奥州 仕置 において 石川 昭光 は 次 の うち どの よう に 処遇 され たか。 澤田家譜第一巻(1) 第一部石川郡澤田郷

戦国武将録: 8月 2011

奥州 仕置 において 石川 昭光 は 次 の うち どの よう に 処遇 され たか

我が外高祖父大越文五郎 1832-1916 と曾祖母澤田まつゑ 1856-1926 及び 父澤田亥兵衛 1911-2004 並びに亡き妻澤田信子 1948-1994 にささぐ 「実さい、私たちは何ものであり、私たちの性格とは何であるか。 それは私たちの誕生以来の歴史、それどころか(私たちが出生前の性向をたずさえている以上は)誕生以前からも生きてきた歴史を凝縮したものにほかなるまい。 もちろん、思考にあたっては私たちは自分の過去の小部分しかもちいない。 けれども欲求し、意思し、活動するさいには私たちは自分の全過去を、魂の生まれつきの曲率までも含めてことごとくもちいる。 してみると、私たちの過去はその推すいきおいによって、そして傾向という形で残りなく私たちに姿をあらわすもので、表象になるのはそのかすかな部分に過ぎぬのである。 (中略) 生体の現瞬間の存在原因は直前の瞬間のなかには見いだされない。 直前の瞬間にさらにその有機体の全過去を、遺伝を、要するにその悠久な歴史の総体をつけ加えねばならない。 (中略) 生命とは胚子からおとなの有機体を介してまた胚子へとすすむひとつの流れのように見える。 有機体そのものは旧い胚子が新しい胚子となって生きつづけようと努力しながら突起させる瘤か芽にすぎぬかのような、一切の経過のしかたなのである。 本質的なのは、はてしなくとげられる連続的な進歩である。 この見えぬ進歩の背におのおの馬乗りになって、見える有機体はゆるされたしばしの時を生きる。 (中略) すると、個体の生命原理はどこに始まりどこで終るのか。 ひとはだんだんと後退して、最古の祖先たちに行きつくであろう。 個体がどの祖先とも連帯しており、生命の系統樹の根にあるはずのあのジェリー状の原形質の小塊とも連帯していることがわかるであろう。 個体はこの始祖とある程度ひとつのものである以上、それはまたこの始祖から末広がりに派生してきたあらゆる子孫ともやはり連帯している。 Windows,AndroidなどMac系以外のOS上では、図版の罫線の乱れなどで系図類が正しく再現されない場合があります。 「我が澤田家はもとは磐城(岩城)の国に居り、代々磐城家臣猪狩家に仕えていた。 ところが、主君猪狩氏が『国替え』となり、新たに伊達氏に仕えたため、澤田氏もまた伊達家臣(直臣)猪狩家に仕える家中(伊達陪臣)となり、主家の『主神磐城大明神他二神の氏神三神』を背負って主君につき従い、ここ黒川郡北目大崎村の地に来たった。 以来澤田氏は代々当地猪狩家在郷屋敷に本拠を構え、『猪狩家旦方(ダンポ)』として主家の領地経営にあたり、明治維新に至るまで臣属した。 それゆえ、澤田氏は『大越氏』の外子孫でもある。 」 かくて、我が「澤田家」の祖先は、ひとまず、遠く「磐城の国」すなわち今日の福島県に求められる。 第一節 大和源氏石川氏 大和源氏奥州石川氏 「【澤田氏】姓は清和源氏、〔多田源氏〕源満仲の子〔大和源氏〕源頼親(〔摂津源氏〕頼光の弟)より出ず、立家の祖〔玄孫〕を光義という。 大和源氏頼親からは、つぎの諸姓が発している。 これは、澤田家初代「源太源清重」と同号である。 「公、白河〔福島県〕を割き〔、〕旧郷石川〔大阪府南河内郡〕の称を置く。 自ら称して石川有光と云ふ。 子孫是より石川を姓とす。 」(『修訂版石川氏一千年史』角田市) 大和源氏石川澤田氏 奥州石川氏「有光の三男基光が嫡流となり、その子孫が戦国末期まで約500年間石川の地を領した。 」(『角川日本地名大辞典』) 「澤田サハタ 河内、遠江、駿河、伊豆、美濃、岩代、陸前、陸奥、佐渡、備前等、此の地名多ければ、これ等より起りし此の氏も流派尠すくなからず。 (中略) 10 清和源氏石川氏流 磐城国石川郡澤田邑より起る。 」(太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店) 「澤田サハタ氏(岩代)【清和源氏、石川氏族】 石川郡澤田より出る。 尊卑分脈に『石川基光の子光義、號澤田』と見える。 」(太田亮・丹羽基二『新編姓氏家系大辞典』秋田書店) 「沢田の名は各地にあり、地名を負った沢田氏は多流である。 磐城国(福島県)石川郡沢田村から起ったのは福島の戦国大名・清和源氏石川氏の分かれで〔、〕石川基光の子光義が沢田を称した。 子孫は戦国期〔十五世紀後半〕福島地方に帰農したもの(中略)など様々である。 」(『姓氏苗字事典』全園社) また一説には、「澤田館は澤田村大字澤井〔石川町沢井字館〕に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城 きず く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) すなわち、澤田氏は、多田源氏満仲の次男・大和源氏大和守頼親朝臣の三男・石川福原三郎頼遠、およびその嫡男石川冠者源太有光を始祖とする奥州石川氏を本姓とし、有光の嫡孫石川冠者澤田太郎(源太)光義(またはその弟源三郎義基)を元祖とする、奥州石川氏の支族である。 第二節 澤田郷・澤田館 河内国志紀郡澤田郷・石川分流澤田川 「さわだ 沢田〈藤井寺市〉 古市国府 ふるいちこう 台地北部の西側の緩斜面で、仲津山陵の北川に位置する。 地名の由来は、当地の田が沢田川(旧石川の分流で大乗川筋に当たる)沿いにあり、豪雨時に冠水することが多かったことによると伝える。 地内南部には仲津姫陵がある。 」(『角川日本地名大辞典』) 本流「石川の分流」「沢田川沿いにあ」った田が豪雨時に冠水することが多かったので、石川氏の遠祖はその地を「沢田」と称したという。 澤田氏が石川氏の分流であることは、まことに、「沢田川」が「石川の分流」であることに象徴的に示されているのである。 「〔中世〕沢田 戦国期から見える地名。 河内国志紀郡のうち。 (中略) 〔近世〕沢田村 江戸期~明治22年の村名。 志紀郡のうち。 (中略)江戸期に地元の判林光平・蒲生君平らが皇陵の調査を実施し、その結果文久3[1863]年から元治元[1864]年にかけて、仲津山陵が陵墓と変わり、立入り禁止となった。 鎮守は沢田八幡神社、小林八幡神社。 沢田八幡神社は江戸初期に、小林八幡神社は江戸中期にともに誉田から勧請され応神天皇を祀る。 (中略) 〔近代〕沢田 明治22[1989]年~昭和48[1973]年の志紀郡の自治体名。 沢田・古屋・林の3か村が合併して成立。 (中略) 〔近代〕沢田 昭和44年~現在の藤井寺市の町名。 1 ~4丁目がある。 (中略)もとは沢田・古室の各一部。 」(『角川日本地名大辞典』) 磐城国石川郡澤田郷・澤田村・澤田館 「沢田 〔福島県〕石川郡石川町南西部の一地区の旧村名。 一説によると一〇五八~一〇六五年〔康平年間〕に源有光が石川に城を築き、前に居住していた河内国(現・大阪)の沢田郷にちなみ、この地を沢田としたという。 」(『福島大百科事典』福島民報社)即ち、澤田氏の苗字は、故地河内国志紀郡澤田郷に由来することが明らかである。 この「城址を沢田といへり。 〔石川風土記〕」(吉田東伍『大日本地名辞書』富山房) また一説には、上述のごとく、「澤田館は澤田村大字澤井に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) 「沢田村〈石川町〉 〔近代〕明治22[1989]年~昭和30[1955]年の石川郡の村名。 中通り南部、阿武隈川上流沿岸に位置する。 沢井・赤羽・新屋敷の3か村が合併して成立。 大字は旧村名を継承し、3大字を編成。 役場を大字沢井に設置。 (中略)昭和30[1955]年石川町ほか4か村と合併して石川町となる。 各大字は同町の大字として存続。 」(『角川日本地名大辞典』) 「沢井 〒978 〔世帯〕313 〔人口〕1,607 〔石川〕町の南西部。 南は浅川町と西白河郡東村、東は北流する社川を境に大字山形に接する。 農業地域。 社川沿岸と谷あいに水田が、低い丘陵上には畑と山林が広がる。 北部を東西に通る主要地方道白河石川線(御斎所街道)沿いに集落が形成されている。 字上ノ原に沢田小学校・沢田中学校と東京マーメイドニット福島工場、字大池下には沢田郵便局・日蓮宗長福院がある。 石川氏一族の中世山城跡である沢井〔澤田〕館跡には八幡神社・真言宗智山派宝海寺がある。 字東内打 とうないうち にある天台宗安養寺境内下には沢井の清水が湧き、応長2[1312]年銘の線彫阿弥陀三尊板碑がある。 字川井には石川地方生活環境施設組合がある。 地内には字大山平にある白鳥池(大池)のほか大小の灌漑沼池がある。 」(『角川日本地名大辞典』) 第三節 石川澤田氏 澤田氏の元祖石川冠者澤田太郎(源太)光義 奥州石川氏基光の嫡男・二代光義は、「初メ冠者又源太ト稱ス」(『伊達世臣家譜』)。 光義もまた、澤田家初代清重と同号の「源太」を称していた。 「石川光義 石川冠者 澤田太郎 奥州石川ニ住ス」(『系図纂要』)。 「澤田サハタ氏(岩代)【清和源氏、石川氏族】 石川郡澤田より出る。 尊卑分脈に『石川基光の子光義、號澤田』と見える。 」(『新編姓氏家系大辞典』) 「澤田サハタ(中略) 清和源氏石川氏流 磐城国石川郡澤田邑より起る。 」(『姓氏家系大辞典』) 「【澤田氏】姓は清和源氏、〔多田源氏〕源満仲の子〔大和源氏〕源頼親(〔摂津源氏〕頼光の弟)より出ず、立家の祖〔玄孫〕を光義という。 」(『姓氏明鑑』) 「磐城国(福島県)石川郡沢田村から起ったのは福島の戦国大名・清和源氏石川氏の分かれで〔、〕石川基光の子光義が沢田を称した。 」(『姓氏苗字事典』) なお、「有光の孫光義が沢田太郎と名乗って摂津国沢田(大阪市〔東淀川区〕大桐)に所領を持った」(『清和源氏の全家系』)、ともある。 澤田館主源三郎義基 既述のとおり、「澤田館は澤田村大字澤井に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) 澤田氏の分岐・石川澤田氏 「同〔奥州石川〕氏は鎌倉時代にいたるまで、多くの庶家を分出して、〔石川〕荘内各地に勢力を張る。 早い時期に出現した庶家の名乗った字 あざな を見ると、基光の子光義が沢田(石川町沢井・赤羽・新屋敷などの地域カ)を称し(中略)たとある。 (中略) こうして石川一族の中には、〔石川〕庄内の地名を苗字とする〔澤田氏等〕多くの分家が出現してくる。 」(『角田市史』) 石川「一族が沢田・成田・大寺・小高・坂地・河尻・矢沢その他多くの名乗りをもつ分流にわかれて、庄内の村々にそれぞれ土着するようになるのは、『尊卑分脈』が示すように、早くとも有光の孫〔光義/義基〕あるいは曾孫〔義季〕の代のこととみられるのである。 」(『福島県史』福島県) 「『尊卑分脈』によれば、有光の孫〔光義/義基〕の代に沢田・大寺・小高、曽孫〔義季〕の代に坂地・川尻・矢沢などの苗字があらわれる。 有光から三~四代目の世代、鎌倉前期のころに、石川氏は一族・庶流の分立をすすめ、石川庄の村々に一族を地頭として配置するにいたったものと思われる。 」(小林清治・山田舜『福島県の歴史』山川出版社) 「三郎義季の系統は、〔1221年の承久の乱〕以降も陸奥国石川荘を動かなかった。 」(『清和源氏の全家系』) 中世社会の進展とともに澤田氏はしだいにその自立の度を強め、やがてはついに石川宗家の支配からも離脱するようになった。 これを、「石川澤田氏」と呼ぶことにしよう。 清和源氏伝統の名乗り もっとも、上記の史料はすべて状況証拠に過ぎない。 私の推論を裏づけるような直接史料はない。 しかし、たとえばつぎの事例は、ひとつの傍証になりえないだろうか? 既述のごとく、石川氏の始祖有光は「柳津源太と号」し、澤田氏の元祖澤田太郎光義自身も「源太ト稱」し、その弟澤田城主義基は「源三郎」と名乗っていた。 時代は下って、石川氏の嫡系・仙台藩一門主座「角田石川氏」二万一千三百石の歴代も清和源氏伝統の名乗りを踏襲し、その支族たる澤田氏もまたそれを継承して、最後まで「澤田九十九源亮長」、「澤田源太郎源宗〓〔重〕」、「澤田源太源清重」と、誇らかに清和源氏の名乗りを上げたのである。 石川一族の多様性と独立的傾向 「阿武隈山地の谷をぬって点在する村々に割拠するという形をとった石川一族は、岩城氏などに比較すると、それぞれに独立の傾向を強くもつようになったらしい。 」(『福島県の歴史』) 「文安六年(宝徳元、一四四九)のころ、石川蒲田城(東白河〔石川〕郡古殿町)は白川直朝によって破却され、蒲田氏の所領とその文書(石川蒲田文書)は没収された。 文明六年(一四八四)のころには、石川一族の赤坂・大寺・小高の三家が、氏を改め家紋を改めて白川氏に属した。 」(『福島県史』) 「竹貫 たかぬき 隆光・広光父子」(『いわき市史』)は「石川一族で、竹貫(東白河〔石川〕郡古殿町)を本拠とする。 」(『いわき市史』)。 「天文十[1541]年、竹貫広光・同隆光は岩城重隆の老臣の位置にあったとみられる。 (中略)天文十年から余りさかのぼらないころに、かれらは石川氏を離れて岩城氏に属したのである。 旧石川領(石川庄)の竹貫(古殿町)が、これに伴って岩城領に編入されたことは、いうまでもあるまい。 古殿町および鮫川村の地、すなわち石川庄の東白河郡にかかる地区は、ほとんど白川・岩城両氏の領地と化し、石川一郡を確保することが石川氏の目標となる、という事態が天文十年のころに出現したといえよう。 」(『福島県史』) 「そうすると、岩城氏の勢力が、かつての石川領の東半分ぐらいに浸透しており、石川一族の中にもその家臣になっているものがあったことになる。 」(『角田市史』)まさしく、澤田氏の命運を暗示するに十分な一文である。 「仙道〔山道〕の石川同流」(『奥相茶話記』)・四本松(塩松)石川氏は、石川宗家を離れて自立していた。 「去れども〔四本松〕石川は微力、(中略)田村の助力を借る為に旗下と成りし也。 」(『奥相茶話記』) 時の四本松石川氏当主弾正は、田村氏の当主清顕の従兄弟の娘を娶って田村氏に臣属したが、のちに述べるような数奇な運命を経て、ついに戦国の露と消えた。 「『奥相茶話記』は、天文~永禄のころに活躍した田村隆顕が石川六十六郷を手中に収めた、と記している。 天文十三年(一五四四)七月、田村家中の常葉 ときわ 光貞・大越顕光が石川稙光父子と田村隆顕父子との和解につとめることを誓約しているが、これは光貞・顕光が石川氏に属して隆顕を攻めたのち、敗れてこの誓約をするに至ったものとみられる。 両人が稙光に属している事実は、その光の字によっても推定することができる〔明らかな間違い。 「光」は大越氏始祖常光以来の通し字である 〕。 このようにみれば、隆顕が石川六十六郷を掌握したことは、ただちに信憑するわけにはゆかない。 しかし、隆顕が石川領を蚕食したことは、十分に考えることができよう。 」(『福島県史』) 「石川氏の側からみると、一族のものまで田村家臣に繰りこまれる状況になっていたのである。 (中略)石川一族の多様さとその独立的傾向とを、この例からうかがうことができる。 」(『福島県の歴史』) 大越顕光のこと ところで、上に登場した大越顕光は、巻頭に述べたごとく、三百余年後の明治維新の混乱のさなか、運命の数奇ないたずらから澤田家三代金吾(金五郎)の妻となった、私の曾祖母まつゑの実家「仙台大越家」の遠祖・大越紀伊守顕光その人である。 はるかなる戦国時代に、大越氏と石川・澤田氏(のちに述べるように、猪狩氏もまた)はともに磐城の地にあり、すでに浅からぬ因縁にあったのである。 顕光を石川「稙光に属している」とする『福島県史』の説は疑問であるが、いずれにしても石川氏ひいては澤田氏とも親縁な関係にあったことは事実であろう。 大越氏については、のちに章を割いて詳しく述べる。 澤田氏の東遷と猪狩・岩城氏臣従 こうして、「石川氏は、その領土の周辺を、有力大名に取り囲まれることになり、一族もそれぞれに他氏に臣従するという、分裂的状況になった。 」(『角田市史』) 石川澤田氏もまた、おそらく十五・十六世紀の交1500年前後、ついに重代の宗家奥州石川氏の下を離れることになった。 父祖伝来の石川荘澤田郷の故地に別れを告げて、東遷して太平洋の風波洗う楢葉郡に至った澤田氏は、上記の竹貫氏等と同様、岩城氏譜代の重臣猪狩家大和守に臣属して、岩城下総守常隆の陪臣「楢葉澤田氏」となった。 「永禄十年(一五六七)十一月、〔蘆名〕盛氏は赤館左衛門に石川郡沢井(石川町)を起請文によって安堵しているが、これによると、沢井の地を佐竹氏が占領し、これを白川氏が望んでいること、また盛氏が石川地方に強い権利を行使していたことが明らかである。 」(『福島県史』) 「石川郡沢井」は、いうまでもなく「澤田館」の所在地・澤田氏発祥の地である。 いにしえの「澤田郷」は、いまや佐竹・蘆名・白川等各氏の蹂躪するところとなっていた。 時すでに、澤田氏は楢葉郡へ移住したあとであり、直接この侵略にさらされることはなかったであろう。 しかし、いずれにしても、もはやこの時以後、澤田氏発祥の地「澤田郷」・「澤田館」の地に、澤田一族の姿が見られこることは絶えてなくなったのである。 「元亀二年(一五七一)七~八月の交には、佐竹義重が石川一族の中畠氏(西白川郡矢吹町)を攻め、蘆名盛氏父子・田村清顕がこれを迎撃した。 同じころの三月、義重が石川領の大寺(玉川村須釜)に向〔か〕って出馬したのに対して、清顕がその備えを指示した書状も現存する。 石川領の実権はすでに蘆名・田村両氏に握られているとみられる。 (中略)このころになると、石川郡南部は佐竹氏に、東〔西?〕部および北部など大部分は蘆名氏の領有となってしまったらしい。 天正六年(一五七八)正月、蘆名盛氏は越後の新発田長敦あての書状のなかで、『石川之儀者 は 在城一ヶ所迄に候。 其外、残り無く手の裏うちに入り候。 』と述べている(浜崎文書『会津若松史』)。 」(『福島県史』) 第二章 石川氏 およそ澤田氏に関する直接史料は、残念ながら、元祖澤田九十九源亮長(1710ごろ-1780ごろ? )、その孫澤田宗家末代源太郎源宗〓〔重〕(1770ごろ~1799)以前は皆無である。 それゆえ、これから「澤田氏の歴た道」を跡づけるには、澤田氏がその歩みの途上において直接・間接にかかわってきた諸氏の記録にたよる他に道はない。 以下では、石川・猪狩・岩城・大越・田村・伊達諸氏の記録を道しるべとして、なんとか「澤田氏の歴た道」を明らかにすべく試みようと思う。 もちろん、これらの史料は澤田氏のことを直接述べたものではない。 しかし、それはまちがいなく、澤田氏の祖先たちがその運命をともにし、ともに歩んだ、「澤田氏の歴た道」でもあるのである。 まずは、澤田氏の本姓「清和源氏石川氏」から始めることにしよう。 第一節 清和源氏 「石川氏は人皇五十六代清和天皇第六皇子、貞純親王の御子、経基王の長子、源満仲を以って遠祖となす。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 清和天皇 (858~879) 「文徳天皇の第六皇子、母は藤原良房の女皇太后明子。 名は惟仁 これひと。 世に水尾 みのお 天皇とも称す。 嘉祥三[858]年三月誕生、十一月」(『日本歴史大辞典』)「生後わずか9ヵ月で父文徳天皇の皇太子となったが、」(『世界大百科事典』平凡社)「これは文徳天皇が、寵愛する惟喬 これたか 親王(紀名虎の女所生)の立太子を、藤原氏をはばかって断念したためであった。 八五八(天安二)年十一月」(『日本歴史大辞典』)「文徳天皇の急死によって、未成年の9歳で即位する異例を開いた。 この異例の背後には外祖父〔藤原〕良房の巨大な存在があり、良房は太政大臣として幼帝の大政を摂行した。 いわゆる人臣摂政のはじめである。 しかし、文徳朝には長兄惟喬親王を擁立しようとする紀氏らの動きがあり、清和朝の866年(貞観8)には〈応天門の変〉が起こるなど、政争がくり返された。 清和天皇は病弱で政治をいとい、」(『世界大百科事典』)「八七六(貞観一八)年十一月、在位十九年」(『日本歴史大辞典』)「27歳で9歳の皇子陽成天皇に譲位して仏門に入り、畿内の諸寺院を巡拝するなど信仰は熱列をきわめた。 ついに丹波国の水尾山寺に入ろうとしたが、果たさず」(『世界大百科事典』)、「八七九(元慶三)年五月落飾、法諱を素真という。 翌[880]年十二月、粟田山荘円覚寺で没した。 遺詔により山陵を造らず、遺骨を水尾山上に収めた。 」(『日本歴史大辞典』)「その皇后は《伊勢物語》に〈二条の后〉と呼ばれる藤原高子。 」(『世界大百科事典』) 貞純親王 ( 8?? ~ 916) 「清和天皇の第六皇子貞純親王は、中務大輔兼神祇伯の棟貞王の娘を母として生まれた。 (中略)臣籍に降下せずに親王にあげられたのは、母が王氏の末だったということによるものだろう。 (中略)貞純親王は、生涯に上総大守、常陸大守などの国司を歴任しているが。 現地には赴任しなかった。 いわゆる遙任国司である。 中務卿に任じられたとき、官位相当に従って正四位下に叙せられている。 親王の位階は一品から四品までしかなかったから、昇叙されても最低の位階だったわけである。 官位、位階などのほか、格別な逸話や所伝も残っていないことからみると、きわめて平凡な生涯を送った平凡な人物だったと考えられる。 延喜十六年(九一六)五月七日、四十四歳で薨じたのは、父清和院と同じ円覚寺においてだったという。 (『清和源氏の全家系』) 清和源氏経基王 ( 893~ 961) 清和源氏は、「九六一(応和元)年、清和天皇の皇子貞純親王の子で、六孫王といわれた経基が源姓を与えられたのに始まる。 これについては、かつて星野恒が、源頼信の告文からこの家が実は陽成天皇からでたものであると論じたが、一般には承認されなかったようである。 」(『日本歴史大辞典』)「経基王の妃は源能有卿の女にして、能有卿弓馬の術に長じ王就て学ぶ所多し。 王又和歌を良くし、文質彬々 ひんぴん 博覧多才、幼にして君子の徳あり。 (中略)延喜七[ 907]年十月五日歳十五にして常寧殿に加冠し、正六位上、右馬之介に任ぜられ(中略)る。 後武州の刺史〔国司〕となり」(『修訂版石川氏一千年史』)「平将門と争ったが、このとき彼は『未だ兵道に練れず』といわれた。 経基はその後小野好古に従って」(『日本歴史大辞典』)「天慶四[941]年藤原純友の乱を平げて功あり。 従五位下に叙し、七か国を領す。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「九六一(応和元)年、(中略)源姓を与えられ」(『日本歴史大辞典』)、「やがて太宰府権少弐・鎮守府将軍となったが、彼はなお武士としてよりは皇族出身の一貴族にすぎなかった。 武士の棟梁として清和源氏の名をあげたのは彼の子満仲・満政・満季以後である。 」(『日本歴史大辞典』)同 961年「薨ず。 西八條池の側に葬る。 六宮権現と称す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 多田源氏満仲 ( 912~ 997) 「経基王の長子にして、延喜十二[ 912]年四月十日西八條殿に生る。 小字鶴丸王と称す。 加冠して従五位下に叙せらる。 父の器を承け、博学聡敏、威徳具 つぶさ に備はる。 〔941年〕純友の乱に父を輔けて之を平げ、功を以て従四位下に叙し、摂津守に任ぜられる。 封を受けて摂津国多田荘〔兵庫県川西市〕に移り、陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられ、後、致仕して釈門に帰し、新発意 しんぼち と号す。 多田院を建て之に居る。 〔多田源氏〕」(『修訂版石川氏一千年史』)「満仲は摂津守として、同国多田荘〔兵庫県川西市〕に拠り、強力な武士団の棟梁となった。 満仲はその武力を背景に、巧妙な政治的陰謀によって摂関家との結合に成功し、清和源氏興隆の基礎を開いた。 満仲は摂津守の任後も多田に土着し、」(『日本歴史大辞典』)「多田荘を経営して多田院を創立した。 (中略)満仲は当時の有力な〈武勇の士〉とされていたが、彼には頼光・頼親・頼信以下数名の子があり、また弟に満政がいたが、いずれも武勇の名が高かった。 満仲の嫡流をついだのが頼光であり、この系統を摂津源氏といい、やがてその一流の多田源氏がこの武的系統を代表するに至」(『世界大百科事典』)り、「源頼政はこの系統から出」(『日本歴史大辞典』)た。 しかし、「頼光の嫡系はむしろ京都に定着して中流貴族(受領 ずりょう 階層)の道をすすんだ。 なお摂津源氏の系統(頼光流および満政流)から美濃源氏が生まれ、またとくに満政流からは尾張源氏、さらに三河源氏がでている。 満仲の第2子頼親は大和国に本拠を置き大和源氏の祖となり,第3子頼信は河内国石川・古市地方を本拠地として、河内源氏の祖となる。 こうして各地に清和源氏の一族が繁衍 はんえん して、恒武平氏とならび称される有力武家の一族となったが、後世とくに〈武人の家〉として名を成し、また初めて武家の政権を樹立するに至るのは、河内源氏の系統の一族である。 なお源満仲は969年(安和2)の安和の変において藤原氏のために暗躍して左大臣源高明 たかあきら を失脚させたことがあり、以後頼光・頼信らも藤原摂関家に臣従してその爪牙 そうが となり、深い結びつきを続けたことも見逃せない。 」(『世界大百科事典』)「長徳三[ 997]年八月二十七日薨ず。 歳八十六。 天山満慶と謚 おくりな す。 (中略)満仲公十子あり。 長子頼光(中略)世子たり。 次子頼親母は左京大夫藤原致忠朝臣の女、康保三[ 966]年九月十三日生る。 小字普源丸石川氏の祖也。 三子頼信」(『修訂版石川氏一千年史』)。 清和源氏嫡流河内源氏 「かくして源氏は、たとえば頼光が藤原兼家・道長らに盛んに贈物して世人を驚かしたように、最初摂関家と結んでもっぱら家門の繁栄を図った。 しかも、彼らのもつ武士団の棟梁としての性格は、その後関東・奥羽の兵乱鎮定にあたり大いに発揮され、武士階級として大きく成長していった。 」(『日本歴史大辞典』)河内源氏「頼信は1028年(長元1)に始まった平忠常の乱に際し、甲斐守としてその追伐を命ぜられ、ほとんど戦わずに忠常を降伏させ、一躍その武名を関東に高めた。 」(『世界大百科事典』)「この基礎の上に頼信の子頼義は威風は大いに行われ、『拒捍の類皆奴僕の如く』『会坂 おふさか 以東の弓馬の士、大半門客となる』ほどの勢いを示した。 」(『日本歴史大辞典』)「やがて陸奥の安部頼時が51年(永承6)に叛乱を起こし、いわゆる前九年の役が勃発すると、頼義は陸奥守・鎮守府将軍に任じ、その嫡子義家とともに転戦し乱を鎮定した。 ついで義家は83年(永保3)にはじまる後三年の役で再び奥羽の地に活躍し、その武名は〈天下第一武勇の士〉として大いに喧伝されるに至った。 これらの戦役を通じて清和源氏は東国の武士との結びつきを強め、とくに関東地方には源氏と譜代の主従関係を作り上げた在地武士も多く、関東に源氏の地盤がきずかれることとなった。 また義家はその武力を基盤にし、武門の棟梁としての地位をかためるとともに、緊密な摂関家との関係もあり、中央政界、貴族社会の間でも大いにその勢力を伸ばした。 」(『世界大百科事典』)「地方の領主は競って義家に対する土地寄進を行い、〔1090年〕朝廷では寄進を禁止する宣旨を諸国に下したほどであった。 かくして清和源氏の主流は武士の棟梁としての河内源氏の系統に移り、(中略)源氏の勢力は〔1086年〕白河院政開始とともにその政権の武力的基礎となった。 」(『日本歴史大辞典』) 源平争乱 「白河院政初期における義家の名声と勢力はきわめて大きかったが、同時にそれまで武士をその下に臣従させ駆使していた貴族階級から嫌悪されることになった。 院政政権はやがて源氏を異端者としてその発展を抑圧しようと策し、代って平氏を登用するにいたるのである。 」(『日本歴史大辞典』)「上皇が権力を掌握するようになった義家の晩年には、彼の立場も微妙に変化して、その勢力にはかげりが見えはじめ、とくに義家の嫡子義親が叛乱を起こして追討され、また源氏一族の間に内紛が続き、京都政界における源氏の武威は失われ、武門の棟梁の地位は、平正盛以下の伊勢平氏にとってかわられた。 義家の弟に義綱・義光があり、ともに武名をうたわれたが、とくに義綱は兄義家と競い合うほどの武勇の者であった。 しかし義綱の系統は源氏内紛の中で消滅した。 また義光の系統からは常陸源氏の佐竹氏や甲斐源氏(武田氏・安田氏・逸見氏等)が出ており、義家の子義国の系統から上野の新田氏、下野の足利氏が成立した。 」(『世界大百科事典』)「一族の威勢は義家を頂点として急速に傾き、義親の子為義に至って陸奥守を望んで得られず、六三歳の歳まで受領にもならず検非違使にとどまり、わずかに為義の長子義朝が下野守として源家の体面を保っていたにすぎなかった。 」(『日本歴史大辞典』)「1156年(保元1)の保元の乱で源氏一門は崇徳上皇方に立った為義(義親の嫡男)やその子為朝らと、後白河天皇方に加わった義朝(為義の長子)とが敵味方に別れて戦い、義朝は戦勝によってその政治的地位を高めたものの、一門のほとんどを失った。 ついで59年(平治1)の平治の乱で義朝が敗死するに及んで、源氏一門はまったく凋落し、平氏一門の全盛をむかえた。 」(『世界大百科事典』) 鎌倉開府 「源氏にかわって興った平氏は清盛によって六波羅政権を樹立するが、やがてこの政権の動揺に乗じて以仁 もちひと 王を奉じた源頼政が挙兵し、」(『日本歴史大辞典』)「平治の乱後に伊豆国に配流されていた義朝の嫡男頼朝は、80年(治承4)全国的に反平氏の気運の高まるのを見て、伊豆・相模をはじめ関東地方の在地武士たちを糾合して挙兵し、また木曾にあった源義仲をはじめ、甲斐源氏以下の諸国の源氏も反平氏の旗を挙げた。 そして85年(文治1)に平氏を滅ぼした頼朝は相模国鎌倉に武家政権を樹立した。 いわゆる鎌倉幕府の創始である。 史上初の武家政権を成立させた頼朝はやがて征夷大将軍に任ぜられ、ここに武家の棟梁たる〈源家〉の地位を確立した。 この頼朝の創業に功績をあげた彼の弟範頼・義経らはやがて頼朝に討滅されるが、この範頼の子孫は吉見氏となった。 」(『世界大百科事典』) 武家の棟梁 「源氏の将軍は頼朝の死後頼家・実朝に至って正統が絶え、幕府の実権は出自を平氏にもつ執権北条氏に移った」(『日本歴史大辞典』)「が、鎌倉将軍が実現したことにより、それ以後は武家の棟梁としての清和源氏の名は不動のものとなった。 鎌倉幕府の滅亡に際して、北条一門の打倒に功績をあげた足利尊氏(高氏)は、義国の子義康の系統から出たが、やがて建武新政府を否定して室町幕府を開き、再び武家政権を樹立した。 彼はみずから清和源氏の嫡流をつぐものであり、また頼朝の後継者たることを主張して、将軍の地位につき、その地位は代々子孫が継承していった。 また3代義満のときには、それまで村上源氏が世襲していた淳和 じゅんな 院、奨学院の別当の地位をも継承して世襲するに至るが、この時点で清和源氏の嫡流がすべての源氏の代表者たる地位にあるものと意識されたことを示している。 武家の棟梁としての清和源氏の名が固定的なものとして意識されるようになった結果、武力を背景として政治権力を握ろうとする者の中には、みずから清和源氏の流れをくむと主張するものが多くなる。 江戸幕府における徳川氏の場合、今日では必ずしもその信憑性が認められているとは言いがたいが、新田氏の一流である得川氏にその系譜をもつものとされているのである。 」(『世界大百科事典』) 第二節 大和源氏 大和守頼親朝臣 (966~1057) ここで少しく時代をさかのぼるが、清和源氏の嫡流河内源氏「頼信の次兄〔大和源氏〕頼親も、なかなかの人物だったらしい。 」(『清和源氏の全家系』)「公首服〔元服〕の後、従四位下に叙せられ、宮内丞に任ず。 又檢非違使左衛門尉となる。 周防・淡路・信濃・大和の刺史たり。 大和・摂津の諸邑を食む。 〔摂津国〕豊島 てしま 郡十市府 に住す。 」(『清和源氏の全家系』)「時に永承元[1046]年、事を以って興福寺の僧と戦ふ。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「さきに強訴を行ったものの、頼親に阻まれて入京することができなかった興福寺の僧兵たちが、これに怨みを含んで大和守頼親とその次男前加賀守頼房の館を襲撃したのである。 頼親・頼房父子は、もちろん武士である。 当然、弓矢をもって応戦し、数人の僧兵を射殺したのである。 僧兵は退却した。 しかし、興福寺といえば藤原氏の氏寺である。 その僧兵を射殺したというのだから、当然問題になった。 」(『清和源氏の全家系』)「僧徒の訴ふる所となり、勅勘を蒙り、土佐の介と為し土佐に謫 たく せらる。 長子頼成・次子頼房与かる。 頼成佐渡に、頼房淡路に配せらる。 公土佐に在ること七年、勅免を得て京都に帰り、官位を復す。 天喜五[1057]年六月二十八日豊島郡に卒す。 歳八十六、雄徳院殿頼全玄翁大居士と謚す。 大和国法隆寺に葬り、祠を多田院に建つ。 (中略) 公五男二女あり。 長男頼成、(中略)永承元[1046]年父と共に興福寺の事に寄り、佐渡に謫せられて卒す。 子孫あり一家を為す。 次男頼房、母は盛光院。 (中略)父、兄と共に興福寺の事に寄り、淡路国に謫せられて卒す。 子孫別に一家を為す。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「承保三年(一〇七六)、肥前国に移されていた頼房は配所で死んだ。 加賀守だったときの武勇により、荒加賀と称されたのがこの頼房である。 しかし、この系統はなおも大和国に繁衍して、世に大和源氏と称されていくことになる。 」(『清和源氏の全家系』)「三男頼遠、母は盛光院、石川氏の祖也。 四男頼基、(中略)別に一家を為す。 五男頼治、(中略)別に一家を為す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 大和源氏 「延久三[1071]年陸奥乱れる。 源頼俊討て之を平ぐ。 頼遠公の異母兄頼房の子也。 〔頼遠と〕同じく来りて陸奥にあり。 之を以て乱を平ぐ。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「頼親・頼房父子が興福寺の僧兵とのあつれきで配流の憂き目を見たのだから、この系統には興福寺に対して怨みを含んでも当然の理由がある。 にもかかわらず、頼房の嫡孫〔頼俊の嫡子〕頼風の系統には興福寺に入って僧となったものが圧倒的に多い。 頼風自身はまだ僧ではない。 それどころか、従五位下の陽明門院の判官代でありながら、『天下名誉の武勇』の猛者もさであった。 頼風系で最初に僧になったのは、その嫡男頼安である。 法華経の持者だったので、法華経太郎と号するまでになる。 しかし、元来が武士である。 あまりにも荒っぽかったせいか、『天下名誉の武勇の悪党』と呼ばれている。 僧侶でありながら、頼安は三人の男子の父である。 そして、その頼安の長男信実がまた物凄い。 興福寺に入って法橋の上座にまで成り上がったものの、これも武士が本然の姿だったから、『日本一の悪僧武勇』と怖れられることになる。 この信実の曾孫住蓮こそ、真の仏教徒だったかもしれない。 浄土宗の開祖法然上人に弟子入りして、安楽とともに法然の二代弟子と称されたほどの高僧になったのである。 専修念仏の弘通 ぐつう に努力したので、ついに後鳥羽上皇の小御所の女官二人が出家したのがいけなかった。 たちまち後鳥羽院の逆鱗に触れ、承元元年(一二〇七)二月、近江国馬淵荘(近江八幡市馬淵町)で斬首されたのである。 頼風の弟頼治も、興福寺の僧兵が京都に強訴に入ろうとしているのを阻止して興福寺から訴えられ、嘉保二年(一〇九五)十月、配流の憂き目を見ている。 配流された国は、『尊卑文脈』では土佐国あるいは佐渡国となっているが、『中右記』や『平家物語』で見ると佐渡国が正しいらしい。 その子頼弘は摂津権守に任ぜられて国衙の在庁官人になり、摂津国豊島郡(豊能町)に本拠を移して豊島権守と名乗った。 豊島氏の開祖である。 親弘〔頼弘〕の子の代で、この系統は二流に分かれる。 次男元弘の系統は、頼弘の跡を伝承して豊島源氏と称したのに対し、長男親治の系統は大和国宇野荘(五条市宇野町)に本拠を置いて、宇野源氏を名乗ることになったのである。 頼風〔頼俊〕の三弟頼景は、陸奥国愛子 あやし (仙台市広瀬町)に所領を持って、愛子六郎あるいは陸奥六郎と称した。 しかし、本領は尾張国大野荘(常滑市大野)にあったらしい。 鎌倉時代に入っても最初のうちは、尾張国はまだ近畿文化圏に近かったから、この系統は当初はまだ宮廷武家であり続けたようである。 だから承久三年(一二二一)に後鳥羽上皇が鎌倉討幕の挙兵をしたとき、頼景から三代目の大野判官代頼清、その子太郎頼重父子は京方に味方している。 しかし、承久の乱では、京方は惨敗した。 そのため、大野頼清は鎌倉幕府に尾張大野荘など数カ所を没収されている。 以降、この系統は山中である大和国吉野郡旭(十津川村旭)に屏息して、朝日姓を称することになる。 一見華やかに見える朝日姓は、その実、屏息状況の苗字だったのである。 」(『清和源氏の全家系』) 第三節 奥州石川氏 「中世の石川荘を支配したのは、多田源氏満仲の子孫と称する石川氏である。 」(『角川日本地名大辞典』)。 石川福原三郎頼遠 (1007~1062) 多田源氏満仲の次男・大和源氏頼親の三男・頼遠は、「母堂盛光院、寛弘四[1007]丁未年三月二十八日、大和国宇田郡に於て生る。 小字千勝丸・弥三郎と称す。 (中略)従五位下に叙せられ、伊勢守に任ず。 河内国石川郡〔大阪府南河内郡〕、並に摂津国福原〔神戸市兵庫区福原町〕・小柳津 やないづ 〔兵庫県川辺郡猪名川町〕の諸邑を食み、石川荘に住す。 公独り興福寺の事に与らず。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「頼遠は、早くから福原三郎と号している。 摂津国福原荘を本領としていたからである。 福原荘は現在の神戸市兵庫区福原町。 瀬戸内海に面し、現在の神戸港を風波から守る和田岬をすぐ南側に控えた交通上の要地で」(『清和源氏の全家系』)、のちに平氏が一時都した地である。 「永承六[1051]年陸奥の豪族安部頼良反す。 朝議、源頼義に命じて之を伐たしむ。 〔頼遠〕公、〔従兄弟〕頼義を輔け、永承七[1052]年陸奥に至り、数々 しばしば 賊と戦ひ、具 とも に労苦を尽くし、万死の中に出入して未だ平ぐる能はず。 出羽の酋清原武則の援を得、康平五[1062]年厨川柵を攻め、貞任以下誅に伏す。 公矢石を侵して戦ひ、遂に戦歿す。 長子有光公軍にあり、父公を輔け、乃ち代て軍を統ぶ。 (中略) 頼遠公父子、頼義将軍に随従して陸奥に在ること十一年、櫛風 しっぷう 沐雨具さに艱難を嘗め、激戦数十、万死を冒し功なるに垂 なんなん として頼遠公厨川に戦歿す。 有光公代て軍を指揮し安部一族誅に伏して、陸奥の山河亦王沢に潤ふ。 乃ち乃父 だいふ の功を全うするを得たり。 康平六[1063]年春三月、頼義将軍降虜を率ひ、京師に帰る。 〔有光〕公又随て入朝す。 是より先、人を遣し、貞任以下の首を齎し闕下 けっか に献ず。 詔して頼義将軍を正四位下に叙し、伊予守に任じ、義家出羽守に任ぜられ、(中略)清原武則鎮守府将軍に任じ、有光公従五位下安芸守に任ぜらる。 将軍更に公の功を奏し、奥州山道の地を公に与へ、以て陸奥を監視せんことを請ふ。 朝議之を許す。 此に於て有光公、一族師弟を率ひ、白河の地に来り住す。 時に康平六[1063]年冬十月也。 有光公白河に至り、先年頼義将軍藤田に次 やど し、八幡神を陣中に勧請して戦勝を祈り、遂に賊を平定したるを以て、其地を吉とし、此に居を卜す。 先君の遺骨を葬り以て菩提を弔ひ、一宇の道場を建つ。 先君を法謚 ほうし して岩峯寺殿仁勇健徳と云ひ、寺を岩峯寺と称す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 岩峯寺は「石川郡玉川村大字岩法寺にあり、山号を大貫山、臨済宗建長寺派の古刹である。 承保年中〔1074~76〕開基の寺伝があるが、本格的な開山は、鎌倉末期の正和五[1316]年と見られている。 付近には石造五輪塔としては古式に属する、治承五[1181]年の紀年銘を有する五輪塔があり、石川氏ゆかりのものとして、国の重要文化財に指定されている。 長泉寺創建以前の石川氏の菩提寺である。 」(『修訂版石川氏一千年史』注) 「頼遠公五〔六〕男一女あり。 長子仲重、(中略)先生 せんじょう 大夫に任ぜられ、京師に止まり別に一家を為す。 次子有光公、母堂正夫人園正院の出なり。 立て世子となる。 三男家弘母堂有光公と同じ。 (中略)上野国に邑を食む。 五男有宣、(中略)紀伊国に邑を食む。 六男有遠、(中略)出羽国に邑を食む。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 河内国石川郡石川荘 「石川〈河南町〉 石河とも書いた。 葛城山西北麓、石川の右岸に位置する。 地内を梅川が貫流する。 地名は川名にちなむか。 〔古代〕石川 奈良期から見える地名。 河内国石川郡のうち。 (中略)現在の河南町の東山・一須賀・大ヶ塚から富田林 とんだばやし 市・河内長野市・千早赤阪村にかけての石川流域の一体と推定される。 〔中世〕石河郷 郷名。 平安期~戦国期に見える郷名。 石川郡のうち。 (中略)石川郡と同じ意味で使われていると思われる。 (中略) 〔中世〕石川荘 平安期~戦国期に見える荘園名。 石川郡のうち。 (中略)当地は河内石川源氏の本拠地である。 (中略) 〔近代〕石川村 明治22[1889]年から昭和31[1956]年の自治体名。 はじめ石川郡。 明治29[1896]年からは南河内郡に所属。 大ヶ塚・山城・東山・一須賀の4か村が合併して成立。 (中略)郡内でも平地に恵まれていた。 (中略)昭和31[1956]年河南町の一部となり、村制時の4大字は同町の大字に継承。 」(『角川日本地名大辞典』) 「石川郡 古代~近代の郡名。 河内国に属す。 『和名抄』の訓は『以之加波』。 大阪府の東南端に位置する。 (中略)郡東部の金剛山地と西部の羽曳野丘陵との間を石川が堆積平野を形成しつつ北流する。 東部山地からは梅川・東条川・佐備川が北西に流れて石川に注ぐ。 郡名の由来は、同川の流れによる。 (中略) 〔古代〕(中略)石川に沿って東高野街道が南北に通じ、郡北部には難波と飛鳥とを結ぶ竹之内街道が横断。 竹之内街道沿いの山あいの地は王陵の谷と呼ばれ、聖徳太子墓・敏達天皇陵・用明天皇陵・孝徳天皇陵・小野妹子墓など、飛鳥期から奈良期にかけての陵墓が数多く存在し、古代文化の中心地のひとつであった。 (中略) 〔中世〕(中略)石川荘は石川源氏の本拠で、在地領主制を展開していた。 八幡太郎義家の子義時がはじめて石川を称し、平安末期に同荘は高倉天皇の後宮七条院に寄進された。 」(『角川日本地名大辞典』) 「石川 大和川の支流。 指定流路延長30. 7Km、流域面積約 220㎡。 金剛山地の西麓を北流する府南部の主流。 和泉山脈東部の岩涌山・三国山・蔵王峠付近を源流域とし、ほぼ北東に流れ、河内長野市の市街地南方で天見川を合わせ、富田林市に入って佐備川・千早川を合して北流し、羽曳野市で梅川・飛鳥川を合わせたのち、藤井寺市・柏原市の境で大和川左岸に合流する。 (中略)羽曳野丘陵と金剛山地に挟まれた石川の中下流域一帯は石川谷と呼ばれ、古代から開けていた。 (中略)大和川との合流点付近は、応神陵をはじめ全国的に有数の大規模古墳の集中する古市古墳群があり、右岸の玉手山丘陵にも多くの古墳がみられる。 石川谷は、大阪東南部の南北交通路をなし、近世には石川を利用して舟運が発達し、大和川を経て大阪と結ぶ剣先船が富田林の喜志まで通っていた。 」(『角川日本地名大辞典』) 石川冠者源太有光 (1037~1086) 「母堂圓〔園〕正院、長暦元[1037]年正月十二日、摂津物津の荘に生る。 小字松千代と称す。 首服の後、河内右馬之允師任と改め、後、源太有光と称す。 物津冠者と号す。 移て柳津 やないづ 〔兵庫県川辺郡猪名川町〕に居る。 柳津冠者と称す。 永承六[1051]年大人に従て奥州に下向す。 時に年十五、国府〔多賀城〕にあり。 天喜四[1056]年十九歳にして安部頼時の軍と戦ひ、難戦苦闘数々、死を決して戦ひ、二十五歳乃父〔頼遠〕厨川に戦死す。 公代て其軍を指揮し、〔安部〕貞任誅に伏す。 功を以て従五位下安芸守に任ず。 奥州仙道の地を賜り来り住す。 公擇ぶ所の藤田に城 きず く。 水に乏しきを以て更に地を捜す。 未だ得ず。 日夜之を思ひ八幡神霊に祈る。 蘆三根を生じたる地に清水の湧出するを夢む。 醒めて之を奇とし、翌日出でて之を求む。 高立に登て眺臨す。 一鶴あり稚松 わかまつ を嘴 くは へて天に舞ひ、松を墜して去る。 訝 いぶか りて行て其処に至れば、地上三蘆あり。 依て試に地を穿 うが てば、清水湛々として湧出す。 公大に喜び此地に築く。 城成る。 本丸竪五十間、横百八十間二の丸之に協 したが ふ。 高さ百二十尺、城麓、川あり。 北より東に流れ、更に西して北に流る。 恰 あたか も 城を繞 めぐ り、要害自然に成る。 形勢雄偉、三蘆 みよし 城と称す。 公、八幡神を尊崇すること益々篤く、頼義将軍建る所の八幡神を城中に移して氏神と為し〔川辺八幡宮〕、公の第九子有佑を以て、外祖父神祁職吉田兼親朝臣の義子と為し、吉田左衛門尉と改めて祭祀に任ぜしむ。 八月十五日を以て祭日と定む。 盖 けだ し将軍勧請の日に当るを以て也。 公三蘆城に入り将士に第宅 ていたく を賜ひ、市賈 しこ 〔町の商人〕に宅地を頒つ。 鋭意治を図り、農民をして地を開拓せしむ。 公、白河を割き旧郷石川の称を置く。 自ら称して石川有光と云ふ。 子孫是より石川を姓とす。 飛鶴稚松を嘴へたる状を画き家紋とす。 瑞夢に因する也。 延久三[1071]年陸奥乱れる。 源頼俊討て之を平ぐ。 〔父〕頼遠公の異母兄頼房の子也。 同じく来りて陸奥にあり。 之を以て乱を平ぐ。 永保二[1075]年頼義将軍卒す。 詔して義家を陸奥守とし、鎮守府将軍を兼しむ。 〔再従兄弟〕義家依て陸奥に来る。 有光公出て之を迎え、国府に送る。 公應徳三[1086]年十月二日、保原城に卒す。 年五十一。 城は藤田の館を称す。 之より先、家を世子元光〔基光〕公に譲り、此に老す。 遂に此地に卒す。 在光院殿諒山舜英大居士と謚す。 岩峯寺先塋 せんえい 〔先祖の墓所〕に葬る。 (中略) 公七男二女あり。 長男光佑〔光頼〕、母は妾(中略)。 石川郡藤田の邑を与へられ一族に列す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 「藤田城は当〔石川〕町北西部の中野にあり、有光の長子光祐が居住した。 その後、南須釜(現玉川村)に館を築いて移り、鴫山 しぎやま 藤田城または大寺城とも呼んだ」(『角川日本地名大辞典』)。 「次男光平、母は兄光佑と同じ、(中略)信州諏訪郡に於て邑を食む。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 「当〔石川〕町外槇 とまき には有光の次男泉小二郎光平の子息光則が居住したという梁瀬の館跡がある。 城址南麓の矢吹街道下側に巨大な五輪塔の一部分が残っている。 」(『角川日本地名大辞典』) 「三男元〔基〕光公、母堂正夫人蓮正院、立て世子たり。 四男光孚 たね 、母は元光公に同じ、(中略)矢吹に住す。 一族に列す。 (中略) 五男光房、(中略)奈目津の邑を与えられ、奈目津五郎と称す。 一族に列す。 (中略) 六男光度、(中略)赤坂の邑を与え、赤坂六郎と称す。 一族に列す。 七男光助、(中略)信州依田を食む。 (中略) 八男有佑、(中略)外祖父吉田兼親朝臣の義子となり、吉田左衛門尉と称し、石川氏神の神職たり。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 三芦城 三芦城の築かれた八幡山は標高320mほどの高台で、ふもとに北須川が流れている。 南東部は断崖をなし、石段 249段の急斜面を登って本丸に達する。 本丸跡の西側は石都々古和気 いわつづこわけ 神社(高田八幡神社)をまつっている。 」(『角川日本地名大辞典』) 「三芦城跡 石川氏の祖、源有光が平安時代中期に築城したもので、25代昭光が豊臣秀吉に領地を没収されるまで、領主石川氏の居城であった。 三方が急崖で西北を空ぼりで区切った山城である。 本丸跡には石都々古和気神社があり、応永30年 1423 銘の銅製鍔口が納められている。 これは城主の石川持光が寄進したもので、県重要文化財に指定されている。 」(『白河・須賀川』歴史春秋社) 磐城国石川郡石川荘 石川「氏が入部したころの東北地方は、(中略)地方制度の激変が続いていた時代だった。 奈良時代以来の郡や郷が再編されて姿を消し、それに変〔代〕わって新しい郡や荘園が、とくに福島県浜通り地方を中心に、続々と生まれはじめていたのである。 陸奥の石川郡も、『和名抄』(『類聚倭名抄』)には見えておらず、白河郡の石川郷・藤田郷と呼ばれる地域だったらしい。 それが石川氏の入部以後、開拓の進展とともにその名にちなんで石川郡がたてられ、さらにその地域のほぼ全域が、石川庄という荘園に塗りかえられていった。 同庄は久我 こが 家領とされているが、立庄や寄進の経過などについては、全く知られていない。 石川氏がこの地に移住し、開拓を進めるに当たって、まず根拠地としたのは、石川郡玉川村の地域だったと思われる。 それは前記した石川基光供養塔のある岩法寺が、この地にあることからも考えられるところである。 」(『角田市史』) 「石川〈石川町〉 石河とも書く。 中通り中部、阿武隈川の支流北須川・今出川沿岸に位置する。 」(『角川日本地名大辞典』) 「〔福島〕県南部、石川郡の中央よりやや南西部に位置する。 (中略)福島市の南70Kmの地にある。 阿武隈山地にあり、阿武隈川の支流社川が町の西部を貫流して須賀川盆地に流れ込む。 中心市街地は社川の支流北須川と今出川の合流点付近の谷間に形成されている。 (中略)地勢は西部の阿武隈川と社川に包まれた平坦地と社川東部の山間部に分かれる。 標高は平坦地で 280m、山地で 400mくらいである。 当〔石川〕町は国鉄水郡線の沿線にあり、国道 118号・主要地方道いわき石川線(御斎所街道)・同白河石川線の集合点に当たり、当地方の中心地である。 水郡線の開通により輸送が便利となり、製材・木工業も行われている。 また町の北部にある母畑ダムの完成により、水田の基盤整備や畑の造成が進み、農業の近代化が図られている。 一方、母畑・猫啼などの温泉地があり、石川山からは電気石・ざくろ石など珍しい鉱物が産出されている。 」(『角川日本地名大辞典』) 石川澤井三郎元光〔基光〕 (10?? 」(『角川日本地名大辞典』) 「小字喜代丸三郎と号す。 後大炊介基光と改む。 父有光保原城に老するや、公其後を承く。 従四位下に叙せられ治部大夫に任ず。 元光と改む。 公乃父創業の後を継ぎ、民庶を憮し、領土の開発に努め、子弟を分封して家運の進展を計る。 寛治元[1087]年十二月、鎮守府将軍源義家清原武衡を伐つ。 公、兵衆を率ひ、義家将軍を輔け、金沢の柵を攻むること数月、遂に之を陥れ奥羽悉く平ぐ。 (中略) 元光公義家将軍を輔け清家の賊を平ぐるや、命じて羽州田川郡を営せしむ。 後嘉保二[1095]年八月、一族異母兄大寺光佑・弟矢吹光孚・奈目津光房を伴ひて上洛す。 公従四位上大膳大夫に任ぜらる。 光佑従五位下遠江守・光孚従五位下下野守・光房従五位下岩見守を拝す。 公康和元[1099]年九月八日卒す。 文正院殿大方継光大居士と法謚す。 岩峰寺先塋に葬る。 (中略) 公七男三女あり。 (中略) 長男光忠、母は霊光院、小字小源太。 多病にして武家の業を継ぐ能はず。 (中略) 次男光義、母は霊光院、兄光忠の遁世により、立て世子となる。 三男季康、(中略)竹貫邑を与へ、一族に列す。 (中略) 四男政光、母は光義に同じ、(中略)赤羽荘を与えられ一族に列す。 (中略) 七男義基、母は季康に同じ。 小字徳丸、後沢井源三郎と称す。 沢井邑を与へられ、一族に列す。 従五位下左衛門佐に任ぜられる。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 既述のごとく、「澤田館は澤田村大字澤井に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) あるいは、「一説によると一〇五八~一〇六五年〔康平年間〕に源有光が石川〔の南西・沢井〕に城を築き、前に居住していた河内国(現・大阪〔府藤井寺市〕)の沢田郷にちなみ、この地を沢田としたという。 」(『福島大百科事典』)すなわち、その「城址を沢田といへり。 〔石川風土記〕」(『角川大日本地名辞書』) 石川冠者澤田太郎(源太)光義 (10?? ~1121) 「小字二郎、沢井弥太郎と称す。 兄光忠遁世の為め、父の後を承けて立ち、従五位下左京大夫に任ぜられ、後、従四位下大和守に任ぜられる。 晩年入道して道寛斎と号す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) また、この光義も「初メ冠者又源太ト稱ス」(『伊達世臣家譜』)。 「石川光義 石川冠者 澤田太郎 奥州石川ニ住ス」(『系図纂要』)。 「澤田サハタ氏(岩代)【清和源氏、石川氏族】 石川郡澤田より出る。 尊卑分脈に『石川基光の子光義、號澤田』と見える。 」(『新編姓氏家系大辞典』) 「澤田サハタ(中略) 清和源氏石川氏流 磐城国石川郡澤田邑より起る。 」(『姓氏家系大辞典』) 「【澤田氏】姓は清和源氏、源満仲の子源頼親(頼光の弟)より出ず、立家の祖を光義という。 」(『姓氏明鑑』) 「磐城国(福島県)石川郡沢田村から起ったのは福島の戦国大名・清和源氏石川氏の分〔頼親流〕で石川基光の子光義が沢田を称した。 」(『姓氏苗字事典』) また、「有光の孫光義が沢田太郎と名乗って摂津国沢田(大阪市〔東淀川区〕大桐)に所領を持った(中略)。 」(『清和源氏の全家系』) すなわち、この石川冠者澤田太郎光義こそ、澤田氏の元祖に他ならないのである。 石川「氏は鎌倉時代にいたるまで、多くの庶家を分出して、荘内各地に勢力を張る。 早い時期に出現した庶家の名乗った字を見ると、基光の子光義が沢田(石川町沢井・赤羽・新屋敷などの地域カ)を称し、さらにその子光治が成田(岩瀬郡鏡石町)を号したとある。 また基光〔広季?〕の弟、光家の子息たちも、光治が大寺(石川郡玉川村南須釜、東福寺付近とされている)、光輔〔高〕が小高(同玉川村)を称している。 これらの字はいずれも、現在の石川町中心部ではなく、むしろ玉川村を中心にして、その周辺に散在している地名であることがわかる。 このことも、石川氏の最初の基地が、玉川村地区にあったことを物語っている。 (中略) 以後、鎌倉時代、約百五十年にわたり、石川庄各地への開拓が進められた。 (中略) こうして石川一族の中には、庄内の地名を苗字とする多くの分家が出現してくる。 (中略) 石川惣領家は、これらの分家(庶子ともいう)に、開拓で獲得された所領を与えて、石川庄の支配に協力させるとともに、戦争の際などの非常時には、一族をひきいて軍役を提供せしめていたのである。 このような武士の生活の仕組を、惣領制と呼ぶこともある。 」(『角田市史』) 「保安二[1121]年辛丑 しんちゅう の歳、夏四月朔日卒す。 大昌院殿明輝寛大居士と法謚す。 岩峰寺先塋に葬る。 夫人下総守佐竹義業朝臣の女、天治二[1125]年九月十九日卒す。 法成院殿立生明乗大姉と法謚す。 先塋の側に葬る。 公四男四女あり。 (中略) 長男義季公、母は法成院、立て世子となる。 (中略) 次男義全 やす 、母は義季公に同じ。 福田弥二郎と称す。 後、石河三河守兼雅と改む。 三男光治、母は兄義季公と同じ、福田五郎と称す。 成田邑〔岩瀬郡鏡石町成田〕を与へられ、一族に列す。 石川宗家の命により、〔1189年〕文治の役源頼朝卿に従ひ、西討の軍に属して功あり。 後ち美濃国市橋の地を賜り、移りて市橋に住す。 美濃地方石川ヲ称する者概ね其子孫に出ず。 (中略) 四男、母は兄光治と同じ。 小字千松丸。 後泉右近介全重と称す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 石川三郎義季 (1??? ~1177) 「小字徳松丸、弥三郎と称す。 父〔光義〕の遺跡を継ぐ。 義季と改む。 保元二[1157]年上洛して従四位下大和守に任ぜらる。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 「『尊卑分脈』によれば、有光の孫〔光義〕の代に沢田・大寺・小高、曾孫〔義季〕の代に坂地・川尻・矢沢などの苗字があらわれる。 有光から三~四代目の世代、鎌倉前期のころに、石川氏は一族・庶流の分立をすすめ、石川庄の村々に一族を地頭として配置するにいたったものと思われる。 それは岩城氏のばあいとちがって、必ずしも耕地を開発して新しい村をつくりながらすすめられたというよりは、すでにひらけていた村に入部定住し、その開発をさらにはかってゆくという傾向をとったものとみられる。 そして、阿武隈山地の谷をぬって点在する村々に割拠するという形をとった石川一族は、岩城氏などに比較すると、それぞれに独立の傾向を強くもつようになったらしい。 」(『福島県の歴史』) 「治承元[1177]年丁酉 ていゆう の歳、秋七月六日卒す。 息心院殿需水天広大居士と法謚す。 岩峰寺に葬る。 公六男一女あり。 長男、(中略)早夭す。 次男基光公、母は量岳院、立て世子たり。 (中略) 三男光堯、母は兄基光公と同じ。 (中略) 四男光信(中略) 六男治曲」(『修訂版石川氏一千年史』) 「三郎義季の系統は、〔1221年の承久の乱〕以降も陸奥国石川荘を動かなかった。 」(『清和源氏の全家系』) 第四節 鎌倉時代の石川氏 「石川氏について記している古文書の数は、(中略)かなりの数にのぼる。 しかし、これらの古文書は、ほとんどが室町・戦国時代のもので、それ以前の平安・鎌倉時代のことを記したものはあまりない。 鎌倉時代末期のものが多少ある程度である。 従って鎌倉時代の石川氏の動向については、よくわからないというのが、正直なところである。 」(『角田市史』)」 奥州征伐 「六代元光〔基光〕の四男光家(石川四郎)は、『奥州南方ノ奉行』であったが、治承四[1180]年会津長浜で賊のために殺されたと伝える。 七代広季は寿永二年(一一八三)、一族成田光治に命じて頼朝の軍を助けさせた。 文治五年(一一八九)奥州征伐の途に就いた頼朝は、石川一族大寺光行の先導をうけて、八月三日石川の藤田に入り、父祖頼義の例にならってこの地の河辺八幡宮(玉川村)に戦勝を祈り、三日間の駐軍の後出発した。 征討のことが終わっての帰途、頼朝は再び石川の八幡に参詣し(中略)たという(なお、『吾妻鏡』にはこれらのことはみえない)。 (中略) 本〔福島〕県内の鎌倉時代の武士領主たちの多くが、文治五[1189]年の奥州征伐を機会として本県に所領をもつに至っているのに対して、石川氏のばあいは、古く平安中期に石川地方との関係をもったことになる。 」(『福島県史』) 「石川の人々にいわせると、鎌倉幕府以前の築城は三芦城で、福島県内の武士団の定着では、最も古いと誇りにしている。 」(猪狩正志他『ふくしまの古戦場』歴史春秋社) 「ただし『一千年史』の記載は、平安末期有光の子息たちの代に、石川一族は庄内の村々にほぼ根を張りおえたという印象を与えるが、それはむしろ、鎌倉時代初期有光の孫あるいは曾孫たちの代に、大きく進められたと考えるべきであろう。 (中略) 一族が沢田・成田・大寺・小高・坂地・河尻・矢沢その他多くの名乗りをもつ分流にわかれて、庄内の村々にそれぞれ土着するようになるのは、『尊卑分脈』が示すように、早くとも有光の孫〔光義〕あるいは曾孫〔義季〕の代のこととみられるのである。 」(『福島県史』) 北条氏御内人 「鎌倉中期から石川荘は北条氏の所領となり、石川氏一族は北条氏の被官となった。 」(『角川日本地名大辞典』) 「北條氏が石川荘全体の地頭職を握り、石川一族はその下で村々の地頭代に任じられるようになっていたと考えられている。 (中略)石川氏が北條氏の個人的従者になったのは、〔1221年〕承久の変のころからとも推測されている。 『石川系図』によると、同氏は、北條氏と婚姻関係を結んでおり、その結びつきも並々ならぬ深いものだったと見てよいだろう。 」(『角田市史』) 「八代光貞は執権北条泰時の息女を妻としている。 九代長光〔光長〕は、弘安四年(一二八一)の蒙古襲来に際して京都の守備の任をつとめ、さらに太宰府に至ってその守備に当たった。 」(『福島県史』) 「〔光長の曾孫〕家光・時光の父子〔兄弟?〕は、ともに北条家〔北条経時(泰時孫、時頼兄)〕の女を母とし、北条家で元服を加えている。 」(『福島県の歴史』) 「元享三年(一三二三)北條貞時の十三年忌が、子息の高時によって営まれたが、その際に百八十二人の御家人が、砂金・銭・太刀・馬などを献上している(円覚寺文書)。 その中に、多くの石川一族の名が見えている(中略)。 」(『角田市史』) 「ここに石河氏の北条氏御内人 みうちびと としての従属性を知ると共に、(中略)〔石川氏〕諸流が、嫡流を中心としながらも独立に北条氏と関係を結んでいることに注目しておきたい。 」(『福島県史』) 「石川一族の多様さとその独立的傾向とを、この例からうかがうことができる。 」(『福島県の歴史』) 開拓の行詰まりと所領紛争 「このように開拓を重ねて、着実に力を伸ばした石川一族ではあったが、鎌倉後期になると、社会の変質を反映したかのように、多くの問題が噴き出してきた。 とくに深刻な問題として、開拓の行詰まりという事態があった。 鎌倉時代を通じて、社川ぞいの開墾適地の開拓を進め、目覚ましい成果をあげたのであったが、当時の士〔土〕木技術をもってしては、阿武隈川氾濫原の開墾は不可能だった。 だから、技術的な制約から開拓には一定の限度があり、その線に達して開墾事業が飽和状態になると、そこから先には進めないことになる。 このことは深刻な事態を生み出した。 第一に、この時代の武士社会の、もっとも基本的な仕組である、分割相続が不可能になったことであり、さらに限られた土地の相続をめぐって、一族の間で所領争いが続発するようになったことである。 弘長元年(一二六一)から文永二年(一二六五)にかけて、石川坂路光信と、その甥光行の間で、石川庄川尻郷・蒲田郷(東白河〔石川〕郡郡古殿町鎌田のこと)の領有をめぐって、争いが起こり、北條重時・同時宗の下知状によって、いずれも坂路光行に領知が認められている。 こういう事態の出現は、惣領制という一族の団結の仕組みにもひびを入らせることになるし、また、鎌倉幕府の滅亡の遠い原因にもなったのである。 (中略) 石川氏の困苦は、鎌倉幕府の滅亡という大きな政治的動揺のなかで、さらに増幅されることになった。 北條氏御内人として、幕府首脳と密着した生活を営んできた一族が、この大事件の中で前途を見失って、混乱したことは想像できる。 しかし、そういう中にあって、一族の石川〔時光の嫡男〕義光は、元弘三年(一三三三)五月、新田義貞の鎌倉攻めに参加して、軍忠状に義貞の証判を与えられている。 」(『角田市史』) 第五節 南北朝争乱と石川氏 「石川氏が歴史の表面に踊り出て、華々しい動きを見せるようになるのは、南北朝期以後のことである。 それは一つには、この時期以後、文書資料が沢山残されるようになり、石川一族の行動を明らかにしやすくなったことがあるが、それよりも、この時期が地方豪族にとって、絶好の勢力確立・拡大期だったことをあげなければならない。 」(『角田市史』) 建武の新政 「長い年月にわたる北條氏との関係をたち切ってまで、反幕府の姿勢を示して、その後の勢力維持をはかった石川氏であったが、後醍醐天皇によって展開された新政の中では、石川氏は大変きびしい状況に追いこまれることになった。 それは、北條氏の所領は多くが没収されて、いわゆる元弘没収地となり、幕府討滅の恩賞の原資とされたことであった。 石川庄が元弘没収地となったかどうかは明らかではないが、北條氏所領だった可能性が強いので、かなり大きい影響をうけたものと見られる。 建武元年(一三三四)四月、北畠顕家は石川庄の鷹貫(竹貫)・坂地(坂路)・矢沢(谷沢)三郷を、結城宗広に与えている。 おそらくこれは、石川庄地頭、あるいは石川庄奉行だった石川氏に発せられた命令だったと考えられる。 石川一族の勢力維持のための努力も空しく、鎌倉時代以来開拓につとめてきた、庄内の一所懸命の地を奪われてしまったのである(伊勢文書/陸奥国司下文案)。 (中略)鎌倉時代以来の北條氏領、あるいは北條氏被官(=御内人)という事実が、石川氏の鎌倉攻めの功績を無にするような結果になったと考えるべきであろう。 おそらくこれは、奥州での建武新政の大黒柱である、結城宗広の本領白河庄に石川庄が隣接していたことから生じた悲劇だったのである。 (中略) 石川一族などは、鎌倉末期の一時期とはいえ、反幕府の立場を明らかにして戦っているのだから、当然、石川庄の全面的な支配者として認められてよい人々だったのである。 それが上記のような結果になったのは、石川庄内の郷村の宛行主が白河結城氏と、その家臣だったことによるといえよう。 結城氏の功に報いるため、北條氏御内人だった石川氏を冷遇して、その所領をけずったのである。 しかし、このことが結果的には、石川一族を北朝方に追いやることになった。 」(『角田市史』) 石川一族北党に属す 「建武新政のもとで、本領の一部を奪われる悲劇に泣いた石川一族は、所領回復のための運動を展開する。 そのための絶好の機会が意外に早く到来した。 建武二年(一三三五)七月の中先代の乱である。 北條高時の遺児時行が、信州の諏訪氏に奉ぜられて挙兵し、鎌倉を襲った事件のことである。 これをきっかけに足利尊氏が、後醍醐天皇に公然と反旗をひるがえした。 石川一族の蒲田五郎兼光は、早速、尊氏方に参陣し、その軍功によって石川庄内の本知行を宛行われている(遠藤白川文書)。 また同じく石川義光は、その後も尊氏と行動をともにし、九州や湊川に転戦して、最後は比叡山麓西坂本の合戦で討死している(角田石川文書)。 こうして、中先代の乱以来、石川一族は、北朝方として、まさに東奔西走の活躍をしたことが知られる。 その後も、大阪天王寺の戦や男山城善法寺の戦などで、一族と見られる(中略)名が見える。 おそらく当時の北朝方の総大将石塔義房の指揮のもとに、北畠顕家の第二次征西軍を追って、上方を転戦したものである(秋田藩家蔵文書/岡本文書)。 もちろん、地元の奥州でも(中略)戦を交えている。 内乱期を通じて、一時的には、一族の中で南朝方に投ずる者もあったが、大勢としては、ほぼ北朝勢として行動している。 」(『角田市史』) 白川結城氏の圧迫 「奥州南朝勢の抵抗は、文和二年(一三五二)五月に、最後の拠点宇津峯城が陥落して、ほぼ根絶された。 しかし、その後も争乱は止むことなく続く。 奥州管領畠山氏と吉良氏の争いが火を噴いた岩切合戦や、さらに奥州四管領の間での主導権争いなどである。 その中で、石川一族も、しばしば動員されていることは、いうまでもない。 岩切合戦からその後の広瀬川の合戦を経て、敗れた吉良貞家が、名取郡~伊具館~東海道滝尻宿へと敗走した時に、石川蒲田兼光が、貞家の護衛役として献身したことは、『遠藤白川文書』にも記されている。 (中略) 石川氏はこうして、南北朝時代に、かなりの活躍を見せたが、この時期の後半になると、次第に白川結城氏に圧迫されるようになった。 同氏は、宗広の代までは、南朝方の中心として活躍したが、その子親朝の時代には、北畠親房の度重なる出陣要請にも応ぜず、三迫〔宮城県栗原郡〕の合戦後の康永二年(一三四三)には、北朝方に投降してしまった。 この間建武二年(一三三五)には、白川・高野・岩瀬・安積の四郡、石河・田村の二庄、依上・小野の二保など、八か所の検断に任命されている。 (中略)これによって、白河結城氏は、南奥のいわゆる仙道一帯の指導者の地位を承認されたことになり、その下には石川氏をはじめ、田村・二階堂・伊東・上遠野など、鎌倉時代以来の地方武士たちが服することになった。 この権限は北朝方からも追認されたので、結城氏の地位は他氏を大きく上廻るものとなった。 同氏はこのほかにも、(中略)多くの所領を与えられたが、(中略)その中に石川庄の三郷も入れられていたことは前記した。 こういう背景があったから、結城氏が北朝方に投降した後も、石川氏と結城氏の間では、何回にもわたって、所領の支配をめぐる争いがくりかえされた。 一五世紀半ば、結城直朝のころになると、石川一族の中の有力者だった石川蒲田氏が敗北して、居城を破却された上に、所領と同家に伝来した古文書(石川蒲田文書)を没収されてしまった。 また同じ一族の赤坂・大寺・小高の三氏も、氏を変え、家紋を改めて、結城氏に属したという。 こうして石川氏は南北朝時代以降、白川結城氏の強い束縛のもとにおかれることになったのである。 」(『角田市史』) 第六節 室町時代の石川氏 仙道諸家一揆 「応永十一年(一四〇四)ごろと推定されている『仙道諸家一揆傘連判状』(一揆契状ともいう。 秋田藩家蔵文書/白川文書)という史料は、石川一族の一揆契状で、石川庄松川の源朝光以下一七人の署判を、円形に連ねたものである。 まさに『一揆の時代』と呼ぶにふさわしい状況だった。 いずれも、篠川・稲村両御所の付近の、しかも中小武士によって結成されていて、伊達・白河結城・芦名などが加わっていないことなどから、そのように考えられている。 (中略) 石川氏をはじめ、田村・伊東などの諸氏は、一族の分離独立の傾向が早くから進んでいて、そういう中で一族の団結を図る必要があったので、一揆結成は渡りに船と受けとめられた(中略)。 」(『角田市史』) 白川結城氏の覇権 「両公方の着任は、このように、南奥羽の国人の間に大きな影響を及ぼしたが、波紋はそれだけに止まらなかった。 (中略)〔1396年〕伊達〔大膳大夫〕政宗の乱と、それに続く、芦名・斯波・大崎氏をもまきこんだ、南奥の政治的混乱をも、この事件はひき起こすのである。 さらに両公方自身もまた、この時期の全国的な政治状況の中で、複雑な動きをはじめることになる。 篠川満直は応永二十三年(一四一六)以後、反鎌倉の立場を明らかにし、稲村満貞と対立する。 満直は室町将軍と結んで、鎌倉公方になろうとし、永享の乱に際しては、室町幕府から、鎌倉公方足利持氏追討の奥州総大将に任じられて、甥持氏を敗死させるのに力を貸した。 この時、弟の満貞も持氏とともに鎌倉永安寺で自刃している。 残った満直も、しかし長く生き残ることはできなかった。 永享の乱の翌年、永享十二年(一四四〇)には、石川持光をはじめ、畠山・石橋氏などの奥州武士に攻撃されて、殺されてしまった。 (中略) この結果、両公方庇護者方という〔大義名分〕を失った石川氏は、有力国人白川氏の勢力とまともに対抗せざるを得ない状況に追いこまれることになった。 その結果が、前記したように、石川蒲田氏の没落や、赤坂氏以下の服従となって、石川氏の頽勢をますます深刻なものにすることとなった。 十五世紀半ばに登場した白川直朝は、卓抜した政治手腕によって、北関東の宇都宮・那須・佐竹などの諸氏に影響力を及ぼし、伊達氏を除く福島県内の武士のほとんどが、白川氏の配下に入った、といわれるほどの大勢力を築き上げた。 北関東から南奥にまたがる有力国人に成長したのである。 それは、一族内での分裂・抗争が深刻になったこと、とくに有力な庶家である小峯氏と白川氏の間に内紛があって、一瞬にして家運が傾いてしまった。 周辺の諸氏は、これに乗じて、同氏の所領を蚕食しはじめる。 会津を本拠とする芦名氏は、会津守護を自称するほどに、この地方に勢力を張った。 〔1540年〕伊達氏天文の乱に乗じて、仙道地方にも進出し、安積・岩瀬郡方面を支配するに至った。 須賀川の二階堂氏、二本松の畠山氏や白川氏らがその影響下におかれることになったのである。 石川氏も、その領域の西端の地区で、芦名氏と接触することになった。 」(『角田市史』) 岩城氏の侵攻 「浜通り地方、東海道の岩城氏も勢力を拡げていた。 室町時代初期の応永十七年(一四一〇)二月には、前記した仙道一揆とは別の、相馬・標葉 しねは ・楢葉などの海道の有力豪族による五郡一揆が結成された。 岩城氏はその盟主ともいえる立場で参加している。 石川郡にも勢力をのばしたことは確実で、天文十年(一五四一)六月には、竹貫広光・同隆光の二人が連名で、岩城重隆と白川氏が疎遠になるような時には、白川氏のために働く、という意味の起請文(遠藤白川文書)を白川氏に出している。 」(『角田市史』) 既述のごとく、「竹貫隆光・広光父子」は「石川一族で、竹貫(東白河〔石川〕郡古殿町)を本拠とする。 竹貫氏は、この天文十[1541]年をあまりさかのぼらぬころに石川氏を離れて岩城氏の麾下になったものと思われ、竹貫の地は岩城領となっていた」(『いわき市史』)のであった。 「『福島県史』は、この史料から、竹貫氏が岩城重隆の重臣だったのではないかと推定している。 竹貫という字、広光・隆光という諱からみても、これは石川一族だった竹貫氏と考えなければならない。 そうすると、岩城氏の勢力が、かつての石川領の東半分ぐらいに浸透しており、石川一族の中にもその家臣になっているものがあったことになる。 」(『角田市史』 佐竹氏の脅威 「このように、白川氏の衰退とともに、石川庄の周辺には、有力豪族の諸家が相ついで進出し、石川氏はその圧力の前にさらされる状況となった。 これらのほかにも南方の常陸からは、佐竹氏が進出しはじめ、永禄三年(一五六〇)には、石川庄の南方の、高野郡南郷を占拠して石川氏の領域と境を接することになった。 佐竹氏はこの後、白川氏の内紛に乗じて、白川領を完全に掌中に収め、芦名氏の勢力と対峙するようになった。 石川氏は、この二大勢力にはさまれて、揺れ動くことになる。 」(『角田市史』) 田村氏の侵略 「脅威はそれだけではなかった。 戦国時代の段階で、石川氏にとって、もっとも警戒しなければならなかったのは、田村氏の動向であった。 天文十三年(一五四四)七月には、田村家臣の常葉光貞と大越顕光が連署して、石川稙光父子と田村隆顕父子の和解に努力することを誓った起請文を書いている(角田石川文書)。 『福島県史』は、常葉・大越の両者はもと、石川稙光に属しており、田村隆顕と合戦した後、敗れてこの起請をしたのだとしている。 さらにその後の永禄八年(一五六五)にも、田村隆顕は、石川晴光を攻め、撃退されている。 前記した大越顕光は、諱からしても、石川一族だった可能性が強い。 」(『角田市史』) 大越顕光が石川一族だったという上記の所説は、のちに述べるように、明らかまちがいであるが、もちろんこの顕光は、明治時代に澤田氏に嫁いだまつゑの祖先である。 大越氏と石川・澤田一族は、すでに当時から、浅からぬ因縁にあったのである。 また、既述のごとく、「仙道〔山道〕の石川同流」である「四本松石川氏」は、石川宗家を離れて自立していたが、「去れども〔四本松〕石川は微力、(中略)田村の助力を借る為に旗下と成」(『奥相茶話記』)った。 「石川氏の側からみると、一族のものまで田村家臣に繰りこまれる状況になっていたのである。 」(『角田市史』) 澤田氏の東遷と猪狩・岩城氏臣従 「このように、戦国時代になると、石川氏は、その領土の周辺を、有力大名に取り囲まれることになり、一族もそれぞれに他氏に臣従するという、分裂的状況になった。 そういう中で、保身の道を模索する必要に迫られたのである。 中小大名である石川氏にとって、周囲の諸勢力の政治的状況を敏感に見抜いて、その流れに逆らわないで、多方面外交を展開していく以外になかった。 」(『角田市史』) ご多聞に洩れず、澤田氏もまた、ついに石川荘澤田郷の故地を去り、東遷して楢葉郡に至って猪狩氏に仕え、かくては岩城氏の陪臣となった。 その時期を判断する史料はない。 しかし、石川氏をめぐる上述の諸情勢を按ずるに、白河結城氏の最盛期すなわち「文明年間(十五世紀七十~八十年代)の直朝・政朝父子の時代」が終わった15世紀後半から、竹貫氏が「石川氏を離れて岩城氏の麾下になった」「天文十[1541]年をあまりさかのぼらぬころ」、16世紀前半にかけての動乱の時期の間、すなわち15・16世紀の交1500年前後、後述する岩城下総守常隆/猪狩忠満・大和守の代ごろに、その時期を比定することができよう。 13世紀に発生した「源姓石川澤田氏」は、宗家「清和源氏石川氏」とともに動乱の3世紀をくぐり抜けてきた。 しかし、いまやまさに、その重代の宗家と袂をわかち、父祖伝来の「澤田」の故地をも後にして、新天地をめざして東方へと旅立ったのである。 第八節 それからの石川氏/角田石川氏 石川之儀者在城一ヶ所迄に候 「永禄十年(一五六七)十一月、〔蘆名〕盛氏は赤館左衛門に石川郡沢井(石川町)を起請文によって安堵しているが、これによると、沢井の地を佐竹氏が占領し、これを白川氏が望んでいること、また盛氏が石川地方に強い権利を行使していたことが明らかである。 」(『福島県史』)既述のごとく、「沢井」は澤田館の所在地、澤田氏ゆかりの地である。 「元亀二年(一五七一)七~八月の交には、佐竹義重が石川一族の中畠氏(西白川郡矢吹町)を攻め、蘆名盛氏父子・田村清顕がこれを迎撃した。 同じころの三月、義重が石川領の大寺(玉川村須釜)に向って出馬したのに対して、清顕がその備えを指示した書状も現存する。 石川領の実権はすでに蘆名・田村両氏に握られているとみられる。 (中略) このころになると、石川郡南部は佐竹氏に、東〔西〕部および北部など大部分は蘆名氏の領有となってしまったらしい。 天正六年(一五七八)正月、蘆名盛氏は越後の新発田長敦あての書状のなかで、『石川之儀者は 在城一ヶ所迄に候。 其外、残り無く手の裏うちに入り候。 』と述べている(浜崎文書『会津若松史』)。 」(『福島県史』) 石川昭光・反伊達南奥連合 「こういう中で、石川晴光は、伊達晴宗の息、昭光を入嗣させた。 『石川一千年史』によれば、永禄六年(一五六三)のことである。 これは、伊達氏の威光を背景にして、佐竹・芦名などの強豪に対抗しようとしたものだったろう。 天正年間〔1573~91〕に入ると、石川庄の南部は佐竹氏、北部・西部は田村氏・芦名氏に占領される状況となる。 こうした関係を通じて、芦名・佐竹・白川・二階堂ら諸氏の結合が強まり、南奥の連合勢力の形成が進められる。 この連合に対立したのが、伊達・田村氏である。 石川昭光自身は伊達氏の血を引きながら、夫人が佐竹氏の女(『一千年史』は晴光女子)であったこともあり、反伊達連合への従属を深める以外に途がない状況に追いこまれていったのである。 中小大名石川氏の悲劇というほかはない。 」(『角田市史』) 伊達陣営への帰属 「天正十二年(一五八四)十月、伊達政宗が十八才で伊達氏の主となると、南奥の戦機は急速に昂まり、戦国時代の大詰めへ、事態は急速に動き出した。 (中略)その中で、石川氏は、ほぼ一貫して、反伊達陣営に属して戦っている。 」(『角田市史』) 「石川氏が伊達陣営に接近をはじめるのは、天正十六[1588]年春のことで、『伊達治家記録』によると、閏五月のころから、合戦についての情報が、石川氏から提供されるようになった。 そして郡山城攻防戦の結果、石川昭光と岩城常隆の和睦斡旋によって、講和が成立している。 これ以後、しばしば石川氏よりの使者の来訪が記されているから、次第に関係が深まったのであろう。 しかし、正式に石川昭光が伊達陣営への帰属を決定するのは、翌天正十七[1589]年十一月のことで、政宗と昭光の間で誓詞を交換して、石川氏の服属が決まった。 この後、昭光は須賀川の地を与えられている。 また、佐竹氏に服属していた浅川氏も、同年の暮、政宗に降伏し、翌十八[1590]年正月には、石川氏との和解が成って、以前のように石川氏の家臣に復帰することになった。 」(『角田市史』 石川氏の没落 「そういう中で、天正十八年(一五九〇)三月、豊臣秀吉による小田原攻めがはじまり、奥羽の諸大名に対しても、小田原への参陣が命令されるに至った、伊達政宗はここで参陣を決断し、近世大名として生き残ることができた。 石川氏はそうしなかったために、領地を没収され、石川荘は蒲生氏郷に与えられた。 『治家記録』には、昭光も小田原に参陣して、遅参を謝罪しようとしたが、政宗にその必要はないと慰留されたので、政宗に太刀や馬を託して謝罪の取りなしを依頼したという。 その甘い目論見は失敗して、所領を失ってしまったのである。 これについては、いろいろな見方ができようが、要は石川氏自身も伊達陣営に帰属して以来、独立大名としての自立性を失ってしまい、機敏に対応すべき時に、その決断をすることができない状態になっていたということにある。 こうして石川氏の中世史は終りを告げた。 」(『角田市史』) 仙台藩一門首席角田石川氏 その後、「昭光は政宗の家臣となり、その子孫は伊達一門の首席〔角田石川氏二万千三百余石〕に列した(県史・石川町史)。 」(『角川日本地名大辞典』) 「〔天正〕十九[1591]年政宗公志田郡松山館及采地六百貫文〔6000石〕ヲ授ク。 慶長三[1598]年伊具郡角田館ニ移ル時、采地二百貫文〔2000石〕ヲ増賜ス。 是ヨリ先文禄年中、二百貫文〔2000石〕ヲ増賜ス。 通ジテ千貫文〔1万石〕ヲ領ス。 八[1603]年家ヲ嫡嗣遠江義宗ニ授ケテ隠居ス。 柴田郡村田館及び采地三貫文〔30石〕ヲ賜ヒ、隠居ノ食邑ト爲ス。 十五[1610]年十一月晦、義宗歿シ、其嫡嗣宗敬家ヲ継グ。 宗敬幼ナルヲ以テ昭光還リテ角田ニ住シ、再ビ家事ヲ治ム。 元和元[1615]年五月六日、政宗公ニ從ヒテ、大阪〔冬の陣〕道明寺口ニ戦ヒ、首五級ヲ獲。 八[1621]年七月十日卒。 年七十三。 法名、廣岩明額。 角田長泉寺ニ葬ル。 」(「伊達家系譜」『仙台人名大辞書』) のちに、既述のごとく、「角田石川氏」七代村満は「源太郎」と号し、十二代宗光は「右源太」、十三代駿河は「左源太」と号した(『仙台人名大辞書』)。 「その後代々角田要害主として幕末には二万千三百余石を領した。 」(『宮城縣史』.

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戦国武将録: 8月 2011

奥州 仕置 において 石川 昭光 は 次 の うち どの よう に 処遇 され たか

---------------------------- 【あ】 愛澤清左衛門【あいざわきよざえもん(15?? ~15?? )】 相馬義胤家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 会田遠江守【あいだとうとみのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡蒲谷館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 青木玄蕃允【あおきげんばのしょう(15?? ~15?? )】 懸田俊宗家臣。 1571年、伊達実元に内応した。 1576年、「川俣の戦い」で戦功を挙げた。 青木胤綱【あおきたねつな(15?? ~15?? )】 青木玄蕃允の男。 官途は弾正忠。 伊達実元に仕え田村清顕との取次役を務めた。 青木綱広【あおきつなひろ(15?? ~15?? )】 青木胤綱の男。 官途は備前守。 1586年、「人取橋の戦い」では、小浜城留守居を務めた。 1595年、伊達成実が出奔すると、伊達政宗に仕え200石を領した。 青田常久【あおたつねひさ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 新山館主。 通称右衛門尉。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田常義【あおたつねよし(1498~1525)】 青田常久の男。 通称孫四郎。 1525年、「白戸館の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田常高【あおたつねたか(1514~1542)】 青田常義の男。 通称左衛門尉。 官途は能登守。 智勇兼備の将。 1540年、「三春城の戦い」では、寡兵をもって岩城由隆勢を壊滅させた。 1542年、「掛田城の戦い」で伊達晴宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田常清【あおたつねきよ(1540~1589)】 青田常高の男。 通称右衛門尉。 1589年、「新地館の戦い」で伊達政宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田常治【あおたつねはる(15?? ~16?? )】 青田常清の男。 山沢館主。 通称孫左衛門。 1602年、相馬義胤が減封処分に処されると、中村城下に転封した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田高治【あおたたかはる(15?? ~16?? )】 青田常治の男。 通称孫左衛門。 137石を領した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田治之【あおたはるゆき(15?? ~15?? )】 青田常義の次男。 通称六郎。 相馬盛胤に仕えて宇多郡富沢城主に任じられた。 伊達輝宗勢との戦いで戦功を挙げた。 青田胤清【あおたたねきよ(15?? ~15?? )】 青田常久の次男。 官途は信濃守。 通称太郎右衛門。 別名青田胤治。 1525年、「白戸館の戦い」で兄青田常義が討死したため、青田家の家督を相続した。 1543年、相馬顕胤の意向を受け江井胤治とともに黒木信房、中村義房、黒木知房を謀殺した。 1543年、木幡盛清と対立したため、草野直清と結んで相馬盛胤に謀反を起こした。 1563年、「黒木城の戦い」で宇多郡中村城代草野直清と結んで相馬盛胤に謀反を起こし、伊達晴宗の家臣舟山豊前守、大谷地掃部勢を領内に引き込んだ。 「礒部館の戦い」で舟山豊前守、大谷地掃部勢は、礒部館を守る佐藤好信に撃退された。 「貝殻坂、石積坂の戦い」で舟山豊前守、大谷地掃部勢とともに高田内膳と戦ったが敗れ中村城に退却した。 田村清顕のもとに落延びた。 参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。 青田顕治【あおたあきはる(15?? ~15?? )】 青田常義の三男。 官途は信濃守。 青田常治【あおたつねはる(15?? ~15?? )】 青田顕治の次男。 通称修理亮。 青田石見守【あおたいわみのかみ(15?? ~15?? )】 相馬義胤家臣。 1576年、「冥加山の戦い」で湯村備後守を討取る戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 赤坂貞光【あかさかさだみつ(15?? ~15?? )】 東白川郡赤坂館主。 官途は宮内大輔。 通称左馬助。 別名赤坂政光。 1560年、東義久に内応して佐竹義重勢に属した。 東義久勢に従い北関東、南奥州を転戦した。 参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。 赤坂朝光 【あかさかあさみつ(1555~16?? )】 赤坂貞光の男。 官途は下総守。 智勇兼備の将。 1588年、「常陸玉里の戦い」では、大塚成貞勢と戦った。 1590年、佐竹義宣から所領を安堵された。 1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。 参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。 赤坂光忠【あかさかみつただ(1538~15?? )】 赤坂貞光の次男。 白河郡渡瀬館主。 官途は右馬助。 赤坂光次【あかさかみつつぐ(15?? ~15?? )】 赤坂貞光の三男。 白河郡山王山館主。 赤石沢美濃守【あかいしざわみののかみ(15?? ~15?? )】 石沢修理亮家臣。 家老職を務めた。 1589年、「常盤城の戦い」で相馬盛胤、岩城親隆勢の攻撃を受けると、相馬盛胤に内応して城内に火を放ち、相馬盛胤勢を引き込んだ。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 赤沼弾正忠【あかぬまだんじょうちゅう(15?? ~15?? )】 田村郡赤沼館主。 田村家四十八館。 250石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 赤橋元胤【あかはしもとたね(15?? ~15?? )】 相馬顕胤の四男。 戦に出れば先陣を務め「槍の赤橋」と恐れられた。 初陣で頸級十二をあげる戦功を挙げた。 剛の者だが軍略にも通じていた。 阿久津右京【あくつうきょう(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡阿久津館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 浅川義純【あさかわよしずみ(15?? ~15?? )】 石川郡浅川城主。 官途は大和守。 石川晴光、佐竹義重と結び、白河結城義親、田村隆顕らと戦った。 1573年、石川晴光と佐竹義重が争うと、仲裁に奔走して和議を結ばせた。 1577年、「浅川城の戦い」で佐竹義重勢の攻撃を受け浅川城を追われた。 1582年、継嗣の浅川豊純とともに浅川城に復帰した。 1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が伊達政宗に滅ぼされると、石川昭光とともに伊達政宗に降伏した。 1590年、「奥州仕置」で石川昭光とともに改易処分に処され、伊達政宗に仕えた。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 浅川豊純【あさかわとよずみ(15?? ~15?? )】 浅川 義純の男。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 芦沢修理太夫【あしざわしゅりだいふ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡芦沢館主。 東方衆50騎の寄騎衆を率いた。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 足羽太郎兵衛【あしわたろうべい(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡下枝館主。 西方衆50騎の寄騎衆を率いた。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 足立刑部【あだちぎょうぶ(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 穴沢新助【あなさわしんすけ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡三城目館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 安部善四郎【あべぜんしろう(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 安倍清任【あべきよさだ(15?? ~1582)】 大寺清光家臣。 官途は備後守。 1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い副将を務め、油殻平で石川昭光勢の挟み撃ちに遭い討死した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 安倍常任【あべつなこれ(15?? ~15?? )】 大寺清光家臣。 官途は但馬守。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 荒井式部【あらいしきぶ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡荒井館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 荒藤八郎【あらふじはちろう(15?? ~15?? )】 相馬盛胤家臣。 1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 荒縫殿助【あらぬいどのすけ(15?? ~15?? )】 相馬盛胤家臣。 1576年、「冥加山の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢の沼部玄蕃を討取り、赤地に白巴の旗を奪い取る戦功を挙げた。 1580年、伊達輝宗勢の二騎を討取る戦功を挙げた。 1589年、「鳥海の戦い」で亘理重宗の家臣鷲足掃部を討取る戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 荒掃部助【あらかもんのすけ(15?? ~1568)】 相馬盛胤家臣。 1568年、「小野金谷の戦い」で討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 粟野易意【あわのえきい(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 通称右近。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 飯野隆至【いいのたかよし(1504~1578)】 岩城成隆家臣。 官途は式部大輔。 禰宜職を安堵された。 伊達晴宗との取次役を務めた。 参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。 飯淵九郎左衛門【いいぶちころうざえもん(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で伊達政宗勢の追撃を受け相馬盛胤の馬が橋を踏み抜いて動けなくなったところを馬上に引き上げて救出する功を上げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 石井甚七郎【いしいじんしちろう(15?? ~15?? )】 田村清顕家臣。 1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い田村兵部少輔の鉄炮衆を率いて大内定綱勢と戦った。 「糠沢の戦い」で大内定綱の家臣大内弥右衛門を討取る戦功を挙げた。 参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。 石川稙光【いしかわたねみつ(1494~1530)】 石川郡三芦城主。 室は田村隆顕の娘。 1524年、伊達稙宗、二階堂晴行、芦名盛舜らと結び岩城重隆、結城晴綱勢に対抗した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 石川晴光【いしかわはるみつ(1528~1580)】 石川稙光の男。 官途は修理大夫。 通称小太郎。 室は石川胤光の娘。 1530年、父石川稙光の病没により石川家の家督を相続した。 1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。 乱以後、田村隆顕、芦名盛氏の勢力争いに巻き込まれ所領を削られた。 1560年、「寺山城の戦い」で佐竹義昭が結城晴綱から白川郡を奪取すると、赤坂貞光が佐竹義昭に内応した。 1563年、伊達晴宗と結び、伊達晴宗の四男石川昭光を養子に迎え石川家の存続を図った。 1568年、石川昭光に家督を譲って隠居した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 石川昭光【いしかわあきみつ(1550~1622)】 伊達晴宗の四男(石川晴光の養子)。 官途は大和守。 通称小二郎。 室は石川晴光の娘(照子)。 1568年、養父の石川晴光が隠居したため、石川家の家督を相続した。 実父伊達晴宗や兄伊達輝宗勢に属して、田村清顕、佐竹義重勢と戦った。 1574年、芦名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡を巡って争い、芦名盛氏が石川郡の支配権を失うと、佐竹義重勢に属した。 1585年、「人取橋の戦い」では、佐竹義重勢に属して参陣した。 1589年、「摺上原の戦い」で芦名義広が滅亡すると、伊達政宗に従った。 1590年、「奥州仕置」で改易処分に処され伊達政宗に仕えた。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 石川義宗【いしかわよしむね(1577~1610)】 石川昭光の男。 1590年、「奥州仕置」で父石川昭光が改易処分に処されると、石川昭光とともに伊達政宗に仕えた。 1595年、伊具郡角田城に任じられ12,000石を領した。 1603年、父石川昭光の隠居により石川家の家督を相続した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 石川宗敬【いしかわむねたか(1607~1668)】 石川義宗の男。 官途は駿河守。 室は伊達政宗の娘(牟宇姫)。 1610年、父石川義宗が病没すると、祖父石川昭光が後見役を務めた。 1621年、石川家の家督と角田城12,000石を相続した。 1638年、阿武隈川治水工事の惣奉行職を務めた。 堤防工事は総延長2,792間に及び、その後の領地内の新田開発のもととなった。 1644年、刈田郡湯原館に転封した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 石川末光【いしかわすえみつ(15?? ~15?? )】 石川昭光家臣。 通称松之助。 1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 石川弾正忠【いしかわだんじょうちゅう(15?? ~15?? )】 田村清顕家臣。 1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。 参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。 石沢修理亮【いしざわしりのじょう(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 1,800石を領した。 常盤城主の常盤貞久が田村清顕から疎まれ、相馬盛胤のもとに落延びると、常盤城代に任じられた。 1586年、田村清顕が病没すると、その後継者を巡り家中が対立すると、伊達政宗を支援した。 1589年、「常盤城の戦い」で相馬盛胤、岩城親隆勢の攻撃を受け、城兵600余りとともに防戦したが、赤沢美濃守が内応したため落城した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 石沢茂太夫【いしざわしげだいふ(15?? ~15?? )】 田村清顕家臣。 1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。 参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。 石盛因幡守【いしもりいなばのかみ(15?? ~15?? )】 石川昭光家臣。 1582年、「油殻の戦い」で石川昭光が大寺清光を降伏に追い込むと、中野館、塩沢館、山小屋館を割譲させると、山小屋館を領した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 泉田胤直【いずみだたねなお(14?? ~15?? )】 標葉隆成家臣。 標葉郡泉田館主。 泉田隆家の男。 官途は隠岐守。 1492年、「泉田城の戦い」で相馬盛胤勢の攻撃を受けが、標葉隆成から援軍を得ることができず降伏に追い込まれた。 その後、相馬盛胤に仕えた。 泉田胤清【いずみだたねきよ(1563~1602)】 泉田胤直の男。 官途は甲斐守。 標葉衆25騎余りを率いた。 1589年、「新地城の戦い」で伊達政宗の家臣亘理重宗勢の攻撃を受け相馬盛胤もとに落延びた。 参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。 泉田胤雪【いずみだたねゆき(1563~15?? )】 泉田胤清の男。 官途は隠岐守。 智勇兼備の将。 継嗣の泉田胤清とともに伊達政宗勢の攻撃を何度も防いだ。 1588年、「小手森館の戦い」では、相馬義胤の意向を受け大越顕光とともに小手森城を守備した。 伊達政宗、田村清顕らの猛攻に耐え抜いた。 泉田胤清【いずみだたねきよ(15?? ~1602)】 泉田胤雪の男(祖父と同名)。 1589年、「坂本館の戦い」で相馬義胤勢の後陣(標葉衆300余り)を率いて参陣した。 1602年、病没したが継嗣がなく、娘聟の泉胤政が泉田館主に任じられた。 泉胤定【いずみたねさだ(15?? ~1569)】 行方郡泉館主。 通称は左衛門太夫。 泉村3,000石を領した。 泉家の菩提寺宝月山東泉院を再興した。 1569年、「丸森城の戦い」で伊達輝宗勢との戦い討死を遂げたため、田村清顕の家臣泉胤秋(中津川大膳亮)が堀内近胤の娘を娶り泉家を相続した。 泉胤秋【いずみたねあき(15?? ~1587)】 中津川兵衛左の男(泉胤定の養子)。 通称は大膳。 別名中津川大膳亮。 室は堀内近胤の娘。 継室は畠山尚義の娘。 相馬顕胤の弟堀内近胤の娘を娶り、堀内家を相続していたが、内室とそりが合わず堀内家を退去した。 小浜城主畠山尚義の娘を娶った。 継嗣の泉胤政が泉家を相続したが幼少のため後見役を務めた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 泉胤政【いずみたねまさ(15?? ~1633)】 泉胤秋の男。 通称藤右衛門。 1597年、相馬義胤は居城を小高城を牛越城に移すにあたり、泉胤政も人夫を差し出したが相馬義胤と泉胤政の人夫奉行が口論に及んだ。 泉胤政が謀反を企てたとして、相馬義胤は泉胤政追討勢を泉館に発した。 泉胤政は相馬義胤勢が来る前に館を焼いて出奔した。 泉藤六郎【いずみとうろくろう(15?? ~1590)】 相馬盛胤家臣。 1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 伊東祐勝【いとうすけかつ(15?? ~1583)】 白河郡三城目館主。 1583年、「三城目館の戦い」で中畠晴辰勢の攻撃を受け討死した。 井戸川清則【いどがわきよのり(15?? ~1524)】 相馬盛胤家臣。 官途は大隅守。 標葉六騎衆。 1524年、「鎌田川の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 井戸川正則【いどがわまさのり(15?? ~1570)】 相馬盛胤家臣。 官途は将監。 1570年、「丸森城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 猪狩親満【いのかりちまみつ(15?? ~15?? )】 田村顕基家臣。 通称中務。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 猪狩下野守【いのかりしもつけのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡牧野館主。 350石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 猪俣濁清【いのまただくせい(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 通称彦右衛門。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 今泉山城守【いまいずみやましろのかみ(15?? ~15?? )】 田村郡高倉館主。 1,000石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 今田六郎【いまだろくろう(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岩城盛隆【いわきもりたか(14?? ~15?? )】 磐前郡平城主。 岩城常隆の男。 父岩城常隆から岩城家惣領職の家督を譲れたが、弟の岩城由隆とともに共同統治体制で岩城家の家政を動かした。 岩城由隆【いわきよしたか(15?? ~1542)】 岩城常隆の次男。 官途は民部大輔。 兄岩城盛隆とともに岩城家の家政を動かした。 1514年、「永正の乱」で足利政氏、足利高基親子が争うと、佐竹義舜とともに足利政氏勢に属し足利高基に属した宇都宮忠綱や結城政朝と戦った。 結城顕頼と那須政資の争うと、結城顕頼勢に属して那須政資と戦った。 足利高基と那須政資の勝利により、南奥州の覇権を握ることは出来なかった。 岩城成隆【いわきなりたか(15?? ~15?? )】 岩城由隆の男。 1542年、父岩城由隆が病没すると岩城家の家督は次男の岩城重隆が相続して岩城成隆は分家して白土家を興した。 岩城成隆は江戸忠通と結び佐竹義篤と争い常陸国への勢力拡大を図ったが失敗した。 岩城重隆【いわきしげたか(15?? ~1569)】 岩城由隆の次男。 通称二郎太郎。 官途は左京大夫。 結城晴綱と結び、伊達稙宗と結んで勢力を拡大するの相馬盛胤や田村隆顕と対抗した。 娘の久保姫の嫁ぎ先を巡って伊達晴宗と相馬盛種が対立したが、久保姫は伊達晴宗に嫁いだ。 1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢に属した相馬盛胤や田村隆顕と争い、後に伊達晴宗勢に内応した芦名盛氏とともに南奥州各地を転戦した。 伊達晴宗と田村隆顕や畠山義国の内部抗争を誘発させ、弱体化を図るなど調略も駆使した。 伊達輝宗、芦名盛氏、佐竹義昭らの諸家との間で外交を駆使し生き残りを図った。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 岩城親隆【いわきちかたか(1537~1594)】 伊達晴宗の男(岩城重隆の養子)。 官途は左京大夫。 室は佐竹義昭の娘。 1534年、伊達晴宗と岩城重隆との約束により、岩城重隆の養嗣子となって岩城家の家督を相続した。 田村清顕や石川家の領土を侵したり、二階堂盛義の援助のため出兵するなどの小規模の軍事活動がみられるが、養父岩城重隆の外交重視路線を世襲した。 1568年、岩城重隆が病没後、岩城親隆も病に倒れた。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 岩城常隆【いわきつねたか(1567~1590)】 岩城親隆の男。 官途は左京大夫。 1568年、父岩城親隆が病に倒れると、佐竹家出身の岩城親隆夫人が後見役を務めたことにより岩城家の実権は、佐竹義重が握った。 1578年、岩城常隆が岩城家の家督を相続するが、佐竹義重の家中に対する影響力は変わらなかった。 1586年、「人取橋の戦い」では、佐竹義重勢に属して参陣して、家臣の窪田十郎が伊達政宗の家臣鬼庭良直を討取った。 1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が滅亡すると、岩城常隆、石川昭光らは伊達政宗勢に属した。 「小田原の役」に参陣して所領を安堵を受けた。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 岩城政隆【いわきまさたか(1590~1615)】 岩城常隆の男。 通称長次郎。 1589年、「小田原の役」の参陣した父岩城常隆が病没すると、岩城家惣領職の家督は佐竹義重の三男岩城貞隆が相続したため、岩城家から追放された。 1607年、伊達政宗に仕えた。 岩城貞隆【いわきさだたか(1583~1620)】 佐竹義重の三男(岩城常隆の養子)。 1589年、「小田原の役」で岩城常隆が病没し、岩城家惣領職の家督は羽柴秀吉の介入を受け佐竹義重の三男岩城貞隆が相続した。 1600年、「関ヶ原の役」では、兄佐竹義宣勢に従い参陣しなかったため、改易処分に処された。 この処分に対して佐竹義宣に挙兵まで促したが拒絶された。 松平元康に岩城家再興を嘆願した結果、本多正信に仕えた。 1616年、信濃中村城10,000石を領して諸侯に列した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 上野但馬守【うえのたじまのかみ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉四七人衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 上野延命【うえのえんめい(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 通称善九郎。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 鹽田銀之助【えんたぎんのすけ(15?? ~15?? )】 渡邊又左衛門家臣。 1576年、「坂本城の戦い」で扇の大地紙の指物で伊達輝宗勢に斬り込み、武勇を振る戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 江井胤治【えいたねはる(1504~1589)】 相馬顕胤家臣。 標葉郡江井館主。 官途は河内守。 標葉郡四七人衆。 1543年、相馬顕胤の意向を受け青田胤清とともに黒木信房、中村義房、黒木知房を謀殺した。 1589年、「三春城の戦い」で相馬義胤に従い田村顕盛勢と戦い討死した。 参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。 遠藤良知【えんどうよしとも(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 通所半内。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 遠藤四郎左衛門【えんどうしろうざえもん(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 遠藤右近【えんどうさこん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡手代木館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 大井胤重【おおいたねしげ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉郡大井館主。 通称太郎左衛門。 標葉郡四七人衆。 中郷で107貫文を領した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大井太郎左衛門【おおいたろうざえもん(15?? ~15?? )】 大井胤重の男。 通称太郎左衛門。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大井胤元【おおいたねもと(15?? ~15?? )】 大井太郎左衛門の男。 通称一学。 相馬義胤に召しだされ200石を領した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内胤通【おおうちたねみち(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 行方郡大内館主。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内胤玄【おおうちたねげん(15?? ~15?? )】 行方郡大内南館主。 通称三郎。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内胤正【おおうちたねまさ(15?? ~15?? )】 大内胤玄の男。 官途は丹波守。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内胤信【おおうちたねのぶ(15?? ~15?? )】 大内胤正の男。 官途は越前守。 相馬顕胤、相馬盛胤に仕え戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内信顕【おおうちのぶあき(15?? ~15?? )】 大内胤信の男。 通称治兵衛。 相馬義胤に仕えて戦功を挙げた。 1617年、訴訟に加わり浪人した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内胤房【おおうちたねふさ(15?? ~1576)】 相馬盛胤家臣。 官途は上野守。 1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大浦雅楽【おおうらうらく(15?? ~15?? )】 藤崎摂津守家臣。 1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で亘理重宗勢の攻撃を受け藤崎摂津守とともに相馬盛胤のもとに落延びた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大浦下総介【おおうらしもふさのすけ(15?? ~1576)】 相馬盛胤家臣。 1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大浦監物【おおうらけんもつ(15?? ~1576)】 相馬盛胤家臣。 1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大河原丹後守【おおかわらたんごのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡耕田館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 大木吉貞【おおきよしさだ(15?? ~15?? )】 大寺清光家臣。 通称伊賀之助。 1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 大越常光【おおごえつねみつ(15?? ~1543)】 田村隆顕家臣。 官途は山城守。 田村郡大越館主。 田村家四天王。 大越館10,000石を領して東方衆50騎余りを率いた。 1543年、「安積の戦い」で田村隆顕に従い伊東佑継勢と戦い討死した。 大越利顕【おおごえとしあき(15?? ~15?? )】 大越常光の男。 官途は摂津守。 大越顕光【おおごえあきみつ(1525~1589)】 大越利顕の男。 官途は紀伊守。 室は大越甲斐守の妹。 別名大越信貫。 1586年、田村清顕が病没すると、相馬義胤勢に属して伊達政宗勢と戦ったが敗れた。 1588年、「大越館の戦い」では、伊達政宗の家臣伊達成実勢の攻撃を受け、他の相馬義胤派とともに岩城常隆もとに落延びた。 1589年、伊達政宗は、追放とした相馬義胤派諸将の赦免を行った。 大越顕光、田村顕盛らとともに帰参を図ったが、岩城常隆に露見して捕縛され自刃に追い込まれた。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 大越紀伊守【おおごえきいのかみ(15?? ~15?? )】 大越利顕の次男。 田村郡西方館主。 別名千葉紀伊守。 西方館316石を領した。 大越甲斐守【おおごえかいのかみ(15?? ~15?? )】 大越顕光家臣。 1582年、「守山館の戦い」では、橋本顕徳、常葉讃岐守、浅川右馬介、大越修理亮等らとともに二階堂行親勢を撃退した。 1589年、大越顕光が岩城常隆に謀殺されると大越城代に任じられた。 大越孫七郎【おおごえまごしちろう(15?? ~15?? )】 大越顕光家臣。 田村郡広瀬館主。 東方衆50騎余りを率いた。 大越新五郎【おおごえかいのかみ(15?? ~15?? )】 大越顕光家臣。 鉄砲大将を務め、鉄砲足軽50余りを率いた。 大越八郎左衛門【おおごえはちろうざえもん(15?? ~15?? )】 大越顕光家臣。 大多和泉守【おおたいずみのかみ(15?? ~15?? )】 田村郡中山館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 太田越後守【おおたえちごのかみ(15?? ~15?? )】 相馬盛胤家臣。 1576年、「冥加山の戦い」で杉目将監を槍で突き落とし、頸を上げる戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大竹秀延【おおたけひでのべ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡阿生田館主。 官途は筑後守。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 太田信濃守【おおたしなのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡春山館主。 1,500石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 大塚綱久【おおつかつなひさ(15?? ~1541)】 佐竹義舜家臣。 1505年、結城顕頼に内応して羽黒山城代に任じられた。 1541年、佐竹義篤の家臣渋江内膳勢の攻撃を受け斑目広基、河東田大膳らとともに迎撃したが、衆寡敵せず討死した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 大塚国久【おおつかくにひさ(15?? ~15?? )】 大塚綱久の男。 大塚吉久【おおつかよしひさ(15?? ~15?? )】 大塚国久の男。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 大塚為久【おおつかためひさ(15?? ~1578)】 大塚国久の次男。 1564年、「羽黒山城の戦い」で佐竹義昭勢の攻撃を受け落延びた。 1578年、「浅川城の戦い」で浅川義純を攻撃して弓で射られ討死した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 大塚政成【おおつかまさなり(1504~1563)】 岩城重隆家臣。 大塚行成の男。 官途は信濃守。 佐竹義昭に内応した。 参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。 大塚尾張守【おおつかおわりのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡羽出庭館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 大塚蔵人【おおつかくらうど(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大塚甚助【おおつかじんすけ(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大坪勘解由【おおつぼかげゆ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大寺清光【おおでらきよみつ(15?? ~15?? )】 石川郡大寺城主。 官途は中務大輔。 1582年、「油殻の戦い」で中野館の所領問題か石川昭光と対立して謀反を起こした。 家老職の大野行宗を総大将に石川昭光勢と戦ったが、石川昭光勢の挟み撃ちに遭い安倍清任、野口金光らが討死して大敗した。 石川昭光勢の追撃を受け、大野宗高、安倍常任らとともに降伏した。 千用寺秀芸と長泉寺泰念を仲介に中野、塩沢、山小屋の三ヶ村を石川昭光に割譲して和議を結んだ。 1588年、二階堂盛義、岩城常隆らと結んで巻き返しを図ったが、伊達政宗と結んだ石川昭光に対抗できず没落した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 大寺安吉【おおでらやすよし(15?? ~15?? )】 大寺清光家臣。 通称主殿之助。 1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 大寺安房守【おおでらあわのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡谷田川館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 大野宗高【おおのむねたか(15?? ~15?? )】 大寺清光家臣。 官途は筑前守。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 大野行宗【おおのゆきむね(15?? ~15?? )】 大寺清光家臣。 官途は修理殿介。 家老職を務めた。 1582年、「油殻の戦い」で総大将として石川昭光勢と戦い敗退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 大悲山民部【おおひやまみんぶ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 1543年、小高郷出騎衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大悲山民部丞【おおひやまみんぶのじょう(15?? ~15?? )】 大悲山民部の男。 相馬義胤に仕えた。 1592年、31貫905文を領した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大悲山杢左衛門【おおひやましょうざえもん(15?? ~16?? )】 大悲山民部丞の男。 通称九左衛門。 別名大久杢左衛門。 1602年、相馬義胤が減封に処されると、北郷内で36石を領した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大村豊後守【おおむらぶんごのかみ(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡崎彦六郎【おかざきひこしろう(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 小笠原彦七郎【おがさわらひこしちろう(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡大倉館主。 665石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 岡田義胤【おかだよしたね(14?? ~15?? )】 行方郡岡田館主。 官途は安房守。 1492年、「権現堂城の戦い」で相馬盛胤に従い標葉清隆の権現堂城を攻撃した。 標葉清隆の家臣泉田隆直が内応すると、標葉六騎七人衆、標葉隆豊、牛渡九郎兵衛らも内応した。 相馬盛胤が権現堂城を攻落とすと、権現堂城主に任じられた。 継嗣の岡田重胤に家督と岡田館を譲り、次男の岡田胤連とともに権現堂城に転封した。 岡田茂胤【おかだしげたね(15?? ~15?? )】 岡田義胤の男。 通称は治部大輔。 室は大槻義治の娘。 小高衆の筆頭として25騎余りを率いて相馬顕胤、相馬盛胤に仕えた。 岡田直胤【おかだなおたね(1560~1591)】 岡田茂胤の男。 相馬盛胤勢で20騎以上を率いるのは、他に泉田胤清(標葉郷大将)、泉胤政(中郷大将)の二人のみであった。 1563年、伊達晴宗に内応じて謀反を起こした草野直清の娘を育て、岡田直胤と娶わせた。 また娘は泉胤政に嫁いだ。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡田胤景【おかだたねかげ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 岡田茂胤の次男。 草野館主。 官途は治部太輔。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡田胤景【おかだたねかげ(1565~1620)】 岡田胤景の男。 官途は兵庫助。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡田胤清【おかだたねきよ(1595~1620)】 岡田胤景の男。 官途は主膳。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡田胤通【おかだたねみち(15?? ~1543)】 相馬顕胤家臣。 大甕館主。 1543年、「大森城の戦い」で相馬顕胤に従い伊達晴宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡田豊後守【おかだぶんごのかみ(15?? ~15?? )】 石川昭光家臣。 1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 小川隆勝【おがわたかかつ(15?? ~15?? )】 岩城常隆家臣。 岩城常隆の使者として羽柴秀吉に謁見した。 返書が増田長盛より小川隆勝に返書が送られた。 小川上総介【おがわかずさのすけ(15?? ~15?? )】 岩城常隆家臣。 1589年、芦名盛重から参陣を要請を受けた。 小川大蔵丞【おがわおおくらのじょう(15?? ~15?? )】 小川上総介の男。 1584年、下野国で北条氏直勢と戦いで戦功を挙げた。 鬼生田惣右衛門【おにうだそうえもん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡鬼生田館主。 官途は弾正忠。 田村家四十八館。 鬼生田館1,500石を領して西方衆25騎の寄騎衆を率いた。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 小野備前守【おのびぜんのかみ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉郡四七人衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 小原宗綱【おばらむねつな(15?? ~15?? )】 伊達稙宗家臣。 刈田郡小原館主。 1542年、「伊達天文の乱」で伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。 伊達稙宗の敗北により家督を継嗣の小原元継に譲って隠居した。 小原元継【おばらむねつぐ(15?? ~15?? )】 小原宗綱の男。 1542年、「伊達天文の乱」で父小原宗綱が伊達稙宗に属して戦った。 伊達稙宗の敗北により家督を小原元継に譲って隠居した。 小原定綱【おばらさだつな(1555~1592)】 伊達政道家臣。 小原宗綱の次男。 通称縫殿之助。 伊達輝宗の次男である伊達政道の傅役を務めた。 1591年、伊達政道が謀反を嫌疑を受け、伊達政宗に謀殺されると、その遺骸の埋葬場所を求めて各地を流浪した。 埋葬後、墓前で殉死した。 折笠左近【おりかささこん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡道渡館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 ---------------------------- 【か】 貝山藤兵衛【かいやまとうべい(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡貝山館主。 700石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 河東田重治【かとうだしげはる(15?? ~15?? )】 結城晴綱家臣。 白河郡河東田館主。 河東田重清【かとうだしげきよ(1542~1606)】 河東田重治の男。 官途は上総介。 領内に善政を敷き、民衆に支持された。 伊達輝宗との取次役を務めた。 1576年、「赤館城の戦い」では、結城義親に従い参陣して佐竹義重勢と戦った。 1589年、結城義親が伊達政宗に降伏すると、佐竹義重への備えとして関和久城を守備した。 1590年、結城義親が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。 参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。 河東田親顕【かとうだしげきよ(15?? ~15?? )】 河東田重清の男。 河東田河内守【かとうだかわちのかみ(15?? ~15?? )】 結城義親家臣。 1575年、「白河城の戦い」で佐竹義重勢の攻撃を受け降伏した。 東義久に従い所領を安堵された。 河東田備前守【かとうだびぜんのかみ(15?? ~15?? )】 河東田河内守の男。 官途は兵部少輔。 1575年、父河東田河内守とともに東義久に従い30貫文の所領を安堵された。 赤館城に在番した。 門沢式部【かどさわしきぶ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡門沢館主。 600石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 門沢右馬助【かどさわさまのすけ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡栗出館主。 360石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 金沢胤重【かなざわたねしげ(15?? ~1524)】 相馬盛胤家臣。 通称右馬助。 1524年、「七里ヶ浜の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 金沢主水【かなざわもんど(15?? ~1524)】 金沢胤重の男。 1524年、「七里ヶ浜の戦い」で父金沢胤重に従い岩城重隆勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 金沢大学【かなざわもんど(15?? ~1524)】 金沢胤重の男。 1524年、「七里ヶ浜の戦い」で父金沢胤重に従い岩城重隆勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 金沢胤清【かなざわたねきよ(15?? ~1532)】 金沢胤重の弟。 官途は石見守。 別名「存入」。 1524年、「七里ヶ浜の戦い」で兄金沢胤重が岩城重隆勢と戦い討死したため、還俗して金沢家の家督を相続した。 1532年、「古小高俊胤の乱」で相馬顕胤に従い先陣を務め討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 金沢備中守【かなざわびっちゅうのかみ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉郡四七人衆。 牛越城番を務めた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 金内八十郎【かねうちはちじゅうろう(15?? ~15?? )】 石川昭光家臣。 1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 金田式部少輔【かねだしきぶしょうゆう(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 東方衆50騎の寄騎衆を率いた。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 神又久四郎【かみまたしさしろう(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡神又館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 萱野甚四郎【かやのじんしろう(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 苅屋戸出雲守【かりやどいずものかみ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉四七人衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 川曲宮内太夫【かわまがりくないだいふ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡川曲館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 神主玄蕃頭【かんぬしげんばのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡守山館主。 西方衆80騎の寄騎衆を率いた。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 菊池兵部太夫【きくちようぶだいふ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡南宇津志館主。 523石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 喜多八十右衛門【きたやそえもん(15?? ~15?? )】 黒木丹波守家臣。 1581年、「大条館の戦い」で伊達輝宗の家臣富塚近江守勢を撃退する戦功を挙げた。 参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。 木村信常【きむらのぶつね(15?? ~1579)】 田村清顕家臣。 田村郡木村館主。 官途は内記。 1579年、「木村館の戦い」で畠山義継に内応して新城少弼、遊佐下総守勢を木村館に引き入れが、田村清顕の家臣鬼生田弾正忠勢の反撃を受け滅亡した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 久我主膳【くがしゅぜん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡白岩館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 草野直清【くさのなおきよ(1514~1563)】 相馬顕胤家臣。 官途は式部。 標葉郡四七人衆。 相馬顕胤から信頼され中村城代に任じられた。 相馬顕胤が病没すると、相馬盛胤に冷遇された。 1563年、「中村城の戦い」で青田顕治らとともに伊達輝宗勢に内応した。 「貝殻坂、石積坂の戦い」で青田胤治、舟山豊前守、大谷地掃部勢らとともに相馬盛胤の家臣高田内膳勢と戦い敗れて道明寺掃部勢の追撃を受け討取られた。 参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。 草野晴清【くさのはるきよ(15?? ~1563)】 草野直清家臣。 通称小市郎。 1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦った。 「坪田八幡の戦い」で草野直清勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 草野伴右衛門【くさのともえもん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡小塩庭館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 熊田兼氏【くまがいかねうじ(14?? ~15?? )】 結城政朝家臣。 白河郡伊賀館主。 官途は若狭守。 結城義親が伊賀館を領して小峰家を相続すると、木之内館に転封した。 参考文献:「秋田の中世を歩く」by秋田城介。 熊耳太郎左衛門【くまがみたろうざえもん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡熊耳館主。 693石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 熊川隆光【くまがわたかみつ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉郡熊川館主。 標葉郡七人衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 熊隆重【くまたかしげ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉郡熊館主。 標葉郡四七人衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 黒木信房【くろきのぶふさ(15?? ~1543)】 宇多郡黒木城主。 通称弾正忠。 別名黒木正房。 1542年、「田中城の戦い」で伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢の田中城を攻撃したが敗退した。 1543年、「中村城の戦い」で伊達稙宗勢の相馬顕胤勢の攻撃を受け降伏した。 勝善原で相馬顕胤勢に謀殺された。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 黒木宗俊【くろきむねとし(15?? ~15?? )】 相馬義胤家臣。 官途は中務。 1580年、堀内宗和とともに相馬盛胤に謀反を起こしたが、失敗して伊達政宗にもとに落延びた。 1590年、「中村城の戦い」で佐藤藤右衛門、国分右衛門尉らとともに亘理重宗に従い相馬隆胤勢と戦った。

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Blog鬼火~日々の迷走: 2017年9月

奥州 仕置 において 石川 昭光 は 次 の うち どの よう に 処遇 され たか

我が外高祖父大越文五郎 1832-1916 と曾祖母澤田まつゑ 1856-1926 及び 父澤田亥兵衛 1911-2004 並びに亡き妻澤田信子 1948-1994 にささぐ 「実さい、私たちは何ものであり、私たちの性格とは何であるか。 それは私たちの誕生以来の歴史、それどころか(私たちが出生前の性向をたずさえている以上は)誕生以前からも生きてきた歴史を凝縮したものにほかなるまい。 もちろん、思考にあたっては私たちは自分の過去の小部分しかもちいない。 けれども欲求し、意思し、活動するさいには私たちは自分の全過去を、魂の生まれつきの曲率までも含めてことごとくもちいる。 してみると、私たちの過去はその推すいきおいによって、そして傾向という形で残りなく私たちに姿をあらわすもので、表象になるのはそのかすかな部分に過ぎぬのである。 (中略) 生体の現瞬間の存在原因は直前の瞬間のなかには見いだされない。 直前の瞬間にさらにその有機体の全過去を、遺伝を、要するにその悠久な歴史の総体をつけ加えねばならない。 (中略) 生命とは胚子からおとなの有機体を介してまた胚子へとすすむひとつの流れのように見える。 有機体そのものは旧い胚子が新しい胚子となって生きつづけようと努力しながら突起させる瘤か芽にすぎぬかのような、一切の経過のしかたなのである。 本質的なのは、はてしなくとげられる連続的な進歩である。 この見えぬ進歩の背におのおの馬乗りになって、見える有機体はゆるされたしばしの時を生きる。 (中略) すると、個体の生命原理はどこに始まりどこで終るのか。 ひとはだんだんと後退して、最古の祖先たちに行きつくであろう。 個体がどの祖先とも連帯しており、生命の系統樹の根にあるはずのあのジェリー状の原形質の小塊とも連帯していることがわかるであろう。 個体はこの始祖とある程度ひとつのものである以上、それはまたこの始祖から末広がりに派生してきたあらゆる子孫ともやはり連帯している。 Windows,AndroidなどMac系以外のOS上では、図版の罫線の乱れなどで系図類が正しく再現されない場合があります。 「我が澤田家はもとは磐城(岩城)の国に居り、代々磐城家臣猪狩家に仕えていた。 ところが、主君猪狩氏が『国替え』となり、新たに伊達氏に仕えたため、澤田氏もまた伊達家臣(直臣)猪狩家に仕える家中(伊達陪臣)となり、主家の『主神磐城大明神他二神の氏神三神』を背負って主君につき従い、ここ黒川郡北目大崎村の地に来たった。 以来澤田氏は代々当地猪狩家在郷屋敷に本拠を構え、『猪狩家旦方(ダンポ)』として主家の領地経営にあたり、明治維新に至るまで臣属した。 それゆえ、澤田氏は『大越氏』の外子孫でもある。 」 かくて、我が「澤田家」の祖先は、ひとまず、遠く「磐城の国」すなわち今日の福島県に求められる。 第一節 大和源氏石川氏 大和源氏奥州石川氏 「【澤田氏】姓は清和源氏、〔多田源氏〕源満仲の子〔大和源氏〕源頼親(〔摂津源氏〕頼光の弟)より出ず、立家の祖〔玄孫〕を光義という。 大和源氏頼親からは、つぎの諸姓が発している。 これは、澤田家初代「源太源清重」と同号である。 「公、白河〔福島県〕を割き〔、〕旧郷石川〔大阪府南河内郡〕の称を置く。 自ら称して石川有光と云ふ。 子孫是より石川を姓とす。 」(『修訂版石川氏一千年史』角田市) 大和源氏石川澤田氏 奥州石川氏「有光の三男基光が嫡流となり、その子孫が戦国末期まで約500年間石川の地を領した。 」(『角川日本地名大辞典』) 「澤田サハタ 河内、遠江、駿河、伊豆、美濃、岩代、陸前、陸奥、佐渡、備前等、此の地名多ければ、これ等より起りし此の氏も流派尠すくなからず。 (中略) 10 清和源氏石川氏流 磐城国石川郡澤田邑より起る。 」(太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店) 「澤田サハタ氏(岩代)【清和源氏、石川氏族】 石川郡澤田より出る。 尊卑分脈に『石川基光の子光義、號澤田』と見える。 」(太田亮・丹羽基二『新編姓氏家系大辞典』秋田書店) 「沢田の名は各地にあり、地名を負った沢田氏は多流である。 磐城国(福島県)石川郡沢田村から起ったのは福島の戦国大名・清和源氏石川氏の分かれで〔、〕石川基光の子光義が沢田を称した。 子孫は戦国期〔十五世紀後半〕福島地方に帰農したもの(中略)など様々である。 」(『姓氏苗字事典』全園社) また一説には、「澤田館は澤田村大字澤井〔石川町沢井字館〕に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城 きず く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) すなわち、澤田氏は、多田源氏満仲の次男・大和源氏大和守頼親朝臣の三男・石川福原三郎頼遠、およびその嫡男石川冠者源太有光を始祖とする奥州石川氏を本姓とし、有光の嫡孫石川冠者澤田太郎(源太)光義(またはその弟源三郎義基)を元祖とする、奥州石川氏の支族である。 第二節 澤田郷・澤田館 河内国志紀郡澤田郷・石川分流澤田川 「さわだ 沢田〈藤井寺市〉 古市国府 ふるいちこう 台地北部の西側の緩斜面で、仲津山陵の北川に位置する。 地名の由来は、当地の田が沢田川(旧石川の分流で大乗川筋に当たる)沿いにあり、豪雨時に冠水することが多かったことによると伝える。 地内南部には仲津姫陵がある。 」(『角川日本地名大辞典』) 本流「石川の分流」「沢田川沿いにあ」った田が豪雨時に冠水することが多かったので、石川氏の遠祖はその地を「沢田」と称したという。 澤田氏が石川氏の分流であることは、まことに、「沢田川」が「石川の分流」であることに象徴的に示されているのである。 「〔中世〕沢田 戦国期から見える地名。 河内国志紀郡のうち。 (中略) 〔近世〕沢田村 江戸期~明治22年の村名。 志紀郡のうち。 (中略)江戸期に地元の判林光平・蒲生君平らが皇陵の調査を実施し、その結果文久3[1863]年から元治元[1864]年にかけて、仲津山陵が陵墓と変わり、立入り禁止となった。 鎮守は沢田八幡神社、小林八幡神社。 沢田八幡神社は江戸初期に、小林八幡神社は江戸中期にともに誉田から勧請され応神天皇を祀る。 (中略) 〔近代〕沢田 明治22[1989]年~昭和48[1973]年の志紀郡の自治体名。 沢田・古屋・林の3か村が合併して成立。 (中略) 〔近代〕沢田 昭和44年~現在の藤井寺市の町名。 1 ~4丁目がある。 (中略)もとは沢田・古室の各一部。 」(『角川日本地名大辞典』) 磐城国石川郡澤田郷・澤田村・澤田館 「沢田 〔福島県〕石川郡石川町南西部の一地区の旧村名。 一説によると一〇五八~一〇六五年〔康平年間〕に源有光が石川に城を築き、前に居住していた河内国(現・大阪)の沢田郷にちなみ、この地を沢田としたという。 」(『福島大百科事典』福島民報社)即ち、澤田氏の苗字は、故地河内国志紀郡澤田郷に由来することが明らかである。 この「城址を沢田といへり。 〔石川風土記〕」(吉田東伍『大日本地名辞書』富山房) また一説には、上述のごとく、「澤田館は澤田村大字澤井に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) 「沢田村〈石川町〉 〔近代〕明治22[1989]年~昭和30[1955]年の石川郡の村名。 中通り南部、阿武隈川上流沿岸に位置する。 沢井・赤羽・新屋敷の3か村が合併して成立。 大字は旧村名を継承し、3大字を編成。 役場を大字沢井に設置。 (中略)昭和30[1955]年石川町ほか4か村と合併して石川町となる。 各大字は同町の大字として存続。 」(『角川日本地名大辞典』) 「沢井 〒978 〔世帯〕313 〔人口〕1,607 〔石川〕町の南西部。 南は浅川町と西白河郡東村、東は北流する社川を境に大字山形に接する。 農業地域。 社川沿岸と谷あいに水田が、低い丘陵上には畑と山林が広がる。 北部を東西に通る主要地方道白河石川線(御斎所街道)沿いに集落が形成されている。 字上ノ原に沢田小学校・沢田中学校と東京マーメイドニット福島工場、字大池下には沢田郵便局・日蓮宗長福院がある。 石川氏一族の中世山城跡である沢井〔澤田〕館跡には八幡神社・真言宗智山派宝海寺がある。 字東内打 とうないうち にある天台宗安養寺境内下には沢井の清水が湧き、応長2[1312]年銘の線彫阿弥陀三尊板碑がある。 字川井には石川地方生活環境施設組合がある。 地内には字大山平にある白鳥池(大池)のほか大小の灌漑沼池がある。 」(『角川日本地名大辞典』) 第三節 石川澤田氏 澤田氏の元祖石川冠者澤田太郎(源太)光義 奥州石川氏基光の嫡男・二代光義は、「初メ冠者又源太ト稱ス」(『伊達世臣家譜』)。 光義もまた、澤田家初代清重と同号の「源太」を称していた。 「石川光義 石川冠者 澤田太郎 奥州石川ニ住ス」(『系図纂要』)。 「澤田サハタ氏(岩代)【清和源氏、石川氏族】 石川郡澤田より出る。 尊卑分脈に『石川基光の子光義、號澤田』と見える。 」(『新編姓氏家系大辞典』) 「澤田サハタ(中略) 清和源氏石川氏流 磐城国石川郡澤田邑より起る。 」(『姓氏家系大辞典』) 「【澤田氏】姓は清和源氏、〔多田源氏〕源満仲の子〔大和源氏〕源頼親(〔摂津源氏〕頼光の弟)より出ず、立家の祖〔玄孫〕を光義という。 」(『姓氏明鑑』) 「磐城国(福島県)石川郡沢田村から起ったのは福島の戦国大名・清和源氏石川氏の分かれで〔、〕石川基光の子光義が沢田を称した。 」(『姓氏苗字事典』) なお、「有光の孫光義が沢田太郎と名乗って摂津国沢田(大阪市〔東淀川区〕大桐)に所領を持った」(『清和源氏の全家系』)、ともある。 澤田館主源三郎義基 既述のとおり、「澤田館は澤田村大字澤井に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) 澤田氏の分岐・石川澤田氏 「同〔奥州石川〕氏は鎌倉時代にいたるまで、多くの庶家を分出して、〔石川〕荘内各地に勢力を張る。 早い時期に出現した庶家の名乗った字 あざな を見ると、基光の子光義が沢田(石川町沢井・赤羽・新屋敷などの地域カ)を称し(中略)たとある。 (中略) こうして石川一族の中には、〔石川〕庄内の地名を苗字とする〔澤田氏等〕多くの分家が出現してくる。 」(『角田市史』) 石川「一族が沢田・成田・大寺・小高・坂地・河尻・矢沢その他多くの名乗りをもつ分流にわかれて、庄内の村々にそれぞれ土着するようになるのは、『尊卑分脈』が示すように、早くとも有光の孫〔光義/義基〕あるいは曾孫〔義季〕の代のこととみられるのである。 」(『福島県史』福島県) 「『尊卑分脈』によれば、有光の孫〔光義/義基〕の代に沢田・大寺・小高、曽孫〔義季〕の代に坂地・川尻・矢沢などの苗字があらわれる。 有光から三~四代目の世代、鎌倉前期のころに、石川氏は一族・庶流の分立をすすめ、石川庄の村々に一族を地頭として配置するにいたったものと思われる。 」(小林清治・山田舜『福島県の歴史』山川出版社) 「三郎義季の系統は、〔1221年の承久の乱〕以降も陸奥国石川荘を動かなかった。 」(『清和源氏の全家系』) 中世社会の進展とともに澤田氏はしだいにその自立の度を強め、やがてはついに石川宗家の支配からも離脱するようになった。 これを、「石川澤田氏」と呼ぶことにしよう。 清和源氏伝統の名乗り もっとも、上記の史料はすべて状況証拠に過ぎない。 私の推論を裏づけるような直接史料はない。 しかし、たとえばつぎの事例は、ひとつの傍証になりえないだろうか? 既述のごとく、石川氏の始祖有光は「柳津源太と号」し、澤田氏の元祖澤田太郎光義自身も「源太ト稱」し、その弟澤田城主義基は「源三郎」と名乗っていた。 時代は下って、石川氏の嫡系・仙台藩一門主座「角田石川氏」二万一千三百石の歴代も清和源氏伝統の名乗りを踏襲し、その支族たる澤田氏もまたそれを継承して、最後まで「澤田九十九源亮長」、「澤田源太郎源宗〓〔重〕」、「澤田源太源清重」と、誇らかに清和源氏の名乗りを上げたのである。 石川一族の多様性と独立的傾向 「阿武隈山地の谷をぬって点在する村々に割拠するという形をとった石川一族は、岩城氏などに比較すると、それぞれに独立の傾向を強くもつようになったらしい。 」(『福島県の歴史』) 「文安六年(宝徳元、一四四九)のころ、石川蒲田城(東白河〔石川〕郡古殿町)は白川直朝によって破却され、蒲田氏の所領とその文書(石川蒲田文書)は没収された。 文明六年(一四八四)のころには、石川一族の赤坂・大寺・小高の三家が、氏を改め家紋を改めて白川氏に属した。 」(『福島県史』) 「竹貫 たかぬき 隆光・広光父子」(『いわき市史』)は「石川一族で、竹貫(東白河〔石川〕郡古殿町)を本拠とする。 」(『いわき市史』)。 「天文十[1541]年、竹貫広光・同隆光は岩城重隆の老臣の位置にあったとみられる。 (中略)天文十年から余りさかのぼらないころに、かれらは石川氏を離れて岩城氏に属したのである。 旧石川領(石川庄)の竹貫(古殿町)が、これに伴って岩城領に編入されたことは、いうまでもあるまい。 古殿町および鮫川村の地、すなわち石川庄の東白河郡にかかる地区は、ほとんど白川・岩城両氏の領地と化し、石川一郡を確保することが石川氏の目標となる、という事態が天文十年のころに出現したといえよう。 」(『福島県史』) 「そうすると、岩城氏の勢力が、かつての石川領の東半分ぐらいに浸透しており、石川一族の中にもその家臣になっているものがあったことになる。 」(『角田市史』)まさしく、澤田氏の命運を暗示するに十分な一文である。 「仙道〔山道〕の石川同流」(『奥相茶話記』)・四本松(塩松)石川氏は、石川宗家を離れて自立していた。 「去れども〔四本松〕石川は微力、(中略)田村の助力を借る為に旗下と成りし也。 」(『奥相茶話記』) 時の四本松石川氏当主弾正は、田村氏の当主清顕の従兄弟の娘を娶って田村氏に臣属したが、のちに述べるような数奇な運命を経て、ついに戦国の露と消えた。 「『奥相茶話記』は、天文~永禄のころに活躍した田村隆顕が石川六十六郷を手中に収めた、と記している。 天文十三年(一五四四)七月、田村家中の常葉 ときわ 光貞・大越顕光が石川稙光父子と田村隆顕父子との和解につとめることを誓約しているが、これは光貞・顕光が石川氏に属して隆顕を攻めたのち、敗れてこの誓約をするに至ったものとみられる。 両人が稙光に属している事実は、その光の字によっても推定することができる〔明らかな間違い。 「光」は大越氏始祖常光以来の通し字である 〕。 このようにみれば、隆顕が石川六十六郷を掌握したことは、ただちに信憑するわけにはゆかない。 しかし、隆顕が石川領を蚕食したことは、十分に考えることができよう。 」(『福島県史』) 「石川氏の側からみると、一族のものまで田村家臣に繰りこまれる状況になっていたのである。 (中略)石川一族の多様さとその独立的傾向とを、この例からうかがうことができる。 」(『福島県の歴史』) 大越顕光のこと ところで、上に登場した大越顕光は、巻頭に述べたごとく、三百余年後の明治維新の混乱のさなか、運命の数奇ないたずらから澤田家三代金吾(金五郎)の妻となった、私の曾祖母まつゑの実家「仙台大越家」の遠祖・大越紀伊守顕光その人である。 はるかなる戦国時代に、大越氏と石川・澤田氏(のちに述べるように、猪狩氏もまた)はともに磐城の地にあり、すでに浅からぬ因縁にあったのである。 顕光を石川「稙光に属している」とする『福島県史』の説は疑問であるが、いずれにしても石川氏ひいては澤田氏とも親縁な関係にあったことは事実であろう。 大越氏については、のちに章を割いて詳しく述べる。 澤田氏の東遷と猪狩・岩城氏臣従 こうして、「石川氏は、その領土の周辺を、有力大名に取り囲まれることになり、一族もそれぞれに他氏に臣従するという、分裂的状況になった。 」(『角田市史』) 石川澤田氏もまた、おそらく十五・十六世紀の交1500年前後、ついに重代の宗家奥州石川氏の下を離れることになった。 父祖伝来の石川荘澤田郷の故地に別れを告げて、東遷して太平洋の風波洗う楢葉郡に至った澤田氏は、上記の竹貫氏等と同様、岩城氏譜代の重臣猪狩家大和守に臣属して、岩城下総守常隆の陪臣「楢葉澤田氏」となった。 「永禄十年(一五六七)十一月、〔蘆名〕盛氏は赤館左衛門に石川郡沢井(石川町)を起請文によって安堵しているが、これによると、沢井の地を佐竹氏が占領し、これを白川氏が望んでいること、また盛氏が石川地方に強い権利を行使していたことが明らかである。 」(『福島県史』) 「石川郡沢井」は、いうまでもなく「澤田館」の所在地・澤田氏発祥の地である。 いにしえの「澤田郷」は、いまや佐竹・蘆名・白川等各氏の蹂躪するところとなっていた。 時すでに、澤田氏は楢葉郡へ移住したあとであり、直接この侵略にさらされることはなかったであろう。 しかし、いずれにしても、もはやこの時以後、澤田氏発祥の地「澤田郷」・「澤田館」の地に、澤田一族の姿が見られこることは絶えてなくなったのである。 「元亀二年(一五七一)七~八月の交には、佐竹義重が石川一族の中畠氏(西白川郡矢吹町)を攻め、蘆名盛氏父子・田村清顕がこれを迎撃した。 同じころの三月、義重が石川領の大寺(玉川村須釜)に向〔か〕って出馬したのに対して、清顕がその備えを指示した書状も現存する。 石川領の実権はすでに蘆名・田村両氏に握られているとみられる。 (中略)このころになると、石川郡南部は佐竹氏に、東〔西?〕部および北部など大部分は蘆名氏の領有となってしまったらしい。 天正六年(一五七八)正月、蘆名盛氏は越後の新発田長敦あての書状のなかで、『石川之儀者 は 在城一ヶ所迄に候。 其外、残り無く手の裏うちに入り候。 』と述べている(浜崎文書『会津若松史』)。 」(『福島県史』) 第二章 石川氏 およそ澤田氏に関する直接史料は、残念ながら、元祖澤田九十九源亮長(1710ごろ-1780ごろ? )、その孫澤田宗家末代源太郎源宗〓〔重〕(1770ごろ~1799)以前は皆無である。 それゆえ、これから「澤田氏の歴た道」を跡づけるには、澤田氏がその歩みの途上において直接・間接にかかわってきた諸氏の記録にたよる他に道はない。 以下では、石川・猪狩・岩城・大越・田村・伊達諸氏の記録を道しるべとして、なんとか「澤田氏の歴た道」を明らかにすべく試みようと思う。 もちろん、これらの史料は澤田氏のことを直接述べたものではない。 しかし、それはまちがいなく、澤田氏の祖先たちがその運命をともにし、ともに歩んだ、「澤田氏の歴た道」でもあるのである。 まずは、澤田氏の本姓「清和源氏石川氏」から始めることにしよう。 第一節 清和源氏 「石川氏は人皇五十六代清和天皇第六皇子、貞純親王の御子、経基王の長子、源満仲を以って遠祖となす。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 清和天皇 (858~879) 「文徳天皇の第六皇子、母は藤原良房の女皇太后明子。 名は惟仁 これひと。 世に水尾 みのお 天皇とも称す。 嘉祥三[858]年三月誕生、十一月」(『日本歴史大辞典』)「生後わずか9ヵ月で父文徳天皇の皇太子となったが、」(『世界大百科事典』平凡社)「これは文徳天皇が、寵愛する惟喬 これたか 親王(紀名虎の女所生)の立太子を、藤原氏をはばかって断念したためであった。 八五八(天安二)年十一月」(『日本歴史大辞典』)「文徳天皇の急死によって、未成年の9歳で即位する異例を開いた。 この異例の背後には外祖父〔藤原〕良房の巨大な存在があり、良房は太政大臣として幼帝の大政を摂行した。 いわゆる人臣摂政のはじめである。 しかし、文徳朝には長兄惟喬親王を擁立しようとする紀氏らの動きがあり、清和朝の866年(貞観8)には〈応天門の変〉が起こるなど、政争がくり返された。 清和天皇は病弱で政治をいとい、」(『世界大百科事典』)「八七六(貞観一八)年十一月、在位十九年」(『日本歴史大辞典』)「27歳で9歳の皇子陽成天皇に譲位して仏門に入り、畿内の諸寺院を巡拝するなど信仰は熱列をきわめた。 ついに丹波国の水尾山寺に入ろうとしたが、果たさず」(『世界大百科事典』)、「八七九(元慶三)年五月落飾、法諱を素真という。 翌[880]年十二月、粟田山荘円覚寺で没した。 遺詔により山陵を造らず、遺骨を水尾山上に収めた。 」(『日本歴史大辞典』)「その皇后は《伊勢物語》に〈二条の后〉と呼ばれる藤原高子。 」(『世界大百科事典』) 貞純親王 ( 8?? ~ 916) 「清和天皇の第六皇子貞純親王は、中務大輔兼神祇伯の棟貞王の娘を母として生まれた。 (中略)臣籍に降下せずに親王にあげられたのは、母が王氏の末だったということによるものだろう。 (中略)貞純親王は、生涯に上総大守、常陸大守などの国司を歴任しているが。 現地には赴任しなかった。 いわゆる遙任国司である。 中務卿に任じられたとき、官位相当に従って正四位下に叙せられている。 親王の位階は一品から四品までしかなかったから、昇叙されても最低の位階だったわけである。 官位、位階などのほか、格別な逸話や所伝も残っていないことからみると、きわめて平凡な生涯を送った平凡な人物だったと考えられる。 延喜十六年(九一六)五月七日、四十四歳で薨じたのは、父清和院と同じ円覚寺においてだったという。 (『清和源氏の全家系』) 清和源氏経基王 ( 893~ 961) 清和源氏は、「九六一(応和元)年、清和天皇の皇子貞純親王の子で、六孫王といわれた経基が源姓を与えられたのに始まる。 これについては、かつて星野恒が、源頼信の告文からこの家が実は陽成天皇からでたものであると論じたが、一般には承認されなかったようである。 」(『日本歴史大辞典』)「経基王の妃は源能有卿の女にして、能有卿弓馬の術に長じ王就て学ぶ所多し。 王又和歌を良くし、文質彬々 ひんぴん 博覧多才、幼にして君子の徳あり。 (中略)延喜七[ 907]年十月五日歳十五にして常寧殿に加冠し、正六位上、右馬之介に任ぜられ(中略)る。 後武州の刺史〔国司〕となり」(『修訂版石川氏一千年史』)「平将門と争ったが、このとき彼は『未だ兵道に練れず』といわれた。 経基はその後小野好古に従って」(『日本歴史大辞典』)「天慶四[941]年藤原純友の乱を平げて功あり。 従五位下に叙し、七か国を領す。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「九六一(応和元)年、(中略)源姓を与えられ」(『日本歴史大辞典』)、「やがて太宰府権少弐・鎮守府将軍となったが、彼はなお武士としてよりは皇族出身の一貴族にすぎなかった。 武士の棟梁として清和源氏の名をあげたのは彼の子満仲・満政・満季以後である。 」(『日本歴史大辞典』)同 961年「薨ず。 西八條池の側に葬る。 六宮権現と称す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 多田源氏満仲 ( 912~ 997) 「経基王の長子にして、延喜十二[ 912]年四月十日西八條殿に生る。 小字鶴丸王と称す。 加冠して従五位下に叙せらる。 父の器を承け、博学聡敏、威徳具 つぶさ に備はる。 〔941年〕純友の乱に父を輔けて之を平げ、功を以て従四位下に叙し、摂津守に任ぜられる。 封を受けて摂津国多田荘〔兵庫県川西市〕に移り、陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられ、後、致仕して釈門に帰し、新発意 しんぼち と号す。 多田院を建て之に居る。 〔多田源氏〕」(『修訂版石川氏一千年史』)「満仲は摂津守として、同国多田荘〔兵庫県川西市〕に拠り、強力な武士団の棟梁となった。 満仲はその武力を背景に、巧妙な政治的陰謀によって摂関家との結合に成功し、清和源氏興隆の基礎を開いた。 満仲は摂津守の任後も多田に土着し、」(『日本歴史大辞典』)「多田荘を経営して多田院を創立した。 (中略)満仲は当時の有力な〈武勇の士〉とされていたが、彼には頼光・頼親・頼信以下数名の子があり、また弟に満政がいたが、いずれも武勇の名が高かった。 満仲の嫡流をついだのが頼光であり、この系統を摂津源氏といい、やがてその一流の多田源氏がこの武的系統を代表するに至」(『世界大百科事典』)り、「源頼政はこの系統から出」(『日本歴史大辞典』)た。 しかし、「頼光の嫡系はむしろ京都に定着して中流貴族(受領 ずりょう 階層)の道をすすんだ。 なお摂津源氏の系統(頼光流および満政流)から美濃源氏が生まれ、またとくに満政流からは尾張源氏、さらに三河源氏がでている。 満仲の第2子頼親は大和国に本拠を置き大和源氏の祖となり,第3子頼信は河内国石川・古市地方を本拠地として、河内源氏の祖となる。 こうして各地に清和源氏の一族が繁衍 はんえん して、恒武平氏とならび称される有力武家の一族となったが、後世とくに〈武人の家〉として名を成し、また初めて武家の政権を樹立するに至るのは、河内源氏の系統の一族である。 なお源満仲は969年(安和2)の安和の変において藤原氏のために暗躍して左大臣源高明 たかあきら を失脚させたことがあり、以後頼光・頼信らも藤原摂関家に臣従してその爪牙 そうが となり、深い結びつきを続けたことも見逃せない。 」(『世界大百科事典』)「長徳三[ 997]年八月二十七日薨ず。 歳八十六。 天山満慶と謚 おくりな す。 (中略)満仲公十子あり。 長子頼光(中略)世子たり。 次子頼親母は左京大夫藤原致忠朝臣の女、康保三[ 966]年九月十三日生る。 小字普源丸石川氏の祖也。 三子頼信」(『修訂版石川氏一千年史』)。 清和源氏嫡流河内源氏 「かくして源氏は、たとえば頼光が藤原兼家・道長らに盛んに贈物して世人を驚かしたように、最初摂関家と結んでもっぱら家門の繁栄を図った。 しかも、彼らのもつ武士団の棟梁としての性格は、その後関東・奥羽の兵乱鎮定にあたり大いに発揮され、武士階級として大きく成長していった。 」(『日本歴史大辞典』)河内源氏「頼信は1028年(長元1)に始まった平忠常の乱に際し、甲斐守としてその追伐を命ぜられ、ほとんど戦わずに忠常を降伏させ、一躍その武名を関東に高めた。 」(『世界大百科事典』)「この基礎の上に頼信の子頼義は威風は大いに行われ、『拒捍の類皆奴僕の如く』『会坂 おふさか 以東の弓馬の士、大半門客となる』ほどの勢いを示した。 」(『日本歴史大辞典』)「やがて陸奥の安部頼時が51年(永承6)に叛乱を起こし、いわゆる前九年の役が勃発すると、頼義は陸奥守・鎮守府将軍に任じ、その嫡子義家とともに転戦し乱を鎮定した。 ついで義家は83年(永保3)にはじまる後三年の役で再び奥羽の地に活躍し、その武名は〈天下第一武勇の士〉として大いに喧伝されるに至った。 これらの戦役を通じて清和源氏は東国の武士との結びつきを強め、とくに関東地方には源氏と譜代の主従関係を作り上げた在地武士も多く、関東に源氏の地盤がきずかれることとなった。 また義家はその武力を基盤にし、武門の棟梁としての地位をかためるとともに、緊密な摂関家との関係もあり、中央政界、貴族社会の間でも大いにその勢力を伸ばした。 」(『世界大百科事典』)「地方の領主は競って義家に対する土地寄進を行い、〔1090年〕朝廷では寄進を禁止する宣旨を諸国に下したほどであった。 かくして清和源氏の主流は武士の棟梁としての河内源氏の系統に移り、(中略)源氏の勢力は〔1086年〕白河院政開始とともにその政権の武力的基礎となった。 」(『日本歴史大辞典』) 源平争乱 「白河院政初期における義家の名声と勢力はきわめて大きかったが、同時にそれまで武士をその下に臣従させ駆使していた貴族階級から嫌悪されることになった。 院政政権はやがて源氏を異端者としてその発展を抑圧しようと策し、代って平氏を登用するにいたるのである。 」(『日本歴史大辞典』)「上皇が権力を掌握するようになった義家の晩年には、彼の立場も微妙に変化して、その勢力にはかげりが見えはじめ、とくに義家の嫡子義親が叛乱を起こして追討され、また源氏一族の間に内紛が続き、京都政界における源氏の武威は失われ、武門の棟梁の地位は、平正盛以下の伊勢平氏にとってかわられた。 義家の弟に義綱・義光があり、ともに武名をうたわれたが、とくに義綱は兄義家と競い合うほどの武勇の者であった。 しかし義綱の系統は源氏内紛の中で消滅した。 また義光の系統からは常陸源氏の佐竹氏や甲斐源氏(武田氏・安田氏・逸見氏等)が出ており、義家の子義国の系統から上野の新田氏、下野の足利氏が成立した。 」(『世界大百科事典』)「一族の威勢は義家を頂点として急速に傾き、義親の子為義に至って陸奥守を望んで得られず、六三歳の歳まで受領にもならず検非違使にとどまり、わずかに為義の長子義朝が下野守として源家の体面を保っていたにすぎなかった。 」(『日本歴史大辞典』)「1156年(保元1)の保元の乱で源氏一門は崇徳上皇方に立った為義(義親の嫡男)やその子為朝らと、後白河天皇方に加わった義朝(為義の長子)とが敵味方に別れて戦い、義朝は戦勝によってその政治的地位を高めたものの、一門のほとんどを失った。 ついで59年(平治1)の平治の乱で義朝が敗死するに及んで、源氏一門はまったく凋落し、平氏一門の全盛をむかえた。 」(『世界大百科事典』) 鎌倉開府 「源氏にかわって興った平氏は清盛によって六波羅政権を樹立するが、やがてこの政権の動揺に乗じて以仁 もちひと 王を奉じた源頼政が挙兵し、」(『日本歴史大辞典』)「平治の乱後に伊豆国に配流されていた義朝の嫡男頼朝は、80年(治承4)全国的に反平氏の気運の高まるのを見て、伊豆・相模をはじめ関東地方の在地武士たちを糾合して挙兵し、また木曾にあった源義仲をはじめ、甲斐源氏以下の諸国の源氏も反平氏の旗を挙げた。 そして85年(文治1)に平氏を滅ぼした頼朝は相模国鎌倉に武家政権を樹立した。 いわゆる鎌倉幕府の創始である。 史上初の武家政権を成立させた頼朝はやがて征夷大将軍に任ぜられ、ここに武家の棟梁たる〈源家〉の地位を確立した。 この頼朝の創業に功績をあげた彼の弟範頼・義経らはやがて頼朝に討滅されるが、この範頼の子孫は吉見氏となった。 」(『世界大百科事典』) 武家の棟梁 「源氏の将軍は頼朝の死後頼家・実朝に至って正統が絶え、幕府の実権は出自を平氏にもつ執権北条氏に移った」(『日本歴史大辞典』)「が、鎌倉将軍が実現したことにより、それ以後は武家の棟梁としての清和源氏の名は不動のものとなった。 鎌倉幕府の滅亡に際して、北条一門の打倒に功績をあげた足利尊氏(高氏)は、義国の子義康の系統から出たが、やがて建武新政府を否定して室町幕府を開き、再び武家政権を樹立した。 彼はみずから清和源氏の嫡流をつぐものであり、また頼朝の後継者たることを主張して、将軍の地位につき、その地位は代々子孫が継承していった。 また3代義満のときには、それまで村上源氏が世襲していた淳和 じゅんな 院、奨学院の別当の地位をも継承して世襲するに至るが、この時点で清和源氏の嫡流がすべての源氏の代表者たる地位にあるものと意識されたことを示している。 武家の棟梁としての清和源氏の名が固定的なものとして意識されるようになった結果、武力を背景として政治権力を握ろうとする者の中には、みずから清和源氏の流れをくむと主張するものが多くなる。 江戸幕府における徳川氏の場合、今日では必ずしもその信憑性が認められているとは言いがたいが、新田氏の一流である得川氏にその系譜をもつものとされているのである。 」(『世界大百科事典』) 第二節 大和源氏 大和守頼親朝臣 (966~1057) ここで少しく時代をさかのぼるが、清和源氏の嫡流河内源氏「頼信の次兄〔大和源氏〕頼親も、なかなかの人物だったらしい。 」(『清和源氏の全家系』)「公首服〔元服〕の後、従四位下に叙せられ、宮内丞に任ず。 又檢非違使左衛門尉となる。 周防・淡路・信濃・大和の刺史たり。 大和・摂津の諸邑を食む。 〔摂津国〕豊島 てしま 郡十市府 に住す。 」(『清和源氏の全家系』)「時に永承元[1046]年、事を以って興福寺の僧と戦ふ。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「さきに強訴を行ったものの、頼親に阻まれて入京することができなかった興福寺の僧兵たちが、これに怨みを含んで大和守頼親とその次男前加賀守頼房の館を襲撃したのである。 頼親・頼房父子は、もちろん武士である。 当然、弓矢をもって応戦し、数人の僧兵を射殺したのである。 僧兵は退却した。 しかし、興福寺といえば藤原氏の氏寺である。 その僧兵を射殺したというのだから、当然問題になった。 」(『清和源氏の全家系』)「僧徒の訴ふる所となり、勅勘を蒙り、土佐の介と為し土佐に謫 たく せらる。 長子頼成・次子頼房与かる。 頼成佐渡に、頼房淡路に配せらる。 公土佐に在ること七年、勅免を得て京都に帰り、官位を復す。 天喜五[1057]年六月二十八日豊島郡に卒す。 歳八十六、雄徳院殿頼全玄翁大居士と謚す。 大和国法隆寺に葬り、祠を多田院に建つ。 (中略) 公五男二女あり。 長男頼成、(中略)永承元[1046]年父と共に興福寺の事に寄り、佐渡に謫せられて卒す。 子孫あり一家を為す。 次男頼房、母は盛光院。 (中略)父、兄と共に興福寺の事に寄り、淡路国に謫せられて卒す。 子孫別に一家を為す。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「承保三年(一〇七六)、肥前国に移されていた頼房は配所で死んだ。 加賀守だったときの武勇により、荒加賀と称されたのがこの頼房である。 しかし、この系統はなおも大和国に繁衍して、世に大和源氏と称されていくことになる。 」(『清和源氏の全家系』)「三男頼遠、母は盛光院、石川氏の祖也。 四男頼基、(中略)別に一家を為す。 五男頼治、(中略)別に一家を為す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 大和源氏 「延久三[1071]年陸奥乱れる。 源頼俊討て之を平ぐ。 頼遠公の異母兄頼房の子也。 〔頼遠と〕同じく来りて陸奥にあり。 之を以て乱を平ぐ。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「頼親・頼房父子が興福寺の僧兵とのあつれきで配流の憂き目を見たのだから、この系統には興福寺に対して怨みを含んでも当然の理由がある。 にもかかわらず、頼房の嫡孫〔頼俊の嫡子〕頼風の系統には興福寺に入って僧となったものが圧倒的に多い。 頼風自身はまだ僧ではない。 それどころか、従五位下の陽明門院の判官代でありながら、『天下名誉の武勇』の猛者もさであった。 頼風系で最初に僧になったのは、その嫡男頼安である。 法華経の持者だったので、法華経太郎と号するまでになる。 しかし、元来が武士である。 あまりにも荒っぽかったせいか、『天下名誉の武勇の悪党』と呼ばれている。 僧侶でありながら、頼安は三人の男子の父である。 そして、その頼安の長男信実がまた物凄い。 興福寺に入って法橋の上座にまで成り上がったものの、これも武士が本然の姿だったから、『日本一の悪僧武勇』と怖れられることになる。 この信実の曾孫住蓮こそ、真の仏教徒だったかもしれない。 浄土宗の開祖法然上人に弟子入りして、安楽とともに法然の二代弟子と称されたほどの高僧になったのである。 専修念仏の弘通 ぐつう に努力したので、ついに後鳥羽上皇の小御所の女官二人が出家したのがいけなかった。 たちまち後鳥羽院の逆鱗に触れ、承元元年(一二〇七)二月、近江国馬淵荘(近江八幡市馬淵町)で斬首されたのである。 頼風の弟頼治も、興福寺の僧兵が京都に強訴に入ろうとしているのを阻止して興福寺から訴えられ、嘉保二年(一〇九五)十月、配流の憂き目を見ている。 配流された国は、『尊卑文脈』では土佐国あるいは佐渡国となっているが、『中右記』や『平家物語』で見ると佐渡国が正しいらしい。 その子頼弘は摂津権守に任ぜられて国衙の在庁官人になり、摂津国豊島郡(豊能町)に本拠を移して豊島権守と名乗った。 豊島氏の開祖である。 親弘〔頼弘〕の子の代で、この系統は二流に分かれる。 次男元弘の系統は、頼弘の跡を伝承して豊島源氏と称したのに対し、長男親治の系統は大和国宇野荘(五条市宇野町)に本拠を置いて、宇野源氏を名乗ることになったのである。 頼風〔頼俊〕の三弟頼景は、陸奥国愛子 あやし (仙台市広瀬町)に所領を持って、愛子六郎あるいは陸奥六郎と称した。 しかし、本領は尾張国大野荘(常滑市大野)にあったらしい。 鎌倉時代に入っても最初のうちは、尾張国はまだ近畿文化圏に近かったから、この系統は当初はまだ宮廷武家であり続けたようである。 だから承久三年(一二二一)に後鳥羽上皇が鎌倉討幕の挙兵をしたとき、頼景から三代目の大野判官代頼清、その子太郎頼重父子は京方に味方している。 しかし、承久の乱では、京方は惨敗した。 そのため、大野頼清は鎌倉幕府に尾張大野荘など数カ所を没収されている。 以降、この系統は山中である大和国吉野郡旭(十津川村旭)に屏息して、朝日姓を称することになる。 一見華やかに見える朝日姓は、その実、屏息状況の苗字だったのである。 」(『清和源氏の全家系』) 第三節 奥州石川氏 「中世の石川荘を支配したのは、多田源氏満仲の子孫と称する石川氏である。 」(『角川日本地名大辞典』)。 石川福原三郎頼遠 (1007~1062) 多田源氏満仲の次男・大和源氏頼親の三男・頼遠は、「母堂盛光院、寛弘四[1007]丁未年三月二十八日、大和国宇田郡に於て生る。 小字千勝丸・弥三郎と称す。 (中略)従五位下に叙せられ、伊勢守に任ず。 河内国石川郡〔大阪府南河内郡〕、並に摂津国福原〔神戸市兵庫区福原町〕・小柳津 やないづ 〔兵庫県川辺郡猪名川町〕の諸邑を食み、石川荘に住す。 公独り興福寺の事に与らず。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「頼遠は、早くから福原三郎と号している。 摂津国福原荘を本領としていたからである。 福原荘は現在の神戸市兵庫区福原町。 瀬戸内海に面し、現在の神戸港を風波から守る和田岬をすぐ南側に控えた交通上の要地で」(『清和源氏の全家系』)、のちに平氏が一時都した地である。 「永承六[1051]年陸奥の豪族安部頼良反す。 朝議、源頼義に命じて之を伐たしむ。 〔頼遠〕公、〔従兄弟〕頼義を輔け、永承七[1052]年陸奥に至り、数々 しばしば 賊と戦ひ、具 とも に労苦を尽くし、万死の中に出入して未だ平ぐる能はず。 出羽の酋清原武則の援を得、康平五[1062]年厨川柵を攻め、貞任以下誅に伏す。 公矢石を侵して戦ひ、遂に戦歿す。 長子有光公軍にあり、父公を輔け、乃ち代て軍を統ぶ。 (中略) 頼遠公父子、頼義将軍に随従して陸奥に在ること十一年、櫛風 しっぷう 沐雨具さに艱難を嘗め、激戦数十、万死を冒し功なるに垂 なんなん として頼遠公厨川に戦歿す。 有光公代て軍を指揮し安部一族誅に伏して、陸奥の山河亦王沢に潤ふ。 乃ち乃父 だいふ の功を全うするを得たり。 康平六[1063]年春三月、頼義将軍降虜を率ひ、京師に帰る。 〔有光〕公又随て入朝す。 是より先、人を遣し、貞任以下の首を齎し闕下 けっか に献ず。 詔して頼義将軍を正四位下に叙し、伊予守に任じ、義家出羽守に任ぜられ、(中略)清原武則鎮守府将軍に任じ、有光公従五位下安芸守に任ぜらる。 将軍更に公の功を奏し、奥州山道の地を公に与へ、以て陸奥を監視せんことを請ふ。 朝議之を許す。 此に於て有光公、一族師弟を率ひ、白河の地に来り住す。 時に康平六[1063]年冬十月也。 有光公白河に至り、先年頼義将軍藤田に次 やど し、八幡神を陣中に勧請して戦勝を祈り、遂に賊を平定したるを以て、其地を吉とし、此に居を卜す。 先君の遺骨を葬り以て菩提を弔ひ、一宇の道場を建つ。 先君を法謚 ほうし して岩峯寺殿仁勇健徳と云ひ、寺を岩峯寺と称す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 岩峯寺は「石川郡玉川村大字岩法寺にあり、山号を大貫山、臨済宗建長寺派の古刹である。 承保年中〔1074~76〕開基の寺伝があるが、本格的な開山は、鎌倉末期の正和五[1316]年と見られている。 付近には石造五輪塔としては古式に属する、治承五[1181]年の紀年銘を有する五輪塔があり、石川氏ゆかりのものとして、国の重要文化財に指定されている。 長泉寺創建以前の石川氏の菩提寺である。 」(『修訂版石川氏一千年史』注) 「頼遠公五〔六〕男一女あり。 長子仲重、(中略)先生 せんじょう 大夫に任ぜられ、京師に止まり別に一家を為す。 次子有光公、母堂正夫人園正院の出なり。 立て世子となる。 三男家弘母堂有光公と同じ。 (中略)上野国に邑を食む。 五男有宣、(中略)紀伊国に邑を食む。 六男有遠、(中略)出羽国に邑を食む。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 河内国石川郡石川荘 「石川〈河南町〉 石河とも書いた。 葛城山西北麓、石川の右岸に位置する。 地内を梅川が貫流する。 地名は川名にちなむか。 〔古代〕石川 奈良期から見える地名。 河内国石川郡のうち。 (中略)現在の河南町の東山・一須賀・大ヶ塚から富田林 とんだばやし 市・河内長野市・千早赤阪村にかけての石川流域の一体と推定される。 〔中世〕石河郷 郷名。 平安期~戦国期に見える郷名。 石川郡のうち。 (中略)石川郡と同じ意味で使われていると思われる。 (中略) 〔中世〕石川荘 平安期~戦国期に見える荘園名。 石川郡のうち。 (中略)当地は河内石川源氏の本拠地である。 (中略) 〔近代〕石川村 明治22[1889]年から昭和31[1956]年の自治体名。 はじめ石川郡。 明治29[1896]年からは南河内郡に所属。 大ヶ塚・山城・東山・一須賀の4か村が合併して成立。 (中略)郡内でも平地に恵まれていた。 (中略)昭和31[1956]年河南町の一部となり、村制時の4大字は同町の大字に継承。 」(『角川日本地名大辞典』) 「石川郡 古代~近代の郡名。 河内国に属す。 『和名抄』の訓は『以之加波』。 大阪府の東南端に位置する。 (中略)郡東部の金剛山地と西部の羽曳野丘陵との間を石川が堆積平野を形成しつつ北流する。 東部山地からは梅川・東条川・佐備川が北西に流れて石川に注ぐ。 郡名の由来は、同川の流れによる。 (中略) 〔古代〕(中略)石川に沿って東高野街道が南北に通じ、郡北部には難波と飛鳥とを結ぶ竹之内街道が横断。 竹之内街道沿いの山あいの地は王陵の谷と呼ばれ、聖徳太子墓・敏達天皇陵・用明天皇陵・孝徳天皇陵・小野妹子墓など、飛鳥期から奈良期にかけての陵墓が数多く存在し、古代文化の中心地のひとつであった。 (中略) 〔中世〕(中略)石川荘は石川源氏の本拠で、在地領主制を展開していた。 八幡太郎義家の子義時がはじめて石川を称し、平安末期に同荘は高倉天皇の後宮七条院に寄進された。 」(『角川日本地名大辞典』) 「石川 大和川の支流。 指定流路延長30. 7Km、流域面積約 220㎡。 金剛山地の西麓を北流する府南部の主流。 和泉山脈東部の岩涌山・三国山・蔵王峠付近を源流域とし、ほぼ北東に流れ、河内長野市の市街地南方で天見川を合わせ、富田林市に入って佐備川・千早川を合して北流し、羽曳野市で梅川・飛鳥川を合わせたのち、藤井寺市・柏原市の境で大和川左岸に合流する。 (中略)羽曳野丘陵と金剛山地に挟まれた石川の中下流域一帯は石川谷と呼ばれ、古代から開けていた。 (中略)大和川との合流点付近は、応神陵をはじめ全国的に有数の大規模古墳の集中する古市古墳群があり、右岸の玉手山丘陵にも多くの古墳がみられる。 石川谷は、大阪東南部の南北交通路をなし、近世には石川を利用して舟運が発達し、大和川を経て大阪と結ぶ剣先船が富田林の喜志まで通っていた。 」(『角川日本地名大辞典』) 石川冠者源太有光 (1037~1086) 「母堂圓〔園〕正院、長暦元[1037]年正月十二日、摂津物津の荘に生る。 小字松千代と称す。 首服の後、河内右馬之允師任と改め、後、源太有光と称す。 物津冠者と号す。 移て柳津 やないづ 〔兵庫県川辺郡猪名川町〕に居る。 柳津冠者と称す。 永承六[1051]年大人に従て奥州に下向す。 時に年十五、国府〔多賀城〕にあり。 天喜四[1056]年十九歳にして安部頼時の軍と戦ひ、難戦苦闘数々、死を決して戦ひ、二十五歳乃父〔頼遠〕厨川に戦死す。 公代て其軍を指揮し、〔安部〕貞任誅に伏す。 功を以て従五位下安芸守に任ず。 奥州仙道の地を賜り来り住す。 公擇ぶ所の藤田に城 きず く。 水に乏しきを以て更に地を捜す。 未だ得ず。 日夜之を思ひ八幡神霊に祈る。 蘆三根を生じたる地に清水の湧出するを夢む。 醒めて之を奇とし、翌日出でて之を求む。 高立に登て眺臨す。 一鶴あり稚松 わかまつ を嘴 くは へて天に舞ひ、松を墜して去る。 訝 いぶか りて行て其処に至れば、地上三蘆あり。 依て試に地を穿 うが てば、清水湛々として湧出す。 公大に喜び此地に築く。 城成る。 本丸竪五十間、横百八十間二の丸之に協 したが ふ。 高さ百二十尺、城麓、川あり。 北より東に流れ、更に西して北に流る。 恰 あたか も 城を繞 めぐ り、要害自然に成る。 形勢雄偉、三蘆 みよし 城と称す。 公、八幡神を尊崇すること益々篤く、頼義将軍建る所の八幡神を城中に移して氏神と為し〔川辺八幡宮〕、公の第九子有佑を以て、外祖父神祁職吉田兼親朝臣の義子と為し、吉田左衛門尉と改めて祭祀に任ぜしむ。 八月十五日を以て祭日と定む。 盖 けだ し将軍勧請の日に当るを以て也。 公三蘆城に入り将士に第宅 ていたく を賜ひ、市賈 しこ 〔町の商人〕に宅地を頒つ。 鋭意治を図り、農民をして地を開拓せしむ。 公、白河を割き旧郷石川の称を置く。 自ら称して石川有光と云ふ。 子孫是より石川を姓とす。 飛鶴稚松を嘴へたる状を画き家紋とす。 瑞夢に因する也。 延久三[1071]年陸奥乱れる。 源頼俊討て之を平ぐ。 〔父〕頼遠公の異母兄頼房の子也。 同じく来りて陸奥にあり。 之を以て乱を平ぐ。 永保二[1075]年頼義将軍卒す。 詔して義家を陸奥守とし、鎮守府将軍を兼しむ。 〔再従兄弟〕義家依て陸奥に来る。 有光公出て之を迎え、国府に送る。 公應徳三[1086]年十月二日、保原城に卒す。 年五十一。 城は藤田の館を称す。 之より先、家を世子元光〔基光〕公に譲り、此に老す。 遂に此地に卒す。 在光院殿諒山舜英大居士と謚す。 岩峯寺先塋 せんえい 〔先祖の墓所〕に葬る。 (中略) 公七男二女あり。 長男光佑〔光頼〕、母は妾(中略)。 石川郡藤田の邑を与へられ一族に列す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 「藤田城は当〔石川〕町北西部の中野にあり、有光の長子光祐が居住した。 その後、南須釜(現玉川村)に館を築いて移り、鴫山 しぎやま 藤田城または大寺城とも呼んだ」(『角川日本地名大辞典』)。 「次男光平、母は兄光佑と同じ、(中略)信州諏訪郡に於て邑を食む。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 「当〔石川〕町外槇 とまき には有光の次男泉小二郎光平の子息光則が居住したという梁瀬の館跡がある。 城址南麓の矢吹街道下側に巨大な五輪塔の一部分が残っている。 」(『角川日本地名大辞典』) 「三男元〔基〕光公、母堂正夫人蓮正院、立て世子たり。 四男光孚 たね 、母は元光公に同じ、(中略)矢吹に住す。 一族に列す。 (中略) 五男光房、(中略)奈目津の邑を与えられ、奈目津五郎と称す。 一族に列す。 (中略) 六男光度、(中略)赤坂の邑を与え、赤坂六郎と称す。 一族に列す。 七男光助、(中略)信州依田を食む。 (中略) 八男有佑、(中略)外祖父吉田兼親朝臣の義子となり、吉田左衛門尉と称し、石川氏神の神職たり。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 三芦城 三芦城の築かれた八幡山は標高320mほどの高台で、ふもとに北須川が流れている。 南東部は断崖をなし、石段 249段の急斜面を登って本丸に達する。 本丸跡の西側は石都々古和気 いわつづこわけ 神社(高田八幡神社)をまつっている。 」(『角川日本地名大辞典』) 「三芦城跡 石川氏の祖、源有光が平安時代中期に築城したもので、25代昭光が豊臣秀吉に領地を没収されるまで、領主石川氏の居城であった。 三方が急崖で西北を空ぼりで区切った山城である。 本丸跡には石都々古和気神社があり、応永30年 1423 銘の銅製鍔口が納められている。 これは城主の石川持光が寄進したもので、県重要文化財に指定されている。 」(『白河・須賀川』歴史春秋社) 磐城国石川郡石川荘 石川「氏が入部したころの東北地方は、(中略)地方制度の激変が続いていた時代だった。 奈良時代以来の郡や郷が再編されて姿を消し、それに変〔代〕わって新しい郡や荘園が、とくに福島県浜通り地方を中心に、続々と生まれはじめていたのである。 陸奥の石川郡も、『和名抄』(『類聚倭名抄』)には見えておらず、白河郡の石川郷・藤田郷と呼ばれる地域だったらしい。 それが石川氏の入部以後、開拓の進展とともにその名にちなんで石川郡がたてられ、さらにその地域のほぼ全域が、石川庄という荘園に塗りかえられていった。 同庄は久我 こが 家領とされているが、立庄や寄進の経過などについては、全く知られていない。 石川氏がこの地に移住し、開拓を進めるに当たって、まず根拠地としたのは、石川郡玉川村の地域だったと思われる。 それは前記した石川基光供養塔のある岩法寺が、この地にあることからも考えられるところである。 」(『角田市史』) 「石川〈石川町〉 石河とも書く。 中通り中部、阿武隈川の支流北須川・今出川沿岸に位置する。 」(『角川日本地名大辞典』) 「〔福島〕県南部、石川郡の中央よりやや南西部に位置する。 (中略)福島市の南70Kmの地にある。 阿武隈山地にあり、阿武隈川の支流社川が町の西部を貫流して須賀川盆地に流れ込む。 中心市街地は社川の支流北須川と今出川の合流点付近の谷間に形成されている。 (中略)地勢は西部の阿武隈川と社川に包まれた平坦地と社川東部の山間部に分かれる。 標高は平坦地で 280m、山地で 400mくらいである。 当〔石川〕町は国鉄水郡線の沿線にあり、国道 118号・主要地方道いわき石川線(御斎所街道)・同白河石川線の集合点に当たり、当地方の中心地である。 水郡線の開通により輸送が便利となり、製材・木工業も行われている。 また町の北部にある母畑ダムの完成により、水田の基盤整備や畑の造成が進み、農業の近代化が図られている。 一方、母畑・猫啼などの温泉地があり、石川山からは電気石・ざくろ石など珍しい鉱物が産出されている。 」(『角川日本地名大辞典』) 石川澤井三郎元光〔基光〕 (10?? 」(『角川日本地名大辞典』) 「小字喜代丸三郎と号す。 後大炊介基光と改む。 父有光保原城に老するや、公其後を承く。 従四位下に叙せられ治部大夫に任ず。 元光と改む。 公乃父創業の後を継ぎ、民庶を憮し、領土の開発に努め、子弟を分封して家運の進展を計る。 寛治元[1087]年十二月、鎮守府将軍源義家清原武衡を伐つ。 公、兵衆を率ひ、義家将軍を輔け、金沢の柵を攻むること数月、遂に之を陥れ奥羽悉く平ぐ。 (中略) 元光公義家将軍を輔け清家の賊を平ぐるや、命じて羽州田川郡を営せしむ。 後嘉保二[1095]年八月、一族異母兄大寺光佑・弟矢吹光孚・奈目津光房を伴ひて上洛す。 公従四位上大膳大夫に任ぜらる。 光佑従五位下遠江守・光孚従五位下下野守・光房従五位下岩見守を拝す。 公康和元[1099]年九月八日卒す。 文正院殿大方継光大居士と法謚す。 岩峰寺先塋に葬る。 (中略) 公七男三女あり。 (中略) 長男光忠、母は霊光院、小字小源太。 多病にして武家の業を継ぐ能はず。 (中略) 次男光義、母は霊光院、兄光忠の遁世により、立て世子となる。 三男季康、(中略)竹貫邑を与へ、一族に列す。 (中略) 四男政光、母は光義に同じ、(中略)赤羽荘を与えられ一族に列す。 (中略) 七男義基、母は季康に同じ。 小字徳丸、後沢井源三郎と称す。 沢井邑を与へられ、一族に列す。 従五位下左衛門佐に任ぜられる。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 既述のごとく、「澤田館は澤田村大字澤井に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) あるいは、「一説によると一〇五八~一〇六五年〔康平年間〕に源有光が石川〔の南西・沢井〕に城を築き、前に居住していた河内国(現・大阪〔府藤井寺市〕)の沢田郷にちなみ、この地を沢田としたという。 」(『福島大百科事典』)すなわち、その「城址を沢田といへり。 〔石川風土記〕」(『角川大日本地名辞書』) 石川冠者澤田太郎(源太)光義 (10?? ~1121) 「小字二郎、沢井弥太郎と称す。 兄光忠遁世の為め、父の後を承けて立ち、従五位下左京大夫に任ぜられ、後、従四位下大和守に任ぜられる。 晩年入道して道寛斎と号す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) また、この光義も「初メ冠者又源太ト稱ス」(『伊達世臣家譜』)。 「石川光義 石川冠者 澤田太郎 奥州石川ニ住ス」(『系図纂要』)。 「澤田サハタ氏(岩代)【清和源氏、石川氏族】 石川郡澤田より出る。 尊卑分脈に『石川基光の子光義、號澤田』と見える。 」(『新編姓氏家系大辞典』) 「澤田サハタ(中略) 清和源氏石川氏流 磐城国石川郡澤田邑より起る。 」(『姓氏家系大辞典』) 「【澤田氏】姓は清和源氏、源満仲の子源頼親(頼光の弟)より出ず、立家の祖を光義という。 」(『姓氏明鑑』) 「磐城国(福島県)石川郡沢田村から起ったのは福島の戦国大名・清和源氏石川氏の分〔頼親流〕で石川基光の子光義が沢田を称した。 」(『姓氏苗字事典』) また、「有光の孫光義が沢田太郎と名乗って摂津国沢田(大阪市〔東淀川区〕大桐)に所領を持った(中略)。 」(『清和源氏の全家系』) すなわち、この石川冠者澤田太郎光義こそ、澤田氏の元祖に他ならないのである。 石川「氏は鎌倉時代にいたるまで、多くの庶家を分出して、荘内各地に勢力を張る。 早い時期に出現した庶家の名乗った字を見ると、基光の子光義が沢田(石川町沢井・赤羽・新屋敷などの地域カ)を称し、さらにその子光治が成田(岩瀬郡鏡石町)を号したとある。 また基光〔広季?〕の弟、光家の子息たちも、光治が大寺(石川郡玉川村南須釜、東福寺付近とされている)、光輔〔高〕が小高(同玉川村)を称している。 これらの字はいずれも、現在の石川町中心部ではなく、むしろ玉川村を中心にして、その周辺に散在している地名であることがわかる。 このことも、石川氏の最初の基地が、玉川村地区にあったことを物語っている。 (中略) 以後、鎌倉時代、約百五十年にわたり、石川庄各地への開拓が進められた。 (中略) こうして石川一族の中には、庄内の地名を苗字とする多くの分家が出現してくる。 (中略) 石川惣領家は、これらの分家(庶子ともいう)に、開拓で獲得された所領を与えて、石川庄の支配に協力させるとともに、戦争の際などの非常時には、一族をひきいて軍役を提供せしめていたのである。 このような武士の生活の仕組を、惣領制と呼ぶこともある。 」(『角田市史』) 「保安二[1121]年辛丑 しんちゅう の歳、夏四月朔日卒す。 大昌院殿明輝寛大居士と法謚す。 岩峰寺先塋に葬る。 夫人下総守佐竹義業朝臣の女、天治二[1125]年九月十九日卒す。 法成院殿立生明乗大姉と法謚す。 先塋の側に葬る。 公四男四女あり。 (中略) 長男義季公、母は法成院、立て世子となる。 (中略) 次男義全 やす 、母は義季公に同じ。 福田弥二郎と称す。 後、石河三河守兼雅と改む。 三男光治、母は兄義季公と同じ、福田五郎と称す。 成田邑〔岩瀬郡鏡石町成田〕を与へられ、一族に列す。 石川宗家の命により、〔1189年〕文治の役源頼朝卿に従ひ、西討の軍に属して功あり。 後ち美濃国市橋の地を賜り、移りて市橋に住す。 美濃地方石川ヲ称する者概ね其子孫に出ず。 (中略) 四男、母は兄光治と同じ。 小字千松丸。 後泉右近介全重と称す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 石川三郎義季 (1??? ~1177) 「小字徳松丸、弥三郎と称す。 父〔光義〕の遺跡を継ぐ。 義季と改む。 保元二[1157]年上洛して従四位下大和守に任ぜらる。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 「『尊卑分脈』によれば、有光の孫〔光義〕の代に沢田・大寺・小高、曾孫〔義季〕の代に坂地・川尻・矢沢などの苗字があらわれる。 有光から三~四代目の世代、鎌倉前期のころに、石川氏は一族・庶流の分立をすすめ、石川庄の村々に一族を地頭として配置するにいたったものと思われる。 それは岩城氏のばあいとちがって、必ずしも耕地を開発して新しい村をつくりながらすすめられたというよりは、すでにひらけていた村に入部定住し、その開発をさらにはかってゆくという傾向をとったものとみられる。 そして、阿武隈山地の谷をぬって点在する村々に割拠するという形をとった石川一族は、岩城氏などに比較すると、それぞれに独立の傾向を強くもつようになったらしい。 」(『福島県の歴史』) 「治承元[1177]年丁酉 ていゆう の歳、秋七月六日卒す。 息心院殿需水天広大居士と法謚す。 岩峰寺に葬る。 公六男一女あり。 長男、(中略)早夭す。 次男基光公、母は量岳院、立て世子たり。 (中略) 三男光堯、母は兄基光公と同じ。 (中略) 四男光信(中略) 六男治曲」(『修訂版石川氏一千年史』) 「三郎義季の系統は、〔1221年の承久の乱〕以降も陸奥国石川荘を動かなかった。 」(『清和源氏の全家系』) 第四節 鎌倉時代の石川氏 「石川氏について記している古文書の数は、(中略)かなりの数にのぼる。 しかし、これらの古文書は、ほとんどが室町・戦国時代のもので、それ以前の平安・鎌倉時代のことを記したものはあまりない。 鎌倉時代末期のものが多少ある程度である。 従って鎌倉時代の石川氏の動向については、よくわからないというのが、正直なところである。 」(『角田市史』)」 奥州征伐 「六代元光〔基光〕の四男光家(石川四郎)は、『奥州南方ノ奉行』であったが、治承四[1180]年会津長浜で賊のために殺されたと伝える。 七代広季は寿永二年(一一八三)、一族成田光治に命じて頼朝の軍を助けさせた。 文治五年(一一八九)奥州征伐の途に就いた頼朝は、石川一族大寺光行の先導をうけて、八月三日石川の藤田に入り、父祖頼義の例にならってこの地の河辺八幡宮(玉川村)に戦勝を祈り、三日間の駐軍の後出発した。 征討のことが終わっての帰途、頼朝は再び石川の八幡に参詣し(中略)たという(なお、『吾妻鏡』にはこれらのことはみえない)。 (中略) 本〔福島〕県内の鎌倉時代の武士領主たちの多くが、文治五[1189]年の奥州征伐を機会として本県に所領をもつに至っているのに対して、石川氏のばあいは、古く平安中期に石川地方との関係をもったことになる。 」(『福島県史』) 「石川の人々にいわせると、鎌倉幕府以前の築城は三芦城で、福島県内の武士団の定着では、最も古いと誇りにしている。 」(猪狩正志他『ふくしまの古戦場』歴史春秋社) 「ただし『一千年史』の記載は、平安末期有光の子息たちの代に、石川一族は庄内の村々にほぼ根を張りおえたという印象を与えるが、それはむしろ、鎌倉時代初期有光の孫あるいは曾孫たちの代に、大きく進められたと考えるべきであろう。 (中略) 一族が沢田・成田・大寺・小高・坂地・河尻・矢沢その他多くの名乗りをもつ分流にわかれて、庄内の村々にそれぞれ土着するようになるのは、『尊卑分脈』が示すように、早くとも有光の孫〔光義〕あるいは曾孫〔義季〕の代のこととみられるのである。 」(『福島県史』) 北条氏御内人 「鎌倉中期から石川荘は北条氏の所領となり、石川氏一族は北条氏の被官となった。 」(『角川日本地名大辞典』) 「北條氏が石川荘全体の地頭職を握り、石川一族はその下で村々の地頭代に任じられるようになっていたと考えられている。 (中略)石川氏が北條氏の個人的従者になったのは、〔1221年〕承久の変のころからとも推測されている。 『石川系図』によると、同氏は、北條氏と婚姻関係を結んでおり、その結びつきも並々ならぬ深いものだったと見てよいだろう。 」(『角田市史』) 「八代光貞は執権北条泰時の息女を妻としている。 九代長光〔光長〕は、弘安四年(一二八一)の蒙古襲来に際して京都の守備の任をつとめ、さらに太宰府に至ってその守備に当たった。 」(『福島県史』) 「〔光長の曾孫〕家光・時光の父子〔兄弟?〕は、ともに北条家〔北条経時(泰時孫、時頼兄)〕の女を母とし、北条家で元服を加えている。 」(『福島県の歴史』) 「元享三年(一三二三)北條貞時の十三年忌が、子息の高時によって営まれたが、その際に百八十二人の御家人が、砂金・銭・太刀・馬などを献上している(円覚寺文書)。 その中に、多くの石川一族の名が見えている(中略)。 」(『角田市史』) 「ここに石河氏の北条氏御内人 みうちびと としての従属性を知ると共に、(中略)〔石川氏〕諸流が、嫡流を中心としながらも独立に北条氏と関係を結んでいることに注目しておきたい。 」(『福島県史』) 「石川一族の多様さとその独立的傾向とを、この例からうかがうことができる。 」(『福島県の歴史』) 開拓の行詰まりと所領紛争 「このように開拓を重ねて、着実に力を伸ばした石川一族ではあったが、鎌倉後期になると、社会の変質を反映したかのように、多くの問題が噴き出してきた。 とくに深刻な問題として、開拓の行詰まりという事態があった。 鎌倉時代を通じて、社川ぞいの開墾適地の開拓を進め、目覚ましい成果をあげたのであったが、当時の士〔土〕木技術をもってしては、阿武隈川氾濫原の開墾は不可能だった。 だから、技術的な制約から開拓には一定の限度があり、その線に達して開墾事業が飽和状態になると、そこから先には進めないことになる。 このことは深刻な事態を生み出した。 第一に、この時代の武士社会の、もっとも基本的な仕組である、分割相続が不可能になったことであり、さらに限られた土地の相続をめぐって、一族の間で所領争いが続発するようになったことである。 弘長元年(一二六一)から文永二年(一二六五)にかけて、石川坂路光信と、その甥光行の間で、石川庄川尻郷・蒲田郷(東白河〔石川〕郡郡古殿町鎌田のこと)の領有をめぐって、争いが起こり、北條重時・同時宗の下知状によって、いずれも坂路光行に領知が認められている。 こういう事態の出現は、惣領制という一族の団結の仕組みにもひびを入らせることになるし、また、鎌倉幕府の滅亡の遠い原因にもなったのである。 (中略) 石川氏の困苦は、鎌倉幕府の滅亡という大きな政治的動揺のなかで、さらに増幅されることになった。 北條氏御内人として、幕府首脳と密着した生活を営んできた一族が、この大事件の中で前途を見失って、混乱したことは想像できる。 しかし、そういう中にあって、一族の石川〔時光の嫡男〕義光は、元弘三年(一三三三)五月、新田義貞の鎌倉攻めに参加して、軍忠状に義貞の証判を与えられている。 」(『角田市史』) 第五節 南北朝争乱と石川氏 「石川氏が歴史の表面に踊り出て、華々しい動きを見せるようになるのは、南北朝期以後のことである。 それは一つには、この時期以後、文書資料が沢山残されるようになり、石川一族の行動を明らかにしやすくなったことがあるが、それよりも、この時期が地方豪族にとって、絶好の勢力確立・拡大期だったことをあげなければならない。 」(『角田市史』) 建武の新政 「長い年月にわたる北條氏との関係をたち切ってまで、反幕府の姿勢を示して、その後の勢力維持をはかった石川氏であったが、後醍醐天皇によって展開された新政の中では、石川氏は大変きびしい状況に追いこまれることになった。 それは、北條氏の所領は多くが没収されて、いわゆる元弘没収地となり、幕府討滅の恩賞の原資とされたことであった。 石川庄が元弘没収地となったかどうかは明らかではないが、北條氏所領だった可能性が強いので、かなり大きい影響をうけたものと見られる。 建武元年(一三三四)四月、北畠顕家は石川庄の鷹貫(竹貫)・坂地(坂路)・矢沢(谷沢)三郷を、結城宗広に与えている。 おそらくこれは、石川庄地頭、あるいは石川庄奉行だった石川氏に発せられた命令だったと考えられる。 石川一族の勢力維持のための努力も空しく、鎌倉時代以来開拓につとめてきた、庄内の一所懸命の地を奪われてしまったのである(伊勢文書/陸奥国司下文案)。 (中略)鎌倉時代以来の北條氏領、あるいは北條氏被官(=御内人)という事実が、石川氏の鎌倉攻めの功績を無にするような結果になったと考えるべきであろう。 おそらくこれは、奥州での建武新政の大黒柱である、結城宗広の本領白河庄に石川庄が隣接していたことから生じた悲劇だったのである。 (中略) 石川一族などは、鎌倉末期の一時期とはいえ、反幕府の立場を明らかにして戦っているのだから、当然、石川庄の全面的な支配者として認められてよい人々だったのである。 それが上記のような結果になったのは、石川庄内の郷村の宛行主が白河結城氏と、その家臣だったことによるといえよう。 結城氏の功に報いるため、北條氏御内人だった石川氏を冷遇して、その所領をけずったのである。 しかし、このことが結果的には、石川一族を北朝方に追いやることになった。 」(『角田市史』) 石川一族北党に属す 「建武新政のもとで、本領の一部を奪われる悲劇に泣いた石川一族は、所領回復のための運動を展開する。 そのための絶好の機会が意外に早く到来した。 建武二年(一三三五)七月の中先代の乱である。 北條高時の遺児時行が、信州の諏訪氏に奉ぜられて挙兵し、鎌倉を襲った事件のことである。 これをきっかけに足利尊氏が、後醍醐天皇に公然と反旗をひるがえした。 石川一族の蒲田五郎兼光は、早速、尊氏方に参陣し、その軍功によって石川庄内の本知行を宛行われている(遠藤白川文書)。 また同じく石川義光は、その後も尊氏と行動をともにし、九州や湊川に転戦して、最後は比叡山麓西坂本の合戦で討死している(角田石川文書)。 こうして、中先代の乱以来、石川一族は、北朝方として、まさに東奔西走の活躍をしたことが知られる。 その後も、大阪天王寺の戦や男山城善法寺の戦などで、一族と見られる(中略)名が見える。 おそらく当時の北朝方の総大将石塔義房の指揮のもとに、北畠顕家の第二次征西軍を追って、上方を転戦したものである(秋田藩家蔵文書/岡本文書)。 もちろん、地元の奥州でも(中略)戦を交えている。 内乱期を通じて、一時的には、一族の中で南朝方に投ずる者もあったが、大勢としては、ほぼ北朝勢として行動している。 」(『角田市史』) 白川結城氏の圧迫 「奥州南朝勢の抵抗は、文和二年(一三五二)五月に、最後の拠点宇津峯城が陥落して、ほぼ根絶された。 しかし、その後も争乱は止むことなく続く。 奥州管領畠山氏と吉良氏の争いが火を噴いた岩切合戦や、さらに奥州四管領の間での主導権争いなどである。 その中で、石川一族も、しばしば動員されていることは、いうまでもない。 岩切合戦からその後の広瀬川の合戦を経て、敗れた吉良貞家が、名取郡~伊具館~東海道滝尻宿へと敗走した時に、石川蒲田兼光が、貞家の護衛役として献身したことは、『遠藤白川文書』にも記されている。 (中略) 石川氏はこうして、南北朝時代に、かなりの活躍を見せたが、この時期の後半になると、次第に白川結城氏に圧迫されるようになった。 同氏は、宗広の代までは、南朝方の中心として活躍したが、その子親朝の時代には、北畠親房の度重なる出陣要請にも応ぜず、三迫〔宮城県栗原郡〕の合戦後の康永二年(一三四三)には、北朝方に投降してしまった。 この間建武二年(一三三五)には、白川・高野・岩瀬・安積の四郡、石河・田村の二庄、依上・小野の二保など、八か所の検断に任命されている。 (中略)これによって、白河結城氏は、南奥のいわゆる仙道一帯の指導者の地位を承認されたことになり、その下には石川氏をはじめ、田村・二階堂・伊東・上遠野など、鎌倉時代以来の地方武士たちが服することになった。 この権限は北朝方からも追認されたので、結城氏の地位は他氏を大きく上廻るものとなった。 同氏はこのほかにも、(中略)多くの所領を与えられたが、(中略)その中に石川庄の三郷も入れられていたことは前記した。 こういう背景があったから、結城氏が北朝方に投降した後も、石川氏と結城氏の間では、何回にもわたって、所領の支配をめぐる争いがくりかえされた。 一五世紀半ば、結城直朝のころになると、石川一族の中の有力者だった石川蒲田氏が敗北して、居城を破却された上に、所領と同家に伝来した古文書(石川蒲田文書)を没収されてしまった。 また同じ一族の赤坂・大寺・小高の三氏も、氏を変え、家紋を改めて、結城氏に属したという。 こうして石川氏は南北朝時代以降、白川結城氏の強い束縛のもとにおかれることになったのである。 」(『角田市史』) 第六節 室町時代の石川氏 仙道諸家一揆 「応永十一年(一四〇四)ごろと推定されている『仙道諸家一揆傘連判状』(一揆契状ともいう。 秋田藩家蔵文書/白川文書)という史料は、石川一族の一揆契状で、石川庄松川の源朝光以下一七人の署判を、円形に連ねたものである。 まさに『一揆の時代』と呼ぶにふさわしい状況だった。 いずれも、篠川・稲村両御所の付近の、しかも中小武士によって結成されていて、伊達・白河結城・芦名などが加わっていないことなどから、そのように考えられている。 (中略) 石川氏をはじめ、田村・伊東などの諸氏は、一族の分離独立の傾向が早くから進んでいて、そういう中で一族の団結を図る必要があったので、一揆結成は渡りに船と受けとめられた(中略)。 」(『角田市史』) 白川結城氏の覇権 「両公方の着任は、このように、南奥羽の国人の間に大きな影響を及ぼしたが、波紋はそれだけに止まらなかった。 (中略)〔1396年〕伊達〔大膳大夫〕政宗の乱と、それに続く、芦名・斯波・大崎氏をもまきこんだ、南奥の政治的混乱をも、この事件はひき起こすのである。 さらに両公方自身もまた、この時期の全国的な政治状況の中で、複雑な動きをはじめることになる。 篠川満直は応永二十三年(一四一六)以後、反鎌倉の立場を明らかにし、稲村満貞と対立する。 満直は室町将軍と結んで、鎌倉公方になろうとし、永享の乱に際しては、室町幕府から、鎌倉公方足利持氏追討の奥州総大将に任じられて、甥持氏を敗死させるのに力を貸した。 この時、弟の満貞も持氏とともに鎌倉永安寺で自刃している。 残った満直も、しかし長く生き残ることはできなかった。 永享の乱の翌年、永享十二年(一四四〇)には、石川持光をはじめ、畠山・石橋氏などの奥州武士に攻撃されて、殺されてしまった。 (中略) この結果、両公方庇護者方という〔大義名分〕を失った石川氏は、有力国人白川氏の勢力とまともに対抗せざるを得ない状況に追いこまれることになった。 その結果が、前記したように、石川蒲田氏の没落や、赤坂氏以下の服従となって、石川氏の頽勢をますます深刻なものにすることとなった。 十五世紀半ばに登場した白川直朝は、卓抜した政治手腕によって、北関東の宇都宮・那須・佐竹などの諸氏に影響力を及ぼし、伊達氏を除く福島県内の武士のほとんどが、白川氏の配下に入った、といわれるほどの大勢力を築き上げた。 北関東から南奥にまたがる有力国人に成長したのである。 それは、一族内での分裂・抗争が深刻になったこと、とくに有力な庶家である小峯氏と白川氏の間に内紛があって、一瞬にして家運が傾いてしまった。 周辺の諸氏は、これに乗じて、同氏の所領を蚕食しはじめる。 会津を本拠とする芦名氏は、会津守護を自称するほどに、この地方に勢力を張った。 〔1540年〕伊達氏天文の乱に乗じて、仙道地方にも進出し、安積・岩瀬郡方面を支配するに至った。 須賀川の二階堂氏、二本松の畠山氏や白川氏らがその影響下におかれることになったのである。 石川氏も、その領域の西端の地区で、芦名氏と接触することになった。 」(『角田市史』) 岩城氏の侵攻 「浜通り地方、東海道の岩城氏も勢力を拡げていた。 室町時代初期の応永十七年(一四一〇)二月には、前記した仙道一揆とは別の、相馬・標葉 しねは ・楢葉などの海道の有力豪族による五郡一揆が結成された。 岩城氏はその盟主ともいえる立場で参加している。 石川郡にも勢力をのばしたことは確実で、天文十年(一五四一)六月には、竹貫広光・同隆光の二人が連名で、岩城重隆と白川氏が疎遠になるような時には、白川氏のために働く、という意味の起請文(遠藤白川文書)を白川氏に出している。 」(『角田市史』) 既述のごとく、「竹貫隆光・広光父子」は「石川一族で、竹貫(東白河〔石川〕郡古殿町)を本拠とする。 竹貫氏は、この天文十[1541]年をあまりさかのぼらぬころに石川氏を離れて岩城氏の麾下になったものと思われ、竹貫の地は岩城領となっていた」(『いわき市史』)のであった。 「『福島県史』は、この史料から、竹貫氏が岩城重隆の重臣だったのではないかと推定している。 竹貫という字、広光・隆光という諱からみても、これは石川一族だった竹貫氏と考えなければならない。 そうすると、岩城氏の勢力が、かつての石川領の東半分ぐらいに浸透しており、石川一族の中にもその家臣になっているものがあったことになる。 」(『角田市史』 佐竹氏の脅威 「このように、白川氏の衰退とともに、石川庄の周辺には、有力豪族の諸家が相ついで進出し、石川氏はその圧力の前にさらされる状況となった。 これらのほかにも南方の常陸からは、佐竹氏が進出しはじめ、永禄三年(一五六〇)には、石川庄の南方の、高野郡南郷を占拠して石川氏の領域と境を接することになった。 佐竹氏はこの後、白川氏の内紛に乗じて、白川領を完全に掌中に収め、芦名氏の勢力と対峙するようになった。 石川氏は、この二大勢力にはさまれて、揺れ動くことになる。 」(『角田市史』) 田村氏の侵略 「脅威はそれだけではなかった。 戦国時代の段階で、石川氏にとって、もっとも警戒しなければならなかったのは、田村氏の動向であった。 天文十三年(一五四四)七月には、田村家臣の常葉光貞と大越顕光が連署して、石川稙光父子と田村隆顕父子の和解に努力することを誓った起請文を書いている(角田石川文書)。 『福島県史』は、常葉・大越の両者はもと、石川稙光に属しており、田村隆顕と合戦した後、敗れてこの起請をしたのだとしている。 さらにその後の永禄八年(一五六五)にも、田村隆顕は、石川晴光を攻め、撃退されている。 前記した大越顕光は、諱からしても、石川一族だった可能性が強い。 」(『角田市史』) 大越顕光が石川一族だったという上記の所説は、のちに述べるように、明らかまちがいであるが、もちろんこの顕光は、明治時代に澤田氏に嫁いだまつゑの祖先である。 大越氏と石川・澤田一族は、すでに当時から、浅からぬ因縁にあったのである。 また、既述のごとく、「仙道〔山道〕の石川同流」である「四本松石川氏」は、石川宗家を離れて自立していたが、「去れども〔四本松〕石川は微力、(中略)田村の助力を借る為に旗下と成」(『奥相茶話記』)った。 「石川氏の側からみると、一族のものまで田村家臣に繰りこまれる状況になっていたのである。 」(『角田市史』) 澤田氏の東遷と猪狩・岩城氏臣従 「このように、戦国時代になると、石川氏は、その領土の周辺を、有力大名に取り囲まれることになり、一族もそれぞれに他氏に臣従するという、分裂的状況になった。 そういう中で、保身の道を模索する必要に迫られたのである。 中小大名である石川氏にとって、周囲の諸勢力の政治的状況を敏感に見抜いて、その流れに逆らわないで、多方面外交を展開していく以外になかった。 」(『角田市史』) ご多聞に洩れず、澤田氏もまた、ついに石川荘澤田郷の故地を去り、東遷して楢葉郡に至って猪狩氏に仕え、かくては岩城氏の陪臣となった。 その時期を判断する史料はない。 しかし、石川氏をめぐる上述の諸情勢を按ずるに、白河結城氏の最盛期すなわち「文明年間(十五世紀七十~八十年代)の直朝・政朝父子の時代」が終わった15世紀後半から、竹貫氏が「石川氏を離れて岩城氏の麾下になった」「天文十[1541]年をあまりさかのぼらぬころ」、16世紀前半にかけての動乱の時期の間、すなわち15・16世紀の交1500年前後、後述する岩城下総守常隆/猪狩忠満・大和守の代ごろに、その時期を比定することができよう。 13世紀に発生した「源姓石川澤田氏」は、宗家「清和源氏石川氏」とともに動乱の3世紀をくぐり抜けてきた。 しかし、いまやまさに、その重代の宗家と袂をわかち、父祖伝来の「澤田」の故地をも後にして、新天地をめざして東方へと旅立ったのである。 第八節 それからの石川氏/角田石川氏 石川之儀者在城一ヶ所迄に候 「永禄十年(一五六七)十一月、〔蘆名〕盛氏は赤館左衛門に石川郡沢井(石川町)を起請文によって安堵しているが、これによると、沢井の地を佐竹氏が占領し、これを白川氏が望んでいること、また盛氏が石川地方に強い権利を行使していたことが明らかである。 」(『福島県史』)既述のごとく、「沢井」は澤田館の所在地、澤田氏ゆかりの地である。 「元亀二年(一五七一)七~八月の交には、佐竹義重が石川一族の中畠氏(西白川郡矢吹町)を攻め、蘆名盛氏父子・田村清顕がこれを迎撃した。 同じころの三月、義重が石川領の大寺(玉川村須釜)に向って出馬したのに対して、清顕がその備えを指示した書状も現存する。 石川領の実権はすでに蘆名・田村両氏に握られているとみられる。 (中略) このころになると、石川郡南部は佐竹氏に、東〔西〕部および北部など大部分は蘆名氏の領有となってしまったらしい。 天正六年(一五七八)正月、蘆名盛氏は越後の新発田長敦あての書状のなかで、『石川之儀者は 在城一ヶ所迄に候。 其外、残り無く手の裏うちに入り候。 』と述べている(浜崎文書『会津若松史』)。 」(『福島県史』) 石川昭光・反伊達南奥連合 「こういう中で、石川晴光は、伊達晴宗の息、昭光を入嗣させた。 『石川一千年史』によれば、永禄六年(一五六三)のことである。 これは、伊達氏の威光を背景にして、佐竹・芦名などの強豪に対抗しようとしたものだったろう。 天正年間〔1573~91〕に入ると、石川庄の南部は佐竹氏、北部・西部は田村氏・芦名氏に占領される状況となる。 こうした関係を通じて、芦名・佐竹・白川・二階堂ら諸氏の結合が強まり、南奥の連合勢力の形成が進められる。 この連合に対立したのが、伊達・田村氏である。 石川昭光自身は伊達氏の血を引きながら、夫人が佐竹氏の女(『一千年史』は晴光女子)であったこともあり、反伊達連合への従属を深める以外に途がない状況に追いこまれていったのである。 中小大名石川氏の悲劇というほかはない。 」(『角田市史』) 伊達陣営への帰属 「天正十二年(一五八四)十月、伊達政宗が十八才で伊達氏の主となると、南奥の戦機は急速に昂まり、戦国時代の大詰めへ、事態は急速に動き出した。 (中略)その中で、石川氏は、ほぼ一貫して、反伊達陣営に属して戦っている。 」(『角田市史』) 「石川氏が伊達陣営に接近をはじめるのは、天正十六[1588]年春のことで、『伊達治家記録』によると、閏五月のころから、合戦についての情報が、石川氏から提供されるようになった。 そして郡山城攻防戦の結果、石川昭光と岩城常隆の和睦斡旋によって、講和が成立している。 これ以後、しばしば石川氏よりの使者の来訪が記されているから、次第に関係が深まったのであろう。 しかし、正式に石川昭光が伊達陣営への帰属を決定するのは、翌天正十七[1589]年十一月のことで、政宗と昭光の間で誓詞を交換して、石川氏の服属が決まった。 この後、昭光は須賀川の地を与えられている。 また、佐竹氏に服属していた浅川氏も、同年の暮、政宗に降伏し、翌十八[1590]年正月には、石川氏との和解が成って、以前のように石川氏の家臣に復帰することになった。 」(『角田市史』 石川氏の没落 「そういう中で、天正十八年(一五九〇)三月、豊臣秀吉による小田原攻めがはじまり、奥羽の諸大名に対しても、小田原への参陣が命令されるに至った、伊達政宗はここで参陣を決断し、近世大名として生き残ることができた。 石川氏はそうしなかったために、領地を没収され、石川荘は蒲生氏郷に与えられた。 『治家記録』には、昭光も小田原に参陣して、遅参を謝罪しようとしたが、政宗にその必要はないと慰留されたので、政宗に太刀や馬を託して謝罪の取りなしを依頼したという。 その甘い目論見は失敗して、所領を失ってしまったのである。 これについては、いろいろな見方ができようが、要は石川氏自身も伊達陣営に帰属して以来、独立大名としての自立性を失ってしまい、機敏に対応すべき時に、その決断をすることができない状態になっていたということにある。 こうして石川氏の中世史は終りを告げた。 」(『角田市史』) 仙台藩一門首席角田石川氏 その後、「昭光は政宗の家臣となり、その子孫は伊達一門の首席〔角田石川氏二万千三百余石〕に列した(県史・石川町史)。 」(『角川日本地名大辞典』) 「〔天正〕十九[1591]年政宗公志田郡松山館及采地六百貫文〔6000石〕ヲ授ク。 慶長三[1598]年伊具郡角田館ニ移ル時、采地二百貫文〔2000石〕ヲ増賜ス。 是ヨリ先文禄年中、二百貫文〔2000石〕ヲ増賜ス。 通ジテ千貫文〔1万石〕ヲ領ス。 八[1603]年家ヲ嫡嗣遠江義宗ニ授ケテ隠居ス。 柴田郡村田館及び采地三貫文〔30石〕ヲ賜ヒ、隠居ノ食邑ト爲ス。 十五[1610]年十一月晦、義宗歿シ、其嫡嗣宗敬家ヲ継グ。 宗敬幼ナルヲ以テ昭光還リテ角田ニ住シ、再ビ家事ヲ治ム。 元和元[1615]年五月六日、政宗公ニ從ヒテ、大阪〔冬の陣〕道明寺口ニ戦ヒ、首五級ヲ獲。 八[1621]年七月十日卒。 年七十三。 法名、廣岩明額。 角田長泉寺ニ葬ル。 」(「伊達家系譜」『仙台人名大辞書』) のちに、既述のごとく、「角田石川氏」七代村満は「源太郎」と号し、十二代宗光は「右源太」、十三代駿河は「左源太」と号した(『仙台人名大辞書』)。 「その後代々角田要害主として幕末には二万千三百余石を領した。 」(『宮城縣史』.

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