アポロ 11 号。 陰謀論「アポロ11号は月には行ってない」を中学生があっさり論破

人類が月に「もう1度行けない」理由 アポロ計画とは

アポロ 11 号

月面でポーズをとる。 顔面を覆うバイザーに、写真を撮影したが映っている。 写真はより。 月面着陸(げつめんちゃくりく、: Moon landing)は、のであるへの着陸をいう。 英語では他に、 lunar landing とも。 人類史上初の月面着陸は、の計画における船長と操縦士によるものだった。 、操縦士が上の司令船コロンビアで待機する中、2人の乗り込んだ月着陸船イーグルは司令船から切り離され、1969年午後4時17分()、月面に着陸し21時間30分滞在した。 米国が着陸計画を終了した1972年12月までに月に到達したのは合計12人、いずれも米国宇宙飛行士である。 本項では主に、成功へと至った月面着陸について取り上げる。 計画 [ ] 無人月探査計画 [ ] のは以下の進展をみせた。 に打ち上げられた(E-1)は、月の近隣を通過した史上初の月探査機となった。 は月面に達した。 にはがの写真撮影に成功した。 に連邦の打ち上げたが初の月面「軟着陸」を成し遂た。 にはを月の衛星とすることに成功した。 これに対しアメリカ合衆国は、月へ無人を送るを打ち出す。 しかしながら、異なった3機の探査機発射ロケットに付随した3種のデザインによる惑星探査機は10回の試み全てが失敗に終わった。 続くは、ロボットを用いて有人月面着陸に向けた月面への安全な着陸を研究するアメリカ合衆国の取り組みの一部である。 この計画で5基の探査機による7つの作戦が成功し、の宇宙飛行士達が降り立つに最も好ましい地点を探り当てる一助となった。 その後にが有人による月軌道調査を実行し、月面に人類を上陸させる土台を築いた。 アメリカの戦略 [ ] によって撮影された月 アメリカ合衆国のは、アメリカ合衆国第34代大統領政権下より開始された。 週刊誌コリアーズの半ばに連載された記事は、が月面におけるを建設するための、有人宇宙探査隊の概念を社会に広めたと報じられていた。 ところが有人月面着陸の思想は、アメリカとソビエトの間で技術的挑戦への挫折を引き起こした。 加えて、奪格的な過熱状態を伴わないの方法など、技術指導や重量処理は大きなハードルであった。 ソビエト連邦がを打ち上げた後、フォン・ブラウンはアメリカ軍部へ、までに月面在外基地を創設する計画を提案した。 しかし、合衆国が科学的・軍事的価値の可能性から見て、そうした軍事行動への出費を正当化することが極めて困難と考えたため、フォン・ブラウンの提案は進展しなかった。 を筆頭とするソビエトの世界初の有人宇宙飛行が成功を収めた後、は、国民の心像を掴むような宇宙計画を模索していた。 彼は後に副大統領を務めることとなるへ、アメリカが世界の指導者であることを証明できる科学的な奮励を勧告するよう求めた。 こうしてケネディらが練った計画案には、政治目的からかのを終結させる大規模な計画など、宇宙とは全く関連の無い計画も含まれていた。 そしてアメリカは、可能性のある全宇宙計画の中から、有人月面着陸の競争がソビエトを打ち負かす最良の機会になるとの判断を下した。 これは当時ソビエト連邦が、アメリカ合衆国よりも更に強力なを保有していたためである。 アメリカでは、国内における技術の発達が弾頭のさらなる縮小、軽量化へ至らしめ、結果的により小さな弾頭容量を持つロケットが開発されていた。 対照的にソビエトの保有する核兵器はかなり重厚なもので、それを運搬するために強力なロケットが発達した。 ケネディはフォン・ブラウンに、月面に着陸せず宇宙船で月の周囲を飛行するプラン、及び軌道に宇宙開発研究室を建設するプランを提案したが、このような質素な計画では開発競争においてソ連側が有利になってしまうことから、より野心的な月面有人着陸という決断が下された。 に際し、特にの本拠地があるなど多くの要所となる州では経済的利益があるとして、ジョンソンはアポロ計画を擁護した。 これは、前政権がアメリカ・ソビエト間での「」を許す結果となったというケネディの主張を後押しし(ただし、後に各報道機関によって、ソビエトの軍事配備はアメリカが想定していたよりも劣っていたことが判明した)、彼がを破って当選することに貢献した。 またジョンソンは、有人宇宙飛行を成し遂げなければ確実にソビエトに打ち負かされてしまうだろうとケネディに助言した。 その結果ケネディはアメリカにとって宇宙開発に全力を注ぐのが最も理想的であるとして、アポロ計画を推し進めた。 ケネディは資金投入を保証し、の減税から宇宙開発への出費を保護し、さらにNASAが着手していた他の事業から資金の使途を転換した。 この政策で、それまで他の科学的事業に駆り立てられていた、NASAの指導者は失望した。 その後大統領ケネディは社会全体からの支援を獲得するため、特異な声明を必要としていた。 には、ケネディが副大統領になったジョンソンに、月計画の潜在的な技術的・科学的利益を調査してほしいと求めた。 これに対してジョンソンは最先端の医療躍進や宇宙から撮られた地球の写真を引き合いに出し、利益は限られたものであるものの、NASAの科学者達と力を合わせれば強力な実例となると結論付けた。 しかし計画が進展するにあたり、社会事業へ更に資金を費やすべきだとするの政治家や、軍事費に力を入れたいの政治家達からの批判を打破する必要があった。 これに対しては、科学的な報いやソビエトによる宇宙支配の恐怖へつけこんだ持論を強調することで、ケネディとジョンソンはなんとか世論を揺り動かすことができた。 までには、58パーセントものアメリカ国民がアポロ計画を支持し、これより2年前から33パーセントも上昇していることがわかった。 ジョンソンが大統領に選出された以降も、ケネディがもとより望んでいたように、計画への支援継続が行われの成功へ結びついたのである。 ソ連の戦略 [ ] 詳細は「」を参照 そのころ、ソビエト連邦は月面着陸計画への態度を決めかねていた。 ソビエトの指導者であったは他のいかなる力によっても「敗北」することを好まなかったが、そうした多額の費用を必要とする計画もまた望んでいなかった。 、彼はソビエト連邦が「による宇宙航行は現在は計画していない」と述べた上で、競争から落後したわけではないという主張を付け加えた。 同時期に、ケネディがソビエトとアメリカ双方の宇宙飛行士で月面着陸を行い、より良きの開発を行うとする種々の共同計画を打診していた。 フルシチョフは、この試みでケネディがソビエトの宇宙開発技術を盗もうとする意図があると疑義を抱き、提案を退けた。 の主任デザイナーであったは、宇宙飛行士を搭乗させて月面着陸を行うことができる、宇宙船と発射ロケット開発計画の推進を始めた。 フルシチョフはにの月・地球間有人飛行へ向けて2つの指示、現存するの技術の修正と、発射台と宇宙船の建設に着工とを指示した。 、新たなソビエトの指導者がコロリョフの月面着陸計画への奮闘を後押しし、全有人宇宙飛行計画を彼の指示の元で実行するよう命じた。 しかしコロリョフの死やに行われたと共に、ソビエト連邦による有人月面着陸計画は破綻をきたすこととなった。 ソビエトは月着陸船を建造し、らを含むを選定したが、にの発射が失敗に終わり、月着陸計画は遅延に苦しんだ挙句キャンセルとなった。 アポロ11号の初着陸 [ ] アメリカの探査機より以前にソビエトの無人惑星探査機が月に達していた間、アメリカ人宇宙飛行士ニール・アームストロングが、の有人月着陸船イーグル着陸の後、月の表面を歩いた史上初の人物となった。 アームストロングは宇宙司令船パイロットのマイケル・コリンズと、月着陸船パイロットのエドウィン・オルドリンからの後援を受けたアポロ11号計画の司令官及び船長であった。 この人類初の月面着陸という歴史的な瞬間は、全世界5億人を超える人々がテレビなどのメディアを通して視聴したという。 時事問題を扱うコメンテーターからは、この出来事がにおいて最も鮮明な瞬間の一つであると広く理解され、またアームストロングが月面へ足を踏み出した際に最初に発した、 「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind)」 という名言もまた同様に記憶に残るものである。 着陸全体の実際の手記などはウェブサイト、も参照されたい。 宇宙飛行士達はその後月面にを立て、それに敬礼するエドウィン・オルドリンは写真に収められた。 アームストロングが最初に降り立つ人物になることは、当初の計画から既に重要なものだったはずと人々に信じられているが、実は原案では月着陸船のパイロットであるオルドリンが最初に降り立つよう計画されていた。 また、印字した金属板が、未だ月面に残る月着陸船に取り付けられたままである。 このは、続く月面着陸へのアメリカの心象を表していた。 これには大統領による署名と共に、「Here men from the planet earth first set foot upon the Moon July 1969 AD. We came in peace for all mankind(西暦1969年7月、我等惑星地球より来たれり。 全人類の平和を希求してここに来れり)」と刻まれている(銘板には船員であるニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、エドウィン・オルドリンの署名も入っている)。 月周回軌道から見た地球、(NASAより) 月面着陸の他の側面 [ ] 他の国際間競争とは違い、は領土拡張問題には依然として直接影響を及ぼさないままでいる。 月面への着陸に成功後、アメリカは月のいかなる部分も所有する権利を明確に放棄した。 1940年代、は 専門家 [ ]がナンセンスだとして退けた [ ] 、「人類はまでに月に到達するだろう」とする発想を、小説『宇宙への序曲』に書いている (無論、小説は小説であって予言ではないし、予言として書かれたものでもないが)。 ニール・アームストロングが着陸した、アメリカ側 [ ]はクラークを「我々を月へ導く必要不可欠な知的原動力を与えてくれた」と述べている。 、はNASAがアポロ11号計画で月面を歩いた映像を収録する、低速度走査テレビジョン用のテープ の原物を紛失したと報じた。 しかし、になってコスモス・マガジン誌は、この低速度走査テープが、西部にあるカーティン工科大学の、棟にある小さな海洋科学実験室で発見されたと報道した。 当時の原物テープのうちの一つは、分析のためNASAへ送られている。 有人月面着陸計画の一覧 [ ]• 初めて夜間に打ち上げが行われ、による探査が行われた。 ルナ・ランダー・チャレンジ [ ] 詳細は「」を参照 各国の参加者達がを送り込む。 ルネックス計画 [ ] ルネックス計画 種類 空軍の地下基地 施設情報 管理者 アメリカ 歴史 建設 1967年以降に予定 使用期間 計画中止 駐屯情報 駐屯部隊 21人 ルネックス計画とは1958年にに先がけて立案されたアメリカ空軍による有人の月面着陸の計画である。 1961年に立案された最終的な月探査の計画では1968年に総工費750万ドルで21人が滞在する空軍基地を月面の地下に建設するという計画だった。 最終的なルネックス計画とアポロ計画の最大の違いの一つは、月面着陸船は分離せずにそのまま宇宙飛行士を乗せて離陸して地球に帰還する方式であるということだった(アポロ計画の原案ではルネックス計画と類似の直接降下、上昇する方式だった)。 詳細 [ ] 関連する宇宙船 [ ] ルネックス宇宙船の模式図 ' ルネックス月着陸船• 乗員: 3• 全長: 16. 16 m 53. 01 ft• 最大径: 7. 62 m 24. 99 ft• 全幅: 7. 62 m 24. 99 ft• 重量: 61 000 kg 134 000 lb• 機関: アメリカ空軍• 製造: アメリカ空軍 着陸予定地 [ ] 無人探査機の調査結果に基づいて基地の建設予定地としてが選定された。 背景 [ ] ルネックス計画はソビエトを打ち負かし、国際的な技術競争において優位性を示すために1967年に月面着陸して戻るものだった。 空軍は月面着陸の達成は短期的だけでなく歴史的な意義を必要とすると感じた。 着陸船の直接上昇を採用することで、後にアポロ計画で使用されたいくつかの複雑なを廃したことにより、特に宇宙空間でのランデブー技術の開発が不要になった。 欠点として、これによりルネックス宇宙船は着陸して月面から月軌道へ戻るための宇宙船の燃料がアポロ宇宙船よりも大幅に増えて重くなり、その結果、月へそれらを送るためのロケットも大幅に大型化する必要があった。 予定 [ ] 3段階の予定だった。 1965年: 有人再突入機の回収• 1966年: 有人月周回飛行• 1967: 有人月着陸と帰還 1968年以降、恒久月面探査が計画された。 問題点 [ ] 主な問題点を以下に示す。 後者は直接乗員の死につながるわけではないものの、宇宙船が帰還軌道を外れた場合に再突入の機会が訪れるまでの放射線にさらされる可能性があった。 月着陸船の開発においてこれまで一度も試験されたことがない精密なロケットの噴射が必要とされた。 月着陸船の開発においてバックアップ能力を備えることができなかったので、月面や月の軌道から地球へ帰還させるために高度に自動化された高信頼性の監視装置を要した。 ホライゾン計画 [ ] 詳細は「」を参照 月面前哨基地 月面 種類 前哨基地 施設情報 管理者 アメリカ 歴史 建設 1965年1月に開始される計画だった 使用期間 計画中止 駐屯情報 駐屯部隊 12人 ホライゾン計画は月面に基地を建設する実現可能性の調査を行うものである。 1959年6月8日にへ ABMA が月の前哨基地を建設するための調査として報告書を提出した。 この計画の概要を以下に示す: "月の前哨基地は月面における合衆国の潜在的な利益を開発し、守るために必要である。 月面基地での地球と宇宙の監視技術や通信の中継や月面での運用技術を開発し、月面探査のための基地として機能し、さらに必要とあらば月面での作戦行動に備えるために月面での科学支援へ投資が必要である。 " 1966年12月の時点において12人が滞在する恒久的な前哨基地の建設と運用には60億ドルかかると予想された。 計画では147機のとで宇宙船の部材を低軌道へ打ち上げてから低軌道上で組み立てる予定であった。 基地への月着陸と帰還は最大16人の宇宙飛行士が同時に往復する予定だった。 ホライゾン計画は公式には可能性を検討する段階までは進んでいなかった。 A119計画 [ ].

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アポロ誘導コンピュータ

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Bettmann Getty Images 、ニール・アームストロング氏とバズ・オルドリン氏はアポロ11号の司令船「コロンビア」号から月着陸船「イーグル」号を切り離しました。 そしてマイケル・コリンズ氏は司令船に残ってロケットを噴射し、同僚たちから約3. 2km、地球の人類から約40万km離れた場所へと移動しました。 コリンズ氏は、同僚たちの着陸船がどんどん小さくなる様子を見ながら、「みんな、僕に話しかけ続けてくれ」と無線で呼びかけたと言います。 午後3時8分、アームストロング氏とオルドリン氏は何のためらいもなく「イーグル」号の降下エンジンを噴射し、月への着陸に備えました。 そしてコリンズ氏はたった1人、彼らがチョークのように白亜の月面に降下する様子を見ていました。 このときの彼は、絶対的かつ完全に孤独だったのです。 そして彼は、テキサス州ヒューストンにあるジョンソン宇宙センター内ミッション管制センターへ、降下の第一報を無線で伝えます…「何もかも順調で、申し分ない」と添えながら。 オルドリン氏は着陸船から写真を撮影し、自らも月面歩行を実施。 そして1時間後、2人が月面に米国旗を立てると、当時の大統領であるリチャード・ニクソンがミッション管制センターを通じて彼らに電話をかけ、「やあ、ニールとバズ。 ホワイトハウスの大統領執務室からかけています。 これは間違いなくこれまでかけられた中でも、最も歴史的な通話です。 すべてのアメリカ人にとって、今日は人生でもっとも誇るべき日となるでしょう」と話しました。 同僚たちが大統領と話していたとき、コリンズ氏は1人司令船の中に座り、月の周囲を回っていました。 この宇宙船が月の裏側を通過していた47分間、ミッション管制センターとのあらゆる無線通信は途絶えていました。 彼はかつてないほど孤独だったのです。 アームストロング氏が「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という伝説的名言を残したとき、コリンズ氏はこれを聞き逃しました。 とコリンズ氏は後に書いています。 また、このミッションログのメモには、「誰もマイケル・コリンズほどの孤独を知ることはなかった」と記されています。 その一方で、このミッションの中で、この2人と同様に重要な役割をはたしたコリンズ氏ですが、彼らと同じような注目を浴びることは避けてきました。 彼は長年にわたって、基本的にはメディアの取材依頼を断ってきたのです。 とは言え、アポロ11号が2019年7月20日に月面着陸から50周年を迎えることもあり、彼は最近ではいくつかのインタビューに登場しています。 前回の40周年記念のときにコリンズ氏は、すべてのインタビューを断ったうえで、NASAを通して声明を出しました。 彼はその中で、名声や英雄主義に取り憑かれたポップカルチャーへの不満を語っています。 「私たちがセレブリティですって? 1人の人間を語るうえで、なんて空っぽの概念なのでしょう。 友人で偉大な歴史家のダニエル・J・ブーアスティンは、この概念を『よく知られているゆえに有名人』と言い表しました。 恋愛遍歴や薬物依存、あるいは逮捕歴でさえ注目されるきっかけになるのですから…。 こんな話はさせないでください」とコリンズ氏は語っています。 Getty Images コリンズ氏の同僚のオルドリン氏とアームストロング氏は、まったく違った方法で名声に対処しました。 が、名声は彼らの人生をめちゃくちゃにもしました。 アームストロング氏に関して言えば、数十年間必死に目立たないよう過ごしました。 最終的に、アームストロング氏の結婚生活は崩壊します。 一方、注目を集めることに熱心であったオルドリン氏は、鬱病とアルコール依存症に苦しみます。 そして、1970年代だけで2度も離婚しています。 50年が経った今だからこそわかることなのでしょうが…。 そう考えるとコリンズ氏は、先見の明があったと言えるでしょう。 陸軍大将の息子として生まれたコリンズ氏は、ウェストポイントの陸軍士官学校を卒業後に米空軍に入隊しました。 その後彼は、戦闘機のパイロットとなり、宇宙プログラムに志願します。 1963年には第3期の宇宙飛行士クラスのメンバーとなりました。 コリンズ氏にとって初のミッションとなったのはジェミニ10号で、これは地球を周回する宇宙船です。 月へと向かうアポロ11号は、彼にとって2つ目のミッションだったのです。 アポロ11号までの数カ月、コリンズ氏はこのミッションの重大な危険性について、妻のパットに語ることを避けたと言います。 彼は個人的に、自分たちのと考えていました。 とは言えコリンズ氏が一番怖かったのは、自分1人だけが生き残って帰還をはたすことだったようです。 Ralph Morse 「この6カ月間、私が密かに恐れてきたのは、彼らを月に残して1人で地球に帰還することでした」とコリンズ氏。 さらに、「彼らが月面からの離陸に失敗したり墜落したりしたら、私は直ちに帰還するつもりでした。 自殺するつもりもありませんでしたし…。 ですが、その後は死ぬまで目をつけられていたことでしょうね。 そのことはわかっていました」とコリンズ氏は語ります。 2019年7月21日の午前1時過ぎ、オルドリン氏とアームストロング氏が司令船「コロンビア」号に無事戻ったときには、コリンズ氏は同僚たちとの再会に対して心より安堵し、オルドリン氏の額に思わずキスしそうになったと言います。 『タイム』誌によれば、コリンズ氏はキスしたい思いのやり場をこう語っています。 「やっぱりなしだな。 歴史書が気にいるような話じゃないだろう」と思い、やめたそうです。 が、7月20日の月面着陸を目にしました。 そして、7月24日に地球に帰還した3人は、まさに英雄のような歓迎を受けることになります。 「私たちはエンジニアであり、科学者であり、戦闘機のパイロットでしたが、映画スターかのようなもてなしを受けました。 これはほとんどのメンバーにとって手に負えないものであり、私にとっては間違いなくそうでした」と、オルドリン氏は続けて語りました。 1970年代、彼は2度の離婚を経験し、財産を失い、ついにはビバリーヒルズのキャデラック販売店で働くことを余儀なくされました。 彼はアポロ11号の1年後にNASAを退職し、シンシナティ大学の教授に就任します。 アームストロング氏の伝記作家によれば、彼は幼い娘の死後にひたすら仕事にのめり込み、結婚生活は崩壊してしまったと言います。 NASA時代の話は避け、自らの肖像の使用には慎重な姿勢をとっていたと言い、そうしてアームストロング氏は2012年、82歳で亡くなりました。 コリンズ氏は、アポロ11号の直後にNASAを辞め、。 その後、彼はスミソニアン国立航空宇宙博物館の館長に就任し、スミソニアン協会の次官へと昇進。 最終的に、自らの航空宇宙コンサルティング会社を立ち上げています。 アポロ11号からの帰還後、彼がもっとも頻繁に聞かれた質問は、「あれほど月の近くまで行ったのに、結局足を踏み入れなかったことに対し悩まされることはありませんか」というものでした。 NASA Getty Images また、「自分が3人の中で一番いい役割だったかと聞かれれば、『ノー』です。 ですが、自分に与えられた役割に満足したかと言えば、『イエス』です。 そして、フラストレーションや恨みといった感情は全くありません。 すべてのことに非常に満足しています」と、コリンズ氏は続けて話しています。 コリンズ氏はこの歴史的ミッションで、自らがはたした役割について、かなりの注目を浴びたと語ってきました。 とは言え、彼はオルドリン氏やアームストロング氏が受け止めた、有名人としての押しつぶされるような重圧には直面してこなかったようです。 コリンズ氏と妻のパットは、その後も2014年に彼女が亡くなるまで一緒に過ごし、このカップルは3人の子どもを授かっています。 このインタビューの中で、彼は今でも宇宙の話題、特に火星について熱心に語っています。 そして、「歴史を書き換えらるのであれば、人類初の火星探査隊の一員となりたいものです」と、彼は続けてコメントしてます。 とは言えコリンズ氏は、ドナルド・トランプ米大統領による火星探査計画には懐疑的な様子。 彼は2019年初めのCNNのインタビューで、「トランプ氏が火星のことを十分承知しているとは思えません。 彼は火星という惑星があることも理解していないかもしれませんから」と、冗談を交えて語っています。 2019年7月20日には、アポロ11号が月面着陸してちょうど50年となります。 ここで改めて、そのときの搭乗員である3名(ニール・アームストロング氏、バズ・オルドリン氏、マイケル・コリンズ氏)の偉大さを称えましょう。

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月面に残された星条旗は今、どうなっている?

アポロ 11 号

CSM: Columbia• LM: Eagle• 月面上: 任務開始 打ち上げ日 1969年7月16日13:32:00 UTC 1969-07-16T13:32:00Z SA-506 任務終了 回収担当 着陸日 1969年7月24日16時50分35秒 UTC 1969-7-24T16:50:35Z 着陸地点 北太平洋 軌道特性 54. 5海里 100. 9 km 66. 1海里 122. 4 km 1. 25度 2時間 元期 1969年7月19日21:44 UTC 月オービター 宇宙船搭載構成物 軌道挿入 1969年7月19日17:21:50 UTC 軌道脱出 1969年7月22日04:55:42 UTC 軌道周回数 30周 月着陸船 宇宙船搭載構成物 着陸 1969年7月20日20:18:04 UTC 帰還 1969年7月21日17:54 UTC 着陸地点 標本採集量 47. 51ポンド 21. 55 kg 船外活動回数 1回 船外活動時間 2時間31分40秒 月着陸船のドッキング(捕捉) ドッキング(捕捉)日 1969年7月16日16:56:03 UTC 分離日 1969年7月20日17:44:00 UTC 月着陸船上昇段のドッキング(捕捉) ドッキング(捕捉)日 1969年7月21日21:35:00 UTC 分離日 1969年7月21日23:41:31 UTC ミッション徽章 左から:、、 目次• 概略 [ ] アポロ11号は2人の人間を世界で最初ににさせたであった。 船長と月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=)に「イーグル」号を月に着陸させた。 アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。 二人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47. 5ポンド(21. 5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。 2人が月面にいる間、司令船操縦士はひとり月周回軌道上で「コロンビア」号を飛行させた。 アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。 アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC) ににあるから型ロケットで打ち上げられ、NASAのの5番目の有人ミッションとなった。 は次の3つの部分(モジュール)から構成される。 3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である(CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する(SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている(LM)である。 アポロ宇宙船の技術的詳細については「」を参照 アポロ11号はサターンVの第三段の推力でに乗り、宇宙船をサターンVから切り離したあと、およそ3日間かけて旅し、に入った。 アームストロングとオルドリンは月着陸船「イーグル」に移乗し、に軟着陸した。 2人は「イーグル」の上昇段を使用して月面を離陸し、司令船「コロンビア」で待つコリンズと再び合流した。 「イーグル」を投棄したあと、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、エンジンを噴射して月軌道を離脱した。 3人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に ()した。 アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。 アームストロングはこの出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた。 アポロ11号は実質的にを終わらせ、1961年に故が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標を見事に達成した。 背景 [ ] 1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ合衆国(米国)は地政学的な競争相手の(ソ連)との最中にあった。 1957年10月4日、ソ連は世界初のとなるを打ち上げた。 この出し抜けの打ち上げ成功でソ連は世界中を驚かせ、人々の不安を煽り、想像力をかき立てた。 ソ連には大陸間の距離を越えて核兵器を打ち込める能力があることを証明して見せ、米国の主張する軍事・経済・技術的優位を試したのである。 これにより、突如としてが起こり、の端緒が開かれた。 ソ連によるスプートニクの挑戦に対して、米国の大統領は(NASA)を創設し、人をに乗せることを目指す に着手した。 しかし、1961年4月12日にソ連の(宇宙飛行士)、が世界で最初に宇宙を飛行し、初めて軌道上で地球を周回した人物となった ことにより、スプートニク・ショックで傷ついたアメリカ人の自尊心に追い打ちをかける形となった。 ソ連に遅れることおよそ1か月、1961年5月5日にが約15分間のの旅を成し遂げ、初めて宇宙を飛行したアメリカ人となった。 シェパードは大西洋から回収されたあと、アイゼンハワーの後任の大統領から祝いの電話を受けた。 ケネディは、他国に優越せんとすることは合衆国の国民的関心の中にあって、米国の国力に対する認識は少なくとも現実(の国力)と同程度に重要であると信じていた。 それゆえに、宇宙探査の分野においてソ連が(米国よりも)先進的であることは耐えがたいことであった。 ケネディは、合衆国は競争しなければならないと固く決心し、勝機を最大化する試練を探し求めた。 当時、ソ連は米国よりも優れたを有していたため、ケネディは米国がソ連と対等の立場で競争を始められるよう、既存世代のロケットの最大出力を超える試練を要求した。 たとえそれが軍事上、経済上、科学上の理由で妥当なものとして認められなかったとしても、壮大な見世物であった。 ケネディは自身の顧問と専門家に相談した結果、そのような事業計画を選択した。 1961年5月25日、ケネディは "Urgent National Needs" (至急の国家的要請)に関してで次のように演説した。 私は、このが終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成することに我が国民が真剣に取り組むべきであると信ずるものであります。 これ以上人類に強い印象を与える宇宙事業計画はこの時代にただのひとつも存在せず、それが長期に及ぶ宇宙の探査のために重要であることもまたとないことでしょう。 そして、完遂するためにこれほど困難をともない、費用のかかるプロジェクトもそうないことでしょう。 我々はしかるべき月宇宙船の開発を加速するつもりです。 我々は、これまでに開発されたいずれのものよりもはるかに大型で、それらの代わりとなる液体および固体の燃料ブースターを一定の優れた成果が得られるまで開発するつもりです。 我々は、その他のエンジン開発および無人探査、我が国民が決して見落とすことのないことには、この大胆な宇宙飛行を最初に行う者が生還すること、そのひとつの目的のために特に重要である探査に充てる追加的な基金を提案します。 しかし、本当の意味で、ただ一人の人間が月に行くのではありません。 我々がこの判断を肯定すれば、全国民が月に行ったも同然です。 と申しますのも、彼を月に送り込むには我々皆が働かなければならないからです。 — 第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ、1961年5月25日、上下両院合同会議における演説より 人間を月に着陸させるための取り組みには、すでに(Project Apollo)という名前がつけられていた。 ()方式と ()の両方にかかわるは、早期にあったきわめて重大な決定事項であった。 宇宙空間におけるとは、2機の宇宙船が宇宙空間を航行して落ち合うのことである。 1962年7月11日、NASA長官のジェームズ・ウェッブは月軌道ランデブー方式を用いることに決定したと発表した。 その結果、はるかに小さいロケット と3つのモジュールから成るとでアポロ計画は進められることになった。 この方法を選択したことは、アポロ宇宙船が(当時開発中だった)型ロケットで打ち上げられるであろうことを意味した。 アポロ計画に要求される技術および技巧はで開発されたものである。 アポロ計画は、1967年1月27日にが火災事故に遭い、3名の宇宙飛行士が亡くなったことと、それに関する調査のため、不意に中断された。 1968年10月にが地球周回軌道上で司令船の評価を行い 、同年12月にがそれを月周回軌道上で試験した。 1969年3月にが地球軌道上で月着陸船の調子を試し 、同年5月にが月軌道上で予行演習を実施した。 こうして1969年7月までに、アポロ11号が月面に到達する最終段階までに必要な準備がすべて整った。 ソ連は米国と宇宙開発競争を繰り広げたが、米国のサターンVに匹敵するロケットの開発の度重なる失敗によって初期の優位は失われていた。 それでもソ連は米国に打ち勝とうとしてを飛ばし、月物質を地球に持ち帰ること()を試みた。 アポロ11号の打ち上げの3日前にあたる7月13日、ソ連はを打ち上げ、アポロ11号よりも先に月軌道に到達させた。 しかし、月面へ降下する間に探査機が機能不全に陥り、に激突した。 そのときの衝撃はアポロ11号が月面に設置した地震計に詳細に記録された。 アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につくおよそ2時間前のことであった。 イングランドにあるの電波望遠鏡が月へ降下中のルナ15号から伝送された信号を記録しており、それらはアポロ11号の40周年記念にあたる2009年7月に公表された。 人員 [ ] 正規搭乗員 [ ] 宇宙飛行士 船長 最後にして2回目の宇宙飛行 司令船操縦士 最後にして2回目の宇宙飛行 月着陸船操縦士 最後にして2回目の宇宙飛行 当初は、船長にを、司令船操縦士(CMP)にを、月着陸船操縦士(LMP)にを、それぞれアポロ9号の予備搭乗員として割り当てることが1967年11月20日に公式に発表された。 ラヴェルとオルドリンは以前、の搭乗員として一緒に飛行したことがあった。 月着陸船(LM)の設計と製造に遅れが生じたため、アポロ8号とアポロ9号は正規搭乗員および予備搭乗員が交代させられ、アームストロング船長以下の搭乗員はアポロ8号の予備搭乗員になった。 通常の搭乗員ローテーション計画に基づけば、アームストロングは当時アポロ11号の船長になるものと予想されていた。 ところが、うち1人が変更されることになった。 アポロ8号に正規搭乗員として乗り組む予定だったが両脚に故障を抱え始めたためである。 医師からはに問題があると診断され、外科手術を要するほどの容態であった。 そのため、ラヴェルがコリンズに代わってアポロ8号の搭乗員になり、コリンズは故障から回復すると司令船操縦士としてアームストロング船長以下の搭乗員に加わった。 その間、が月着陸船操縦士として、オルドリンが司令船操縦士として、それぞれアポロ8号の予備搭乗員を務めた。 搭乗員全員が先に宇宙飛行を経験したことのあるベテラン飛行士で編成されたのは、アメリカの宇宙開発史上、に次いで これが2度目のことだった。 以後、全員がベテラン飛行士で編成される3度目の機会は1988年のまで訪れることはなかった。 一部では、オルドリンはともに働くことに難があると思われていたため、飛行乗組員の運用責任者だったはアームストロングにオルドリンをラヴェルと交代させる選択肢を用意した。 アームストロングはオルドリンと働くことに何も問題を抱えていなかったが、与えられた選択肢について日が暮れるまで熟考した。 アームストロングが考えたところでは、ラヴェルは船長として彼独自のミッションを指揮してもらうのが当然であるとの結論に至った(結局、ラヴェルはの船長を務めた)。 アポロ11号の正規搭乗員は、の搭乗員に特徴的にみられたような、親密で積極的な仲間意識を持っていなかった。 代わりに、気立てのいい仕事上の関係を築いた。 とりわけアームストロングは周知のごとくよそよそしかったが、コリンズも自身を孤独が好きだと思っており、もっと個人的な関係を創出しようとしてきたオルドリンをはねつけていたことを告白した。 オルドリンとコリンズはアポロ11号の乗組員について「親しげなよそ者たち("amiable strangers") 」だったと記している。 ただし、アームストロングはこの人物評価に同意せず、「私が接した乗組員は皆一緒にとてもよく働いた」と述べた。 予備搭乗員 [ ] 宇宙飛行士 船長 司令船操縦士 月着陸船操縦士 予備搭乗員の構成は、ラヴェルが船長、アンダースが司令船操縦士、ヘイズが月着陸船操縦士だった。 このうち、アンダースとラヴェルはアポロ8号で一緒に飛行したことがあった。 ところが、1969年前半にアンダースは同年8月に実施される ()との仕事を引き受け、その日をもって宇宙飛行士を引退することを発表した。 その時点で、万が一アポロ11号が予定されていた7月の打ち上げより遅れてアンダースを任用できなくなった場合に備えて、 ()を地上支援員から異動させ、予備の司令船操縦士としてアンダースと並行して訓練を受けさせることにした。 ラヴェル、ヘイズ、マッティングリーの3名は、のちにの正規搭乗員として配属されることになった。 地上支援員 [ ] マーキュリー計画とジェミニ計画の頃は、各ミッションに正規搭乗員と予備搭乗員の2つの枠があったが、アポロ計画では地上支援員(support crew)として知られる3つ目の枠が追加された。 地上支援員は飛行計画、チェックリスト、ミッションごとのグランドルール(行動規範)を維持し、何かしらの変更があったときにそれを正規搭乗員および予備搭乗員に確実に知らせる任務を担っていた。 また、正規搭乗員と予備搭乗員がシミュレータ内に訓練に来たときに練習して習得することに集中できるよう、特に緊急事態用の手順も開発した。 アポロ11号では、、、が地上支援員を構成していた。 宇宙船通信担当官 [ ] アポロ11号の徽章 アポロ11号の ()はコリンズが「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴することを願ってデザインした。 ラヴェルの提案で、コリンズはアメリカ合衆国のであるを象徴に選んだ。 シミュレータ・インストラクターのトム・ウィルソンは、彼らの平和的な任務を表す ()を配置してはどうかと提案した。 そこで、くちばしに平和の象徴であるオリーブの枝をくわえたワシが描かれた。 また、コリンズは遠くに地球を望みつつ月を背景に加えた。 この図案の中の日光は差してくる方向が正しくなく、地球の影は左ではなくもっと下の方に描かれるべきだった。 アームストロング、オルドリン、コリンズは、ワシと月を自然のままの色で彩り、円周を青色と金色で縁取ることに決めた。 アームストロングが "eleven" 表記では非英語話者に理解されにくいのではないかと懸念したので、 "Apollo 11" とアラビア数字表記になった。 のイラストレーターが図案を作品に仕上げ、それからNASAの役人たちに承認を求めるために送付された。 ところが、その図案は却下された。 有人宇宙船センター長の ()は、このワシの鉤爪が「あまりに好戦的すぎる」と感じたのであった。 いくらかの議論があったあと、オリーブの枝をくちばしから足の爪に移すことで巧みに爪を隠すことにした。 1971年にが発行されたときには、硬貨の裏面にこの図案のワシが使用された。 アポロ11号のミッションから10年後にあたる1979年に発行された小さなにも、この徽章の図案が使用された。 コールサイン [ ] アポロ10号の搭乗員が自分たちの搭乗するアポロ宇宙船を「 (Charlie Brown)」および「 (Snoopy)」と名付けたこと があって、広報担当の ()は、当時でアポロ計画室の室長を務めていた ()に、アポロ11号の搭乗員が自分たちのアポロ宇宙船を命名する際はもう少し真面目な名前をつけるようにしてはもらえないだろうかと提案した。 NASAの計画の初期段階において、アポロ11号の司令船は「スノーコーン (Snowcone)」(「かき氷」の意)、同じく月着陸船は「ヘイスタック (Haystack)」(「干し草積み」の意)という名で呼ばれており、内外の伝達で使用されていた。 アポロ11号の月着陸船はミッション徽章で中心的な役割を演じたモチーフにちなんで「イーグル (Eagle)」(「」の意)と命名された。 シアーの提案で、司令船は「コロンビア (Columbia)」と命名された。 その由来はの1865年発表の小説『』に登場する、(アポロ同様フロリダから)宇宙船を発射するための巨大な大砲「」で、アメリカ合衆国を象徴的に擬人化した伝統的な女性名「」にもちなんでいる。 また、コリンズは1976年に出版した自著の中で、「コロンビア」はに関連していたと述べている。 記念品 [ ] アポロ11号と共に宇宙を飛行した銀の () アポロ11号の宇宙飛行士は、個人趣向キット(Personal Preference Kits、PPK:ミッションに持っていきたい個人的に意義深い記念の品々)を入れた小さな袋を所持していた。 重さにして0. 5ポンド(0. 23キログラム)の5つの個人的な記念品(PPK) がアポロ11号に持ち込まれた。 ニール・アームストロングが月着陸船に持ち込んだのは、が初めて空を飛んだ1903年のの左のプロペラから取った木片と、その翼から取った布切れ 、そして当初がアポロ1号の搭乗員の配偶者たちからもらった、ダイヤモンドが散りばめられた ()だった。 この階級章はアポロ1号で飛行し、ミッション後にスレイトンに与えられるはずだったが、発射台での悲惨な火災事故とあとに続いた葬儀を受けて、配偶者たちがスレイトンに渡したもので、アームストロングはそれを持ってアポロ11号に乗船した。 着陸候補地の選定 [ ] アポロ11号が着陸できる見込みのある地点を示した月面図。 地点2が選ばれた。 NASAのアポロ着陸候補地選定委員会(Apollo Site Selection Board、ASSB)は1968年2月8日、5つの有力な着陸候補地を発表した。 それらはの5機の無人探査機が撮影した月面の高解像度写真、ならびにで得られた月の表面の状態に関する情報に基づき、2年間かけて行われた価値ある調査の結果であった。 地上に設置されたどんなに優れた望遠鏡でも、アポロ計画に要求される解像度で月面の特徴を解像することはできなかった。 宇宙船が消費する推進剤の量を最小限に抑えることが要求されたため、着陸地点は月の赤道に近い場所でなければならなかった。 さらに、機動的な飛行を最小限度に留めるために障害物のない開けた場所であることが求められ、着陸用レーダーのタスクを簡素化するために平坦であることが同時に求められた。 科学的な価値は考慮に入れられなかった。 地球上で撮影された写真から有望そうに思えた領域は、そのほとんどがまったく許容できない場所であることがわかった。 当初の要件はクレーターのない緩やかな場所だったが、そのような場所はひとつも見つからなかった。 結局、5つの地点が候補地として検討された。 地点1と地点2はに、地点3はに、地点4と地点5はにあった。 最終候補地の選定は以下の7つの基準に基づいて行われた。 比較的にクレーターの少ない、滑らかな場所であること。 進入路について、広い丘、高い崖または深いクレーターが原因となって、着陸用レーダーを混乱させ、計器の数値を読み誤らせるおそれのないこと。 最小限の量の推進剤で到達可能であること。 打ち上げ時の秒読みの遅れを許容できること。 自由帰還軌道(月に向かう進路上で問題が発生したとしても、エンジンの噴射を一切することなく、そのまま月の周囲に沿って惰性飛行して安全に地球に帰還する軌道)を取れること。 着陸進入時に良好な視界を保てること。 つまり、太陽が常に月着陸船の後方7度から20度の間の方向にあること。 着陸する領域において一般斜面が2度未満の傾斜であること。 このうち太陽の角度に関する要件は特に制限的で、これによって打ち上げ日は1か月につき1日にまで制限されることとなった。 宇宙飛行士が体験することになる温度の極値を制限するため、夜明けの直後に着陸することになった。 ASSBは地点2を着陸予定地点に選出し、地点3と地点5は打ち上げ日が遅れた場合の予備の地点に選ばれた。 1969年5月、アポロ10号の月着陸船は地点2から15キロ以内を飛行し、地点2は着陸予定地として容認できると報告した。 最初の一歩の決定 [ ] アポロ11号の搭乗員が発表されたあとの最初の記者会見で、記者から尋ねられた最初の質問が「あなた方の中で最初に月面に足を踏み出すのはどなたでしょうか?」であった。 スレイトンは記者に「それはまだ決まっていない」と答え、アームストロングは「個々人の願望に基づいて決めることはない」と付け加えた。 退出チェックリストの初期の版のひとつでは、月着陸船操縦士は司令船操縦士よりも先に船を降りることになっており、以前のミッションで行われてきたことと一致していた。 船長は一度も宇宙遊泳をしないことになっていた。 記者たちは1969年の前半、最初に月面を歩行するのはオルドリンになりそうだと書いたが、 ()副長官は記者に彼(船長)もまた最初(の1人)になるだろうと伝えた。 当のオルドリンは、文民であるという理由でアームストロングが最初に月面を踏むだろうと聞いて激怒した。 オルドリンはほかの月着陸船操縦士らに自分こそが最初の1人になるべきだと説得を試みたが、ロビー活動のようなものだと感づいた彼らは皮肉っぽく応じた。 部局間の対立を止めようとして、スレイトンはオルドリンにアームストロングが船長なのだから最初の一人は彼になるだろうと伝えた。 1969年4月14日の記者会見で、その決定が発表された。 オルドリンは何十年間も、この最終決定は大方、月着陸船のハッチの位置で決まったものだと信じていた。 なぜならば、宇宙飛行士は宇宙服を着ており宇宙船の中はとても狭いため、宇宙船からうまく脱出することは難しかったからである。 搭乗員の受けた模擬演習ではオルドリンが最初に宇宙船を出ていたのだが、オルドリンは脱出を試みる際に演習設備を壊してしまった。 この出来事は、ミッション計画立案者が決断を下すのに十分な事由であった。 オルドリンとアームストロングは春の終わりごろまでこの決定に関して知らされずにいた。 スレイトンは、「彼が同意すれば、君に最初に宇宙船を降りてもらう計画だ」とアームストロングに伝え、アームストロングは「ええ、それがいい方法です」と答えた。 メディアは、船長の特権を利用して最初に宇宙船を降りる役を射止めたとしてアームストロングを非難した。 ()が2001年に出した自叙伝の中で明かしたところでは、ギルルース、スレイトン、ロウおよびクラフトの四者間で協議を行い、オルドリンが最初に月面を歩くことにはならないことを確認したという。 彼らは、最初に月面を歩く人物はのように冷静沈着な人物であるべきだと主張した。 そして、飛行計画を変更する決定が下され、船長であるアームストロングが最初に宇宙船から月面に降り立つこととなった。 発射準備 [ ] からへと搬出される、宇宙船アポロ11号を搭載したサターンV型ロケット SA-506 月着陸船LM-5の上昇段は1969年1月8日にに到着し、その4日後には下降段が、1月23日には司令・機械船CM-107がそれぞれ到着した。 LM-5とアポロ10号のLM-4との間にはいくつかの違いがあった。 LM-5には月面で船外活動中に宇宙飛行士との通信を円滑に行うためのVHF無線アンテナ、軽量化された上昇用エンジン、熱防護が強化された着陸装置、 ()(Early Apollo Scientific Experiments Package、EASEP)として知られる科学実験装置一式が備えられていた。 司令船の構成で唯一変更されたのは、前面ハッチからいくつか断熱材が取り除かれた点であった。 司令船と機械船は1月29日に連結され、4月14日に ()からに移された。 サターンV AS-506の第三段は1月18日に到着し、続いて第二段が2月6日に、第一段が2月20日に、 ()が2月27日に到着した。 まだアポロ10号が月へ向かっている最中であった5月20日の1230(12時30分)、組み上がった重さ5,443トン 5,357 LT; 6,000 ST のサターンV型ロケットがの上に載せられ、の39A発射台に向けてロケット組立棟を出発した。 カウントダウンのテストは6月26日に開始され、7月2日に終了した。 7月15日の夜、発射施設が投光照明に照らされ、クローラー・トランスポーターが ()を駐機場まで運んで戻した。 発射当日の早朝には、第二段S-IIと第三段S-IVBの各燃料タンクがで満たされた。 燃料の注入は発射の3時間前までに完了した。 発射運用はATOLLと呼ばれるプログラミング言語で書かれた43のプログラムで一部が自動化されていた。 搭乗員は0400(4時00分)すぎにスレイトンに起こされ、シャワーを浴び、髭を剃り、スレイトンおよび予備搭乗員と一緒にNASAの宇宙飛行前の伝統的な朝食となっている ()を食べた。 そして、宇宙服を着用し、純酸素の呼吸を始めた。 0630(6時30分)に搭乗員は第39発射施設に向かった。 発射時刻の約3時間10分前にヘイズは「コロンビア」の船内に入り、6時54分に技術者とともにアームストロングが左の乗組員用の寝椅子につくのを手助けした。 5分後にコリンズが加わり、自分の所定の位置である右の乗組員用の寝椅子についた。 最後にオルドリンが乗船し、中央の寝椅子についた。 ヘイズは発射の約2時間10分前に宇宙船から降りた。 飛行士の搭乗を手伝ったクルー(クローズアウトクルー)がハッチを密閉すると、船室はパージ(圧縮空気を排気)され、与圧された。 クローズアウトクルーは発射の約1時間前に発射施設を離れた。 発射の3分20秒前からはカウントダウンが自動化された。 450人以上の人員が ()内の制御盤の前に陣取っていた。 ミッション [ ] 発射と月軌道までの飛行 [ ] 1969年7月16日午前9時32分(米国東部夏時間)、ニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、バズ・オルドリンの3名の宇宙飛行士を乗せたアポロ11号を搭載して、ケネディ宇宙センターの39A発射台から飛び立つサターンV 推定で100万人の観衆が発射場の近辺の幹線道路や海岸からアポロ11号の打ち上げを見ていた。 観衆の中には、の大将、4名の、19名の ()、40名の ()、60名の、200名の合衆国議会議員などのお偉方もいた。 は前大統領および同夫人とともに打ち上げの様子を眺めた。 現地には約3,500人の報道関係者が集まった。 そのうちのおよそ3分の2はアメリカ国内から、残りはその他の55の国々から来ていた。 打ち上げは33か国でテレビ中継され、アメリカ国内だけでも視聴者は推定で2,500万人に上った。 さらに世界中で数百万の人々がラジオ放送を聴いていた。 大統領は、NASAの連絡担当官だったアポロ宇宙飛行士のとともに、の執務室から打ち上げの様子を見守った。 1969年7月16日13:32:00 UTC(午前9時32分00秒 )、 AS-506はアポロ11号を搭載して、のから発射された。 発射の12分後には、高度98. 9海里(183. 2キロ)から100. 4海里(185. 9キロ)の辺りで、地球を周回する軌道に入った。 地球を一周半したあと、第三段エンジンS-IVBを点火 、16:22:13(UTC)に(Trans-lunar injection、TLI)し、宇宙船は月へと向かう軌道に乗せられた。 それから約30分後、左側の操縦席についたコリンズ司令船操縦士の操作で、 ()と呼ばれる一連の動作を実行した。 すなわち、使い切った第三段ロケットS-IVBから司令・機械船(CSM)を切り離し 、船の向きを反転させて、第三段に取りつけられた状態の月着陸船(LM)とし、ロケットから着陸船を取り出した。 その後、合体した宇宙船は月に向かう針路をとる一方、他方の第三段は月を通過する弾道を描くように飛行した。 これは第三段ロケットがアポロ宇宙船や地球や月に衝突するのを回避するために取られた措置であった。 月の周りを通過することで生じたにより、第三段S-IVBはに入った。 7月19日17:21:50(UTC)にアポロ11号は月の裏側を通過しての推進エンジンを点火し、に入った。 続いて、月を30周するうち、飛行士たちは ()クレーターから南西に約12マイル(19キロ)の辺りに位置する南部の着陸地点の過ぎゆく景色を目にした。 この着陸地点はある程度あらかじめ選定されていたのだが、それは無人探査機とによる先行調査や、月周回衛星が撮影した月面写真により、その比較的平坦で滑らかな地形が着陸や(EVA)を行うのに大きな支障はないだろうと判断されたためであった。 着陸予定地点はサーベイヤー5号の着陸地点から南東に25キロほど、レインジャー8号の衝突地点から68キロの辺りにあった。 月への降下 [ ] 着陸船「イーグル」から撮影された月周回軌道上の司令船「コロンビア」 7月20日12:52:00(UTC)にアームストロングとオルドリンは着陸船「イーグル」に乗り込み、月への降下に向けた最終準備に取りかかった。 17:44:00に「イーグル」は司令船「コロンビア」から切り離された。 「コロンビア」に1人残ったコリンズは、機体をゆっくりと爪先回転(ピルエット)させる着陸船「イーグル」に損傷がないこと、ならびに着陸装置が正常に展開されたことを確認した。 アームストロングは "The Eagle has wings! " (「イーグル」には翼がある!)と叫んだ。 降下を開始してしばらくすると、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが2、3秒早いことに気づき、射程領域(ダウンレンジ)がやや長いようだと地上に報告した。 つまり、このままでは着陸目標よりも西に数マイル先の地点に着陸してしまうことを示していた。 「イーグル」はあまりにも速く飛びすぎていたのである。 その原因は高い ()にあって宇宙船の軌道が変化したのではないかと考えられた。 飛行主任のジーン・クランツは、ドッキングトンネル内の余分な空気圧が原因ではないかと推論した。 あるいは、機体の損傷チェック時に行われた「イーグル」の爪先回転飛行が原因となった可能性も考えられた。 降下のためのエンジン噴射に入る5分前、月面から高度6,000フィート(1,800メートル)で 、(LM guidance computer、LGC)が予期しない警報 "1201" と "1202" を幾度か発し 、飛行士の注意を逸らせた。 そのとき、ミッション管制センター内にいたコンピュータ技師の ()は、誘導官(Guidance Officer)の ()にそのまま降下を続けても安全であることを告げ、飛行士たちにも中継して伝えられた。 これらの警報は "executive overflows" (実行オーバーフロー)を示しており、誘導コンピュータが過負荷状態にあって 要求されたすべてのタスクの処理をリアルタイムで完了できず、そのうちのいくつかを遅延させなければならない状態にあることを意味していた。 でアポロ飛行コンピュータのプログラミング責任者(Director of Apollo Flight Computer Programming)を務めたは、当時を思い出して次のように語った。 アポロ11号のその問題に関してコンピュータを責めることは、火災を発見して消防に通報する人を責めるようなものです。 実際、コンピュータはエラー状態を認識する以上のことをするようにプログラムされていました。 ソフトウェアには回復プログラム一式が組み込まれていたのです。 ソフトウェアの動作としては、この場合、優先度の低いタスクを除外して、より重要なものを再構築することでした。 コンピュータは、もう少しのところで(着陸の)中止を強制したというよりも、むしろ中止を阻止したといえます。 もしもコンピュータがこの問題を認識できずに回復動作をとらなかったら、アポロ11号の月への着陸が上手くいったかどうか、疑わしいと思います。 ミッション中には、司令船とのランデブー用のレーダーのスイッチが誤った位置にあり、月着陸船のコンピュータにランデブー用レーダーと着陸用レーダーの両方から送られてきたデータを同時に処理させようとしたことが原因だと診断された。 ソフトウェア技師のドン・アイルズは、2005年の誘導制御会議(Guidance and Control Conference)で発表した論文の中で、この問題は以前で最初の無人月着陸船をテストしている最中に見られたハードウェア設計上の欠陥に原因があると結論づけた。 (緊急時着陸中止という万が一の事態に備えて)ランデブー用レーダーをオンにしておくことはコンピュータとは関係ないはずだったが、無作為なハードウェアの電源の入れ方次第では、ランデブーレーダーシステムの2つの部品の間に生じる電気的位相の不整合により、コンピュータに対して固定型アンテナが2つのポジションの間を前後にするように見えることがある。 ランデブー用レーダーがインボランタリカウンタを更新すると、余分な疑似により、コンピュータは警告を発する。 着陸 [ ] アポロ11号の着陸地点(左)とウエスト・クレーター(右)の相対的位置 アームストロングが再び窓の外に目をやると、コンピュータがはじき出した着陸目標が直径300フィート(91メートル)ほどもあるクレーター のすぐ北と東の巨岩がいくつも転がっている領域にあるのが見えたため、アームストロングは操縦を半自動に切り替えた。 アームストロングはその岩石原の手前に着陸すればそこから地質試料を採取しに行けるかもしれないと考えたが、宇宙船の水平方向速度が速すぎたためできなかった。 降下している間、オルドリンはずっと、着陸船の操縦で多忙なアームストロングに航法データを読み上げ続けた。 月面からの高度107フィート(33メートル)まで降下したとき、アームストロングは推進剤の供給が徐々に減少してきていることを知り、最初の着陸候補地点に着陸することに決めた。 アームストロングは開けた月面の一画を見つけ、機動的に宇宙船をそちらへ向かわせた。 だんだんと近づいて行くと、高度250フィート(76メートル)のところで、その新しく決めた着陸地点にクレーターがあることを発見した。 アームストロングはクレーターを視界にはっきりととらえながら、別の一画の平地を見つけた。 高度100フィート(30メートル)まで来て、推進剤の量は残りわずか90秒分まで減っていた。 さらに、着陸船のエンジンによって巻き上げられた月の砂塵が、宇宙船の動きを決定するアームストロングの判断力を鈍らせた。 もうもうと立ち込める砂塵の中から突き出たいくつもの大きな岩に焦点を絞ることで、アームストロングは降下中の宇宙船の速度を判断することができた。 着陸の直前、「イーグル」の脚部から吊り下がっていた、長さ67インチ(170センチ)の探針のうちの少なくとも1本が月面に接地したことを示すライトが点灯した。 それを知ったオルドリンは「着地灯、点灯!」と声に出して確認した。 技師たちは、着陸時にエンジンを噴射させたまま月面に接近しすぎると排気ガスの圧力(背圧)でエンジンが吹き飛ぶかもしれないと危惧していたため、アームストロングはただちにエンジンを切ることになっていたが、忘れてしまった。 3秒後に「イーグル」が着陸し、アームストロングはエンジンを切った。 オルドリンは即座に「OK、エンジン停止。 ACA解放」と言葉を発し、それを受けてアームストロングは「ACA解放了解。 自動」と復唱した。 続けてオルドリンは「モード制御、両方とも自動。 下降段エンジンの指令重複、オフ。 エンジンアーム、オフ。 413に接続」と確認した。 1969年7月20日、月面に着陸。 ACAとは、(attitude control assembly)のことで、具体的には月着陸船の操縦桿のことである。 その出力は着陸船の誘導コンピュータ(LGC)に伝えられ、(reaction control system、RCS)にエンジン噴射の命令を出す。 「解放」とは、中央のポジションから動かされていた操縦桿が(車の方向指示器のように)バネの力で元の中央のポジションに戻されたことを意味する。 LGCのアドレス413は、月着陸船が着陸したことを示す変数を含んでいた。 「イーグル」は7月20日、日曜日の20:17:40(UTC)に25秒分の燃料を残して着陸した。 アポロ11号は後継のミッションよりも残りの燃料が少ない状態で着陸し、飛行士たちは早い段階から燃料残量警告表示に直面することになった。 これはのちに、燃料タンク内で推進剤が想定以上に大きく揺れ動き()、燃料計の値が実際よりも少なく表示されていた結果であることが分かった。 そのため、次回以降のミッションでは、これを抑える抑流板がタンク内に追加設置されることになった。 アームストロングは、オルドリンが「エンジンアームはオフ」と言って、着陸後のチェックリストをつける作業が一通り完了したのを確認して、CAPCOMのチャールズ・デュークに "Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed. " (「ヒューストン、こちら。 鷲は舞い降りた」) と言葉を発した。 アームストロングがコールサインを「イーグル」から予行演習にはなかった「静かの基地(Tranquility Base)」に変更したことで、着陸を完遂して成功したことが強調されて聴取者たちに伝えられた。 それを聞いたデュークは、ミッション管制センターにいた人たちの安堵の気持ちを表し、 "Roger, Twan— Tranquility, we copy you on the ground. You got a bunch of guys about to turn blue. We're breathing again. Thanks a lot. " (「了解、トゥワン……トゥランキリティ(「静か」の意)。 月面にいる君たちの声、よく聞こえるよ。 君らのおかげでたくさんの奴らが真っ青になりそうだった。 ため息をついている。 どうもありがとう」)と、一瞬言い淀みながらも応答した。 こちらは月着陸船操縦士です。 この機会を借りて、私はこの放送を聞いている人々に対し、誰であろうと、またどこにいようと、しばらくの間手を止めて、この数時間に起こったできごとについて熟慮し、それぞれの方法で感謝をしてほしいと願います。 そのあと彼は、私的にを行った。 この当時NASAは、 ()に反対していた無神論者の ()と係争中で、オヘアはNASAに対し、宇宙飛行士は宇宙にいる間は宗教的活動を放送することを控えるべきだと要求していた。 それゆえ、オルドリンは月で聖餐式を行うことに直接言及することを差し控える選択をした。 オルドリンはテキサス州 ()にあるの長老で、聖餐用具は同教会の牧師であるディーン・ウッドラフが用意していた。 ウェブスターの長老派教会は、このとき月で使用された聖餐杯を所有しており、毎年7月20日にもっとも近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念行事を行っている。 この任務のスケジュールでは、宇宙飛行士は5時間の睡眠時間で着陸のあとに続く作業を行うことが求められていたが、眠れないだろうと思った2人は早くに船外活動の準備を始めることを選択した。 月面での活動 [ ] オルドリンが撮影したアームストロングの写真。 月面滞在中はほとんどアームストロングがカメラを持っていたので、月面上の彼自身の姿が写ったものとしては、数少ない写真の一つ。 船外活動の準備は20日23:43に始まった。 準備は2時間で済むはずのところ、3時間半と想定よりも長くかかった。 地球上での訓練中には、必要とされるものはすべて前もってきちんと並べられていたが、月では、チェックリスト、食料の入った小包、用具のほかにも多くのものが船室内にあった。 アームストロングとオルドリンの外に出る準備が整うと、「イーグル」は減圧された。 02:39:33にハッチが開いた。 初め、アームストロングは ()(PLSS)を身に着けたままハッチを通り抜けようとする際にいくぶん苦労を要した。 アポロ宇宙飛行士たちの心拍数は月着陸船のハッチを出入りするときに最高値を記録することがよくあった。 02:51にアームストロングは月面へと降り始めた。 胸の位置にある遠隔操作ユニット(RCU)のせいで、アームストロングは自分の足元が見えなかった。 9段のはしごを降りながら、アームストロングはDの字型のリングを引いて、「イーグル」の側面に折り畳まれていたモジュール装置格納アセンブリ(Modular Equipment Stowage Assembly、MESA:器具収納部)を展開してテレビカメラを起動した。 アポロ11号では、放送用のテレビジョン規格と互換性のないが使用されたため、一度特殊なモニタに映像を表示させておき、そのモニタの映像を従来型のテレビカメラで撮影することで本放送されたが、その画質は著しく低減されることとなった。 テレビジョン信号はアメリカので受信されていたが、オーストラリアの近郊にある ()が受信した信号のほうがて鮮明だった。 数分後、通信の中継基地は、より感度が良好なオーストラリアのに切り替えられた。 幾多の技術的困難と天候不順があったにもかかわらず、史上初の月面での船外活動をとらえた、ぼんやりとした白黒の映像が地球上で受信され、世界中の少なくとも6億人の人々に向けて放送された。 この放送形式のビデオの複製物は保存されており、広く入手することが可能だが、 ()は、NASAの日常業務で磁気テープを再利用しているうちに誤って破損されてしまったようである。 「」も参照 アームストロングは "That's one small step for a man" (「男にとっては小さな一歩」)と言うつもりでいたが、通信音声では "a" という単語は聞き取りにくかったこともあって、当初、単語 "a" は生放送を視聴していた人の大多数には伝わっていなかった。 のちにこの名文句について尋ねられたとき、アームストロングは "for a man" と言ったと思っていたと述べており、後年発行されたこの句の活字版には、角括弧付きで "a" が含められていた。 ある解釈では、 "a" は欠落していたと主張され、彼は訛りによって "for a" の2単語を連続して不明瞭に発音したのだと説明されている。 別の解釈では、パークス天文台付近の嵐をその一因とし、地球につないだ映像と音声の断続的性質で "a" の欠落を説明している。 より最近のテープ音声のデジタル解析では、 "a" は発言されたかもしれないが、空電 のせいでよく聞き取れなかったことが明らかになったと主張されている。 月面に足を踏み入れてからおよそ7分後、アームストロングは細長い棒で土壌サンプルを採取して試料袋に詰め、袋を畳み、右腿のポケットに押し込んだ。 これは、万が一緊急時に飛行士たちが船外活動を断念して着陸船に戻らなければならなくなった場合でも、多少なりとも月の土壌を地球に持ち帰れるよう保証するための作戦行動(緊急採集 )だった。 土壌サンプルの採取が完了して12分後 、アームストロングはMESAからテレビカメラを取り外し、月面のパノラマ映像を撮影してから、三脚の上にカメラを載せた。 テレビカメラのケーブルには一部に巻きつけられていたときの癖が残っていたため、船外活動中はずっと、それが螺旋状に曲がりくねったところに足を引っかけてつまづくおそれがあった。 さらに、製カメラを手に持ったり、アームストロングの宇宙服( ())にかけたりして、月面の写真撮影が遂行された。 追ってオルドリンがアームストロングに続いて月面に降り立ち、月面の風景について、簡潔な言い方で "magnificent desolation" (荘厳なる荒涼)と表現した。 アームストロングは、地球の6分の1しかないの中を移動するのは「ひょっとしたら地上での模擬訓練よりもよほど簡単かもしれない……歩き回るのにまったく何の問題もない」と述べた。 そこにオルドリンも加わって、両足で踏み切るカンガルー跳びなど、さまざまな歩き方を試した。 すると、背中に生命維持装置を背負っているために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには大した問題もなく、慣れてくると、むしろ大股で歩くのがよいことが分かった。 ただし、移動する際は常に6、7歩先のことを予想して歩く必要があったり、粒の細かい土の部分はかなり滑りやすかったりしたので、注意を要した。 また、太陽の照っているところから「イーグル」の影に入ったときには、宇宙服の中の温度はまったく変化がなかったが、ヘルメットの内部は日光で温められていたため、影に入ると冷たく感じられたとオルドリンは報告した。 MESAは安定した作業環境を提供することができず、また「イーグル」の影に隠れていたため、作業はいくぶん遅れることになった。 2人が作業しているうちに月面を歩いたことで、灰色の砂埃が巻き上げられ、宇宙服の外皮を汚してしまった。 月面に立てた星条旗に敬礼するオルドリン 2人はを含む ()を月面上のテレビカメラにはっきりと写るところに立てた。 オルドリンはこのときを思い出して「私が月面でしなければならなかったすべての仕事のうち、もっとも順調に運びたかったことは国旗の掲揚でした」と語った。 ところが、繰り出し式の伸縮する棒が月面に刺す際に縮んでしまうことに悪戦苦闘し、旗竿は固い月の表面に2インチ(5センチ)ほどしか押しつけられなかった。 オルドリンはテレビの視聴者の目の前で旗が倒れてしまいやしないかと心配しながらも、旗に向かってウエストポイント(陸軍士官学校)式の敬礼を行った。 そして、オルドリンが星条旗とアームストロングを被写体にした写真を撮るはずだった次の瞬間に、電話無線伝送を通じてリチャード・ニクソン大統領が飛行士たちに話しかけてきた。 のちにニクソンはこの交信を「かつてホワイトハウスからかけられた中でももっとも歴史的な通話」と呼んだ。 ニクソンは当初、通話中に読み上げる長い演説文を用意していたが、当時NASAの連絡担当官でホワイトハウスにいたフランク・ボーマンは通話を手短に済ませるよう大統領を説得した。 ニクソン: やあ、ニール、バズ。 私はホワイトハウスの執務室から電話で君たちに話しかけています。 そして、これはきっとこれまでにかけられた中でもっとも歴史的な通話になることでしょう。 君たちの成し遂げたことがどれほど私たち皆の誇りに思うことか、言葉では言い表せないほどです。 すべてのアメリカ人にとって、今日は生涯でもっとも誇るべき日となることでしょう。 そして、世界中の人々もアメリカ国民とともに、これが何と素晴らしい偉業であることかを認めるだろうと私は確信しています。 君たちが成し遂げたことで、天空は人間世界の一部となりました。 そして、君たちが静かの海から私たちに呼びかけてくれたことで、私たちは地球に平和と静寂をもたらす努力をさらに強くしなくてはならないと奮い立たされます。 全人類史の中でかけがえのないこの一瞬に、この地球上のすべての人々は真に一体となります。 ひとつには、君たちが成し遂げたことに対する誇り、そしてひとつには、君たちが無事地球に帰還するようにとの祈りであります。 アームストロング: ありがとうございます、大統領閣下。 合衆国のみならず、平和を愛するすべての国の人々、そして興味や好奇心、未来への展望を持つ人々を代表して、私たちがここにいることは誠に光栄かつ名誉なことです。 今日ここにいられることを光栄に存じます。 月のの特性を調べる実験の一環で付けられたオルドリンの靴跡 二人の飛行士は、を観測する受動型地震計実験装置(PSEP)と用の(LRRR)を含む、(EASEP)を展開した。 その際、オルドリンが2本の ()を集めている間に、アームストロングは着陸船から196フィート(60メートル)歩いて、 ()の周縁部でスナップ写真を撮った。 アームストロングはを使用してコアサンプル採取用のチューブを打った。 アポロ11号でハンマーが使われたのはこのときだけだったが、6インチ(15センチ)よりも深く貫通させることはできなかった。 2人はスコップや伸張式の鋏を使って岩石試料を採集した。 月面での活動の多くは想定よりも長引いたため、2人は割り当てられていた34分間の活動時間の中ごろで、採集した試料について文書に記載する手を止めなくてはならなかった。 荷崩れしないように、オルドリンは採集した岩石を入れた箱に6キログラム(13ポンド)の土をシャベルですくって入れた。 採集された地質試料にはとの2種類の岩石が含まれていたことがわかった。 また、採集した岩石試料からは、新種の鉱物として、、 ()の3種が発見された。 このうち、アーマルコライト(Armalcolite)はアームストロング(Arm)、オルドリン(al)、コリンズ(col)の3名の宇宙飛行士の名にちなんでいる。 これらの鉱物はすべて、のちに地球上でも見つかっている。 ミッション管制センターは暗号的な言葉を使用して、アームストロングに代謝率が高めであることを警告し、作業のペースを落とすように伝えた。 彼は時間切れになるまで月面を素早く移動しては次から次へと任務をこなしていた。 月面を歩行している間は、2人の飛行士の代謝率はおおむね予想されていた値よりも低かったため、管制センターは両飛行士に15分間の活動延長を許可した。 2010年のインタビューで、アームストロングは、当時NASAが最初の月面歩行の時間と距離に制限をかけていたことを明かした。 その理由は、月面で作業する間に飛行士たちの発する熱を下げるために、背中に備えられた生命維持装置がどの程度の量の冷却水を消費するかについて、経験に基づく裏付けが取れていなかったことによるものだった。 月からの上昇 [ ] 予定されていた船外活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に「イーグル」に戻った。 採集した岩石や撮影したフィルムなどを収めた箱は重量が21. 55キログラム(47. 5ポンド)に上り、月装備運搬装置(Lunar Equipment Conveyor、LEC)と呼ばれるフラットケーブル滑車装置で引っぱり上げたが、ハッチから船内に入れるのには若干苦労した。 この方法は効率的でないことが証明されたため、後継のミッションでは機材や試料は手で持って船に荷揚げするようになった。 アームストロングは宇宙服の袖のポケットに入っている記念品の袋を月面に残すのを忘れないようにとオルドリンに念を押し、オルドリンは月面に袋を放り投げた。 それから、アームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、はしごを上って船内に入った。 船内の生命維持システムに移ったあと、月周回軌道まで帰るための「イーグル」上昇段の明かりをつけ、宇宙服の船外活動用生命維持装置、月面靴、空のハッセルブラッド製カメラなど、不要になった機材を放り捨てて、21日05:01にハッチを閉め、船内を与圧し、2人はようやく月面で初めての睡眠についた。 受動型地震計実験装置(写真中央)の隣に立つオルドリン(同左)と「イーグル」(同右奥) ニクソン大統領のスピーチライターだった ()は、最悪の事態として、万一アポロ11号の宇宙飛行士たちが月で遭難した場合を想定して、大統領がテレビ演説で読み上げる In Event of Moon Disaster (月で災難の場合)と題した追悼文を用意していた。 その不測の事態に対応するための計画は、セイファイアからニクソンのだったに渡されたメモが発端だった。 そのメモには、もしアポロ11号が不慮の事態に見舞われ、ニクソン政権がそれに対する反応を求められるかもしれなかった状況を想定して、セイファイアが作成した追悼の言葉の原案が示されていた。 その計画によれば、ミッション管制センターが月着陸船との「交信を絶つ」と、聖職者が ()になぞらえた公的儀式で「彼らの魂を深い淵の底に委ねる」手はずだった。 用意された原稿の最後の一行では、が第一次世界大戦期に詠んだ詩『 ()』にそれとなく言及している。 オルドリンは船内で作業しているとき、月面から離陸するために使用する上昇用エンジンを作動させるのスイッチを誤って壊してしまった。 このことで、船のエンジンの点火が妨げられ、彼らは月面に取り残されてしまう懸念があった。 幸いにも、フェルトペンの先でスイッチを作動させることができたが、もしもそれがうまくいかなければ、上昇用エンジンを点火するために着陸船の電気回路は構成し直されていたかもしれなかった。 21時間半以上を月面で過ごした2人は、科学観測機器のほか、1967年1月に訓練中の火災事故で犠牲になった3名の飛行士(、、)を追悼してのミッションパッチを、また古くから平和の象徴とされてきたオリーブの枝を模した金のレプリカの入った記念袋を、そして地球からのメッセージを収めたシリコンディスクを月面に残してきた。 ディスクには、アメリカのアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの歴代大統領からの ()や世界73か国の指導者たちから寄せられたメッセージが収録されていたほか、アメリカ合衆国議会の代表者たち、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、およびの名前の一覧も記録されていた。 着陸地点と写真の撮影場所を示した地図 およそ7時間の睡眠ののち、アームストロングとオルドリンはヒューストンからの目覚ましによって起こされ、帰還飛行の準備を始めるよう指示された。 2時間半後の21日17:54:00(UTC)に2人は「イーグル」の上昇段エンジンを点火して月を離陸し、コリンズが搭乗している月周回軌道上の司令船「コロンビア」を目指した。 月面離陸時に「イーグル」の上昇段から撮影された映像には、月面に残された下降段から25フィート(8メートル)ほど離れた場所に立てられた星条旗が、上昇段エンジンの噴射で激しくはためく様子がとらえられていた。 オルドリンはちょうど旗がぐらついて倒れるのを目撃し、「上昇を始めたとき、私はコンピュータの操作に集中し、ニールはを注視していたが、私は旗が倒れるのを長い間見ていられた」と報告した。 そのため、以後のアポロミッションでは、上昇段エンジンの噴射で吹き飛ばされることのないように、星条旗は着陸船から離れた位置に立てられることになった。 月軌道上の「コロンビア」 [ ] 単独で月を周回する飛行を続けていた間、コリンズはまったく寂しさを感じることはなかった。 「以来、そのような孤独を知る者はいない」といわれているが 、コリンズはそれを使命の一部だと強く感じていた。 コリンズは自叙伝の中で、「この冒険は3人の男で構成されたものであり、3番手の私も、ほかの2人のいずれかと同様になくてはならないものなのだと思う」と記している。 月を周回する「コロンビア」が月の裏側を飛行して、地球との無線連絡ができない48分間の間にコリンズが感じたのは、不安でも孤独でもなく、むしろ「意識、予感、満足、自信、歓喜に近い感覚」であったと綴っている。 コリンズの最初の任務のひとつに、月面上の月着陸船の位置を特定することがあった。 どこを探せばよいかの見当をつけるために、ミッション管制センターはコリンズに月着陸船は目標地点から4マイル(6. 4キロ)ほど離れた辺りに着陸したようだと無線で伝えた。 コリンズは着陸地点と思しき辺りの上空を通過するたびに月着陸船を見つけようとしたが、不可能だった。 初めて月の裏側を飛んだとき、コリンズはによって生成された余分な水を捨てたり、アームストロングとオルドリンの帰りを迎えるために船室を整理整頓するなど、船内の環境整備活動を行った。 3周目の周回で月の裏側に入る直前に、ミッション管制センターはコリンズに冷却液の温度に問題があると知らせた。 冷却しすぎるようなことがあれば、「コロンビア」の部品が凍結してしまうかもしれなかった。 ミッション管制センターは、手動制御に切り替えたうえで、環境制御システム故障時の手順17(Environmental Control System Malfunction Procedure 17)を実施するよう、コリンズに助言した。 ところが、コリンズはその代わりとして、問題を引き起こしているシステムのスイッチを自動から手動に入れて、また自動に戻し、冷却剤の温度を注視しながらも、日課となっていた通常の管理保全作業を続行した。 「コロンビア」が再び月の表側に出たときには、問題は解決したと報告することができた。 それから次の2、3周は、月の裏側で過ごす時間が「ほっとする」("relaxing")時間だったとコリンズは記している。 アームストロングとオルドリンがすべての船外活動を終えてからは、コリンズは来たるべきランデブーに備えて睡眠休憩をとることができた。 「コロンビア」が「イーグル」を迎え入れる飛行計画に応じて、コリンズは一定の不測の事態に備えて「コロンビア」を「イーグル」のところまで降下させられるような準備ができていた。 帰還 [ ] 司令船「コロンビア」に接近してくる「イーグル」の上昇段 7月21日21:24(UTC)に「イーグル」は「コロンビア」とランデブーし、21:35に2機はドッキングした。 「イーグル」の上昇段は23:41に月周回軌道に投棄された。 の飛行の直前には、「イーグル」は依然として軌道上に留まっているようであることが確認されたが、のちに出されたNASAの報告書には、「イーグル」は軌道が次第に減衰した結果、月面の「不確かな場所」("uncertain location")に衝突したのだろうと記されている。 7月22日04:56(UTC)にアポロ11号は機械船の推進エンジンを2分半噴射して 月周回軌道を離れ 、同日05:30(UTC)に月の裏側で地球帰還軌道に乗り () 、地球への帰路に就いた。 7月23日、着水前の最後の夜に、3名の宇宙飛行士はテレビ放送で次のようにコメントした。 最初にコリンズが、 この飛行に対して責任を担ってきたのは、まず第一に、この取り組みに先立つ科学の歴史とそれを築き上げてきた偉人たち、次いで、自らの意思を通じてこれを成し遂げたいという願いを表明したアメリカ国民、そして、国民の意思に従い、それを履行した四代にわたる政権と連邦議会、さらに、我々の宇宙船やサターンロケット、司令船「コロンビア」、月着陸船「イーグル」、そして月面における小さな宇宙船とも言うべき宇宙服と生命維持装置、 ()などを作り上げた政府機関や企業のチームなどです。 我々は、この宇宙船を設計し、建造し、試験し、飛行させるために心血を注ぎ、持てる限りの能力を発揮してくれたすべてのアメリカ人に対し、特別の感謝を捧げたく存じます。 我々は今夜、それらの方々に対して特別の感謝の言葉を申し上げるとともに、今夜この放送を見聞きしている人々に神の祝福があらんことを祈ります。 アポロ11号より、おやすみなさい。 と締めくくった。 地球への帰還に際して、グアムの追跡基地で装置の軸受が故障したことで、もしかすると地球帰還時の連絡に関して最後の一部分の受信が妨げられていた可能性があった。 定期的な修復作業では与えられた時間内に作業を終えるのは不可能だったが、基地の主任だったチャールズ・フォースには10歳になる息子グレッグがいて、軸受箱の中にその小さな手を入れてグリスを塗ってもらって急場をしのいだ。 お手柄のグレッグはのちにアームストロングから感謝された。 着水と検疫 [ ] 洋上に浮かぶコロンビア号と飛行士たちの下船を助ける海軍のダイバーら 6月5日、 ()大佐指揮下のが、5月26日にアポロ10号を回収した姉妹艦のに代わって、アポロ11号の主回収船(primary recovery ship、PRS)に選ばれた。 当時、ホーネットは母港であるカリフォルニア州にあった。 7月5日にに到着したホーネットは、アポロ宇宙船の回収任務を専門とする ()数機、 ()アポロ特派部隊(UDT Detachment Apollo)の専門ダイバーたち、NASAの回収班35人およびメディア関係者約120人を乗船させた。 空間を確保するため、ホーネットの艦載機の多くはロングビーチに残してきていた。 訓練用の ()(ダミーの宇宙船)を含む、特殊な回収用機材も積み込まれた。 7月12日、アポロ11号がまだ発射台にあったころにホーネットは中部太平洋の回収海域( 付近 )に向けて真珠湾を出港した。 ニクソン大統領、ボーマン連絡担当官、 ()、からなる大統領一行は、でまで飛び、そこで艦上のに乗り込んだ。 大統領一行は艦上で一夜を過ごしたあと、数時間の式典のためにマリーンワンでホーネットまで飛んだ。 ホーネット艦上に到着すると、大統領一行は、ホーネットの艦上輸送機でから飛来していた最高司令官の大将との ()からあいさつを受けた。 当時、気象衛星はまだ一般的なものではなかったが、アメリカ空軍のハンク・ブランドリ大尉は最高機密である偵察衛星の画像にアクセスすることができた。 その衛星画像から暴風雨前線がアポロ宇宙船の回収海域に向かっていることが分かった。 視界不良はこのミッションにとって深刻な脅威であった。 もしヘリコプターが「コロンビア」の位置を特定できなければ、宇宙船と搭乗員、および月の石などの貴重な貨物が失われてしまうおそれがあった。 ブランドリは、要保全許可 (required security clearance)を有していた真珠湾のの司令官、海軍のウィラード・S・ヒューストン・ジュニア大将に警報を発した。 彼らの勧告に基づき、太平洋・有人宇宙船回収部隊(Manned Spaceflight Recovery Forces, Pacific)の司令官、 ()少将はNASAに回収海域を変更するよう忠告した。 これにより、新たな回収海域が指定され 、元の回収海域から北東に215海里(398キロメートル)の辺りで回収されることになった。 回収海域の変更は飛行計画にも影響を及ぼした。 異なるシーケンスのコンピュータ・プログラムが使用されていたが、その1つは以前に試用されたことがなかった。 従来の入力では、P64の次にP67が続いていたが、スキップアウトされた部分の再入力は、P65を用いて一旦終了したうえで、P66でスキップ部分を入力する方法が採られていた。 この場合、それらは再入力部を展開していたが、実際にはスキップアウトしていなかったため、P66は呼び出されず、代わりにP65が直接P67を導いた。 搭乗員も、P67を入力した場合、フルリフト(頭が下になる)姿勢にならないとの警告を受けていた。 飛行士たちは最初のプログラムの指令で6. 7月24日の夜明け前、ホーネットから4機のシーキング・ヘリコプターと3機の艦上早期警戒機が発進した。 うち2機のE-1は "air boss"(空中指揮機)に指定され、3機目は通信中継機として行動した。 2機のシーキングはダイバーたちと回収用機材を輸送した。 3機目は写真撮影機材を、4機目は除染を担当するスイマーと航空医官を、それぞれ輸送した。 16:44(UTC、現地時間05:44)に「コロンビア」の ()が開いたのをヘリコプターが確認した。 7分後に「コロンビア」は船体を力強く水面に叩きつけられ、の東方2,660キロ(1,440海里)、ジョンストン環礁の南方380キロ(210海里)、ホーネットからの距離わずか24キロ(13海里)の地点( )に着水した。 ()時に「コロンビア」は上下逆さまに落下したが、飛行士たちが作動させた浮力袋によって10分以内に立て直された。 上空でホバリングする海軍のヘリコプターから下りてきたダイバーが、船が漂流することのないように「コロンビア」に ()を取りつけた。 別のダイバーらは船を安定させるために「コロンビア」に浮揚環管を取りつけ、宇宙飛行士たちを下船させるためのボートを船の横につけた。 地球に帰還した後、のために隔離施設に収容されるアポロ11号の搭乗員と、彼らを訪問するニクソン大統領 ダイバーらは宇宙飛行士たちに生物隔離服(biological isolation garment、BIG)を渡し、救命ボートに乗るのを補助した。 月面からを持ち帰る可能性はごくわずかだと考えられたが、NASAは念のため回収現場で予防措置をとった。 宇宙飛行士たちは製剤を使用して身体を擦り拭かれ、「コロンビア」は船体に付着しているかもしれない月の塵をを使って拭き取られた。 宇宙飛行士たちはウインチで引き揚げられ、回収ヘリコプターに乗せられた。 ホーネット艦上の隔離施設に到着するまでの間、宇宙飛行士たちは生物隔離服を着用させられた。 除染物質を積んだボートは故意に沈められた。 ヘリコプターは17:53(UTC)にホーネット艦上に着地したあと、そのままエレベーターで格納庫へと下ろされ、そこで宇宙飛行士たちは ()(Mobile Quarantine Facility、MQF)まで30フィート(9. 1メートル)歩いて施設内に入り、地球ベースで21日分の期間が開始されることになった。 この措置は、後続のアポロ12号との2つのミッションでも実施されたが、のちに月に生命が存在しないことが証明されると、検疫措置は取りやめになった。 ニクソン大統領は地球に帰還した宇宙飛行士たちを歓迎し、「君たちが成し遂げたことのおかげで、世界はこれまでになく一層親密になった」と伝えた。 ニクソンが出発したあと、ホーネットは重量5米トン(4. 5トン)の「コロンビア」に近づいて舷側に寄せ、艦のクレーンを使って船を引き揚げ、 ()に載せてMQFの隣まで運び込んだ。 そして、「コロンビア」は伸縮可能なトンネルでMQFと接続され、月試料、フィルム、データテープおよびその他の積み荷が取り出された。 ホーネットが真珠湾に帰港すると、そこでMQFはに載せられて有人宇宙船センターまで空輸された。 7月28日10:00(UTC)に宇宙飛行士たちは(Lunar Receiving Laboratory)に到着した。 一方、「コロンビア」は不活性化のためにに運ばれ、火工品類が安全に処理された。 その後、に運ばれ、そこからでヒューストンに空輸されて7月30日に月試料受入研究所に到着した。 7月16日にNASAが発布した一連の規定 、 ()に従い、検疫試験計画が成文化され、宇宙飛行士たちの検疫が続けられた。 しかし、3週間の隔離(まず最初にアポロ宇宙船内で、次にホーネット艦上のMQF内で、最後に有人宇宙船センターの月試料受入研究所内で)を経て、宇宙飛行士たちに完全健康証明書が与えられた。 1969年8月10日にアトランタで、逆汚染に関する庁間委員会(Interagency Committee on Back Contamination)の会合が開かれ、宇宙飛行士たち、飛行士の検疫に従事した者たち(NASAの医官 ()とMQFプロジェクト技師 ()) 、およびコロンビア号自体の隔離がようやく解かれた。 宇宙船から取り外せる備品は、月試料が研究用に公開されるまでの間、隔離されたままだった。 祝賀 [ ] ニューヨーク市での祝賀パレードの様子 8月13日、ニューヨークとシカゴで、推計600万人の見物客を脇に見ながら、紙吹雪の舞う中、名誉ある盛大な祝賀パレードが挙行され、3人は歓迎と祝福を受けた。 同日の晩にはロサンゼルスの ()で、合衆国議会議員、44州の知事、、83か国の大使らが出席して、今回の飛行を記念する公式晩餐会 ()が開かれた。 その席上で、ニクソン大統領とアグニュー副大統領から各宇宙飛行士の栄誉を称えてが授与された。 1969年9月16日、3人の飛行士はの開会前にスピーチし、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの片方をに、もう片方をに贈呈した。 アポロ11号によって月に持ち込まれたは、アメリカ領サモアの首都にある ()に展示されている。 この祝賀行事は38日間に及ぶ世界周遊の旅の始まりであった。 この旅行中に3人の宇宙飛行士は22か国を歴訪 し、多くの国々の指導者たちを表敬訪問した。 旅は9月29日から11月5日まで続いた。 多くの国では、人類史上初のの栄誉を称える雑誌の特集が組まれたり、アポロ11号の記念切手や記念硬貨が発行されたりした。 遺産 [ ] 文化的意義 [ ] 人間が月面を歩き、安全に地球に帰還したことで、その8年前に設定されたケネディの目標は達成された。 アポロ11号が着陸したとき、ミッション管制センターではケネディの演説が画面に映し出され、"TASK ACCOMPLISHED, July 1969"(「1969年7月、任務達成」)の文字が表示された。 アポロ11号の成功によってアメリカ合衆国がほかの国々よりも技術的に優位にあることが証明された。 アポロ11号の成功をもって、アメリカは宇宙開発競争に勝利したのである。 それにともなって、英語には新しいフレーズが浸透した。 アポロ11号にかけて "If they can send a man to the Moon, why can't they... " (「もしも彼らが人を月に送ることができるなら、なぜ彼らは... できないのか」転じて「人類に人を月に送り込む英知があるのなら、どんな問題だって解決できるさ」の意)という文句がよく使われる言い習わしとなった。 アームストロングが月面で発した名言も、数え切れないほど多くのパロディを派生させた。 任務を達成したことが盛大に祝われた一方で、公民権を剥奪されたアメリカの人々はこれをアメリカの格差の象徴と見ていた。 それはアポロ11号の打ち上げ前日にケネディ宇宙センターの外側で抗議する人たちがいたことに裏付けられた。 ただし、だからといって彼らがそのことに畏敬の念を抱いていないわけではなかった。 抗議の行進を主導した ()はアポロ11号のあまりに壮観な打ち上げに魅了され、抗議活動で何を言おうとしていたかを忘れてしまった。 アポロ計画に費やす金があるなら、どうしてそれを地球上の人間の世話をするために使わないのかと思った市民らは、人種的および金銭的な不平等に不満を募らせた。 ()による "Whitey on the Moon" (「白んぼは月に行く」 の意)と題された詩は、宇宙開発競争で際立たせられた ()を物語っている。 この詩の歌い出しは次のようなものであった。 世界の人口の20パーセントの人々が、人類が初めて月面を歩く瞬間を見ていたと言われている。 アポロ11号は世界中の関心を集めたが、後続のアポロ・ミッションは国民の関心をつかむことはなかった。 このことは複雑さの変化で説明できそうである。 人間を月に着陸させることは理解しやすい目標であったのに対し、月質学(月の地質学)は平均的な人にとってあまりにも抽象的すぎたのであった。 また、ケネディの掲げた人類を月に着陸させる目標がすでに達成されてしまったこともその一因となった。 目的が明確に定義されていたことはアポロ計画がその目標を達成する助けとなったが、目標が達成されたあととなっては、月飛行ミッションを継続する正当な理由を説明することが難しくなった。 ほとんどのアメリカ人が宇宙探査で国家的目標を達成したことに誇りを持っていたころ、1960年代後半に一度だけ実施された(世論調査)では、アメリカ人の大多数が宇宙開発を「あまりしない」よりも「もっとする」ことを支持していたことが示された。 しかし、1973年になるころには、59パーセントの人々が宇宙探査にかける費用を削減すべきだと回答するまでになった。 米国とソ連がの時代に入ると、宇宙開発競争は終わりを迎え、冷戦の緊張も緩和されていった。 このころはちょうどが始まった時期でもあり、支出を削減するよう政府に圧力がかけられた。 宇宙計画が経費節減から救われたのは、それが何か偉大なことを成し遂げた数少ない政府の事業のひとつだったためである。 抜本的に削減すれば、の副局長だったに「我々にとっての絶好の時期が遅れている」とのメッセージを送ることになるかもしれないとして警戒された。 アポロ11号ミッションのあと、ソ連の当局者らは人間を月に着陸させるのは危険で不必要なことだったと発言した。 当時ソ連は無人探査機を使って月の試料を回収しようとしていた。 ただし、ソ連は公には月着陸競争の存在を否定しており、そのような試みがなかったことを示していた。 ソ連の科学者 ()は1969年7月に「我々は大規模な衛星システムの開発にすべてを注力しているところだ」と語った。 月に人間を送り込もうとしていたが、技術的困難のために実現しなかったとソ連が明らかにしたのは1989年のことだった。 ソ連の一般の人々の反応は複雑なものであった。 ソ連政府が(アポロ11号の)月面着陸に関する情報の公開を制限したことも人々の反応に影響を及ぼした。 ソ連の民衆の一部はアポロの月面着陸に何ら関心を示さず、別の一部にはそのことに怒りを覚える者もいた。 宇宙船 [ ] の Milestones of Flight 展示ホールに展示されたコロンビア号 地球に帰還した司令船「コロンビア」はアメリカの49州の州都と首都およびアラスカ州で巡回展示された。 その後、1971年にに移管され、ワシントンD. にある(National Air and Space Museum、NASM)で展示された。 「コロンビア」が展示された場所は同博物館のジェファーソン・ドライブ入口正面にある中央のMilestones of Flight展示ホールで、メインホールにはほかに、、、、、・など、アメリカの航空宇宙史を開拓してきた機体が展示されている。 2017年に「コロンビア」はバージニア州シャンティリーにある ()のメアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫(NASM Mary Baker Engen Restoration Hangar)に移され、アポロ11号の月面着陸50周年を記念して4都市で開催される Destination Moon: The Apollo 11 Mission(目的地・月:アポロ11号の使命)と題した巡回展に向けて準備が進められた。 この巡回展は、2017年10月14日から2018年3月18日までにて、2018年4月14日から同年9月3日まで ()にて、2018年9月29日から2019年2月18日までの ()にて、2019年3月16日から同年9月2日までの ()にて、それぞれ開催される。 アームストロングとオルドリンの宇宙服は40年間、同博物館内のApollo to the Moonコーナーに展示されていた が、2018年12月3日をもって同展示コーナーは永久に閉鎖され、それに代わる新しい展示コーナーが2022年にオープンする予定である。 アームストロングの宇宙服は2019年7月にアポロ11号が50周年を迎えるのに合わせて特別展示されることが企画されている。 隔離施設、浮揚環管、転覆した船体の立て直しに用いられた浮力球は、バージニア州シャンティリーのに近いスミソニアン協会のスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センターの別館にあり、月着陸船の試験機とともに展示されている。 に展示されているアポロ11号の移動式隔離施設(2009年) 月着陸船「イーグル」の下降段は月面に残されたままである。 2009年、(Lunar Reconnaissance Orbiter、LRO)が、歴代のアポロ宇宙船の着陸地点を、月着陸船の下降段、科学観測機器、宇宙飛行士の足跡などを見分けられるほど十分に高い解像度で、初めて画像化することに成功した。 上昇段の遺物は、投棄されて月に衝突したあと、月の表面の不明な場所にあると推定されている。 場所が不確かである理由は、「イーグル」上昇段は投棄されたあとに追跡されていなかったこと、そして月の重力場が十分に一様ではないために、少々時間を置いたあとでは宇宙船の軌道が予測不可能になってしまうことによる。 2012年3月、の創業者から資金提供を受けた専門家チームによって、アポロ11号を宇宙へと打ち上げたサターンVの段からの場所が突き止められ、実際に先進的な走査型超音波探知機を用いて大西洋の海底で5基のエンジンが発見された。 そして、5基のうち2基の部品が引き揚げられた。 2013年7月、そのうちの1基のエンジンの錆びついた表面の下にシリアルナンバーが記載されているのを管理人が発見し、NASAはそれがアポロ11号の打ち上げで使われたものであることを確認した。 アポロ11号の月遷移投入に能力を発揮したサターンVの第三段は、地球の公転軌道に近い、太陽周回軌道上に留まっている。 月の石 [ ] アポロの月の石のおもな保管場所は、テキサス州のジョンソン宇宙センター内の ()にある。 安全に保管するために、ニューメキシコ州近郊の ()にも、より小規模なコレクションが収蔵されている。 月の石のほとんどは湿気ないように窒素の中に保存されている。 取り扱う際は直接手で触れないように、特殊な用具が使われる。 世界中の100以上の研究実験室がこの試料に関する研究を実施しており、毎年およそ500点の試料が用意され、研究者に発送されている。 1969年11月にニクソンは、135か国とアメリカ合衆国の50州および属領、ならびに国際連合に贈呈する ()を約250点作るよう、NASAに依頼した。 各展示品にはアポロ11号が持ち帰った月の塵が含まれていた。 米粒程度の大きさの粒子は月の土の4つの小片で、重さは約50ミリグラムあり、と同じくらいの大きさの透明なアクリル製のバッジに覆われていた。 このアクリル製のバッジによって月の塵の粒子は拡大されて見えるようになっている。 アポロ11号の月試料展示品は1970年にニクソンより親善の品として贈呈された。 受動的地震実験(Passive Seismic Experiment、PSE)の実験装置は、1969年8月25日に地上局からの指令アップリンクが使えなくなるまで運用された。 ダウンリンクは1969年12月14日に途絶えた。 2018年時点で、(Lunar Laser Ranging experiment)は運用が続けられている。 40周年記念行事 [ ] メアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫で修理中の「コロンビア」 2009年7月15日には、同誌の写真家だった ()がアポロ11号の打ち上げに先立って撮影した宇宙飛行士の未公表写真をウェブ上の写真ギャラリーで公開した。 2009年7月16日から24日まで、NASAはアポロ11号ミッションで流れた本物の音声を40年前の月飛行の実時間に合わせてストリーミング配信した。 さらに、当時のビデオフィルムの復元作業が進められており、重要な場面を集めた予告編が公開されている。 2010年7月、アポロ11号が月へ降下して着陸するまでの間に宇宙から地球に伝送されたミッション管制センターの音声録音とフィルム映像が再同調され、初めて公開された。 ()は、アポロ11号が打ち上げられてから月に着陸するまでの交信記録を再放送するウェブサイトを立ち上げた。 2009年7月20日、アポロ11号の搭乗員だったアームストロング、オルドリン、コリンズの3名は、ホワイトハウスで大統領と面会した。 オバマは「私たちが話しているように、向こうで空を見上げる別世代の子どもたちが、次なるアームストロング、コリンズ、オルドリンになろうとすることを期待しています」と述べ、「彼らが(月への)旅路につきたいとき、彼らのためにNASAがそこを目指していることを確実にしておきたい」と加えた。 2009年8月7日、合衆国議会の法令により、アメリカで文民に贈られる最高位の賞であるがこの3名の宇宙飛行士に授与された。 この法案は、フロリダ州選出の上院議員と、同じくフロリダ州選出の下院議員 ()に支持されたものだった。 イギリスの科学者グループは、40周年記念行事の一環として行われたインタビューで、月面着陸の意義に反応して次のように答えた。 詳細は「」を参照 アポロ11号の月面着陸は人類史にとって輝かしい成果を残したが、その一方で、これがねつ造であったとする主張がある。 このを信じる者は世界中に数多く存在しており、ねつ造であったと実証を試みるウェブサイトも数多くある。 彼らが唱える主張は以下の通りである。 アポロ11号の月面着陸は嘘であり、その様子とされるやは、ので撮影された。 にはアポロのような途方もない計画を成功させる技術的ノウハウはなかった。 だったらで焼かれて死んでいるはずなので、月面に着陸していたとしてもそれは人間ではなかった。 月面着陸にはが関与しており、宇宙飛行士らが発見したのと共に隠ぺいされた。 月面での活動の様子とされる写真やビデオ映像におかしな点がいくつもある。 これらの主張は、によってされており、誤りであることが明らかになっている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 徽章内には宇宙飛行士名を入れるのが以前からの通例となっており、これはその後のアポロや、などでも行われているため、今回は異例の措置となった。 うち3つ(宇宙飛行士1人につき1つ)が打ち上げ前に「コロンビア」に、2つが「イーグル」に積み込まれた。 後に ()と命名された。 空電とは、雷などの大気中の放電によって生じる電磁波で、ラジオなどの受信機の雑音の原因となる。 機密情報の取扱許可• 旅程《ワシントンD. /米国(9月29日)—メキシコシティ/メキシコ(9月29日-30日)—ボゴタ/コロンビア(9月30日-10月1日)—ブラジリア/ブラジル(10月1日)—ブエノスアイレス/アルゼンチン(10月1日-2日)—リオデジャネイロ/ブラジル(10月2日-4日)—ラス・パルマス/カナリア諸島(10月4日-6日)—マドリード/スペイン(10月6日-8日)—パリ/フランス(10月8日-9日)—アムステルダム/オランダ(10月9日)—ブリュッセル/ベルギー(10月9日-10日)—オスロ/ノルウェー(10月10日-12日)—ケルンとボンとベルリン/西ドイツ(10月12日-14日)—ロンドン/英国(10月14日-15日)—ローマ/イタリア(10月15日-18日)—ベオグラード/ユーゴスラビア(10月18日-20日)—アンカラ/トルコ(10月20日-22日)—キンシャサ/ザイール(10月22日-24日)—テヘラン/イラン(10月24日-26日)—ボンベイ/インド(10月26日-27日)—ダッカ/東パキスタン(10月27日-28日)—バンコク/タイ(10月28日-31日)—パース/オーストラリア(10月31日)—シドニー/オーストラリア(10月31日-11月2日)—アガナ/グアム(11月2日-3日)—ソウル/韓国(11月3日-4日)—東京/日本(11月4日-5日)—アラスカ州アンカレッジ・エルメンドルフ空軍基地/米国(11月5日)…(それから間隔を空けて)…オタワとモントリオール/カナダ(12月2日-3日)》• 「白んぼ」とは黒人が白人を指して呼ぶ蔑称(差別用語)。 下記に記す主張はアポロ計画陰謀論のごく一部であり、下記以外にも無数にある。 詳しくは当該記事を参照。 出典 [ ]• The Apollo Program. 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