムを信仰する人たち自身が使ってきたものではありません。 ( アニミズムを初めて定義したE. B タイラー: 出典:) この「アニミズム」という言葉が生まれて概念が初めて定義されたのは、 1871年に出版された「 原始文化」という研究書籍の中でのこと。 「原始文化」の著者である英国の人類学者「エドワード・バーネット・タイラー」によって、 すべての物や自然現象に、霊魂や精神が宿るという思考 (引用:) と定義されたのが始まりです。 自然崇拝とアニミズムの違い また、アニミズムと非常に近い概念として「 自然崇拝」が存在しますが、詳しく見ていくと両者は異なるので覚えておきましょう。 自然崇拝は「 自然物・自然現象を対象とする崇拝、もしくはそれらを神格化する信仰の総称」のことで、 アニミズムの原始的な形とも言われます。 アニミズムは宗教なのか世界観なのか? さて、見てきたようにアミニズムは、「自然界全ての存在に霊魂が宿るとする」一種の「考え方」であることは分かったかと思いますが、アニミズムを巡っては「 宗教なのか宗教でないのか?」という点で議論が続いています。 まず第一に、アニミズムを宗教として考えた場合、アニミズムの考え方は世界各地で確認されており、その範囲は非常に広いため、アニミズムは世界で主流の宗教であると言えるでしょう。 さらに、世界各国に存在する様々な宗教に比べても、アニミズムは人類の歴史の中に長い間存在してきました。 しかし、 仮にアニミズムを宗教に分類した場合でも、例えばユダヤ教、イスラム教、キリスト教、仏教などと同じ意味の宗教ではないのは明白です。 例えば、アニミズムは組織化された施設 (シナゴーグ、モスク、教会、お寺など)を持つ宗教ではなく、明確な教義や聖典などもありません。 また、アニミズムはとても独特な形で、地域ごとの文化に根付きながらそれぞれ発展してきた概念。 ゆえに、 アニミズムの世界観を持つ人々を一つの宗教で定義づけることはとても困難なのです。 さらに、アニミズムを信じる人はアニミズムを、自分の生活からかけ離れたスピリチュアルな慣習を行う「宗教」としてではなく、 毎日の生活に自然と盛り込み、無意識にその考えを持っていることが多いのです。 このような理由から、アニミズムは宗教ではなく、「 人々が宇宙や自然と人間との関わりを考える上での基礎となる世界観」とする意見も一般的です。 アニミズムを考える上で大切な「シャーマニズム」 シャーマニズムとは、 トランス状態になることで、精霊の世界を自分の中に引き込み、精霊たちとコミュニケーションできる能力を持つ「 シャーマン」と呼ばれる人が存在することで成り立っている宗教や宗教現象の総称。 アニミズムと完全に同じ概念というわけではありませんが、 重複する要素が存在するなど、アニミズムとは切っても切り離せない概念の一つです。 アニミズムの概念が存在する文化では、自然界に宿る精霊や霊魂とコミュニケーションを取れる特別な人物(シャーマン)が存在していることが多くあります。 例えば地域によって、シャーマンは死者の霊魂と交わる能力があるとされたり、農業が不作な時などに呼ばれて、大地、雨、太陽、その他の農業に関係した霊や神と交わり、その状況を好転させるといった力を持つなどと考えられています。 また、シャーマン達は特殊な力に加えて、その文化や社会の中で特別な社会的役割を担うこともあります。 このようなことから、シャーマニズムはアニミズムを知る上では見落とせない概念なのです。 そして、このシャーマンを通して精霊の世界と交信する伝統・慣習・宗教などは「シャーマニズム」と呼ばれるようになったのです。 神道における八百万の神• 神道では自然のもの全てに神が宿っているとされ、これはアニミズムの一例だと言われる• 達が狩りの前に行う特別な儀式• 北米の極寒の地に住む先住民族イヌイット達は、災いが起きないように動物達の魂を沈める特別な儀式を狩りの前に行う• 中世ヨーロッパに見られたアニミズム• 中世ヨーロッパの特定地域には、穀物の中に穀物の精霊が宿るとか、牛の中には精霊が宿るといった考えが存在していた• 古代ヨーロッパで信仰された豊穣神達• 古代ヨーロッパではギリシャ神話に出てくるデーメーテールや、ローマ神話に出てくるケレースといった神々が、草木の成長に関連付けられ、特に豊穣を願う際に信仰された• 東部インドの地域で信仰される木の精霊• 東部インドの特定の地域で働く木こり達は、木に宿るとされる精霊をなだめてから木を切り始める• アフリカのバカ・のジェンギ信仰• アフリカに住むピグミー族の一つ「バカ族」は、森林の精霊である「ジェンギ」を信仰しており、ジェンギはバカ族の社会構造を維持する上で欠かせない精神的存在である• が信じる大自然の神々と悪魔達• ネパールのシェルパ族は全ての山、洞穴、そして森に神々が宿っていると考えており、登山のガイドとして働く人は登山中に事故が起こらないように、登山前には特別な儀式を行って「精霊」達を鎮める 最後に:「アニミズム」を使うことに関する議論 アニミズムという言葉を生み出したことで、「自然界全てに精霊が宿る」という概念全てを一律にアニミズムと指すことが出来るようになったわけですが、この 使い方に関しては未だに意見が分かれています。 アニミズムという言葉を使うことが、 同じような慣習や概念を持つ人々をカテゴリー分けするのに役立つという意見もいれば、そのアニミズムに分類された 習慣や概念が、時には大きく異なることもあるため、一律に「アニミズム」として使わない方が良いという意見も存在するからです。 この点は「アニミズム」をしっかりと理解するためにも、そしてアニミズムという言葉を利用するためにも、非常に大切なポイントなので頭に入れておいてください。 合わせて読みたい世界雑学記事• アニミズムは、自然界に存在する植物や動物、石などの物体それぞれに、精霊や霊魂が宿っているという概念。 この概念をどういった形で社会や信仰に取り込んでいるかは、その地域にある文化や環境などによって変わってきますが、通常、アニミズムの世界観は人々の毎日の生活に盛り込まれることが多く、アニミズムを宗教として考えべきかどうかは、今でも議論されるトピックです。 ただし、一つ言えることは、アニミズムの概念は世界中で確認することが出来、古来より様々な地域で非常に長い間、それとなく信じられてきた概念だということでしょう。

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