五木寛之 大河の一滴 あらすじ。 『大河の一滴』五木寛之

大河の一滴

五木寛之 大河の一滴 あらすじ

正解一受けたい授業に出てきた、五木寛之著の「大河の一滴」に出てくる老子の話。 哲学者である老子の弟子が老子に人生の真実について聞いた時のこと。 弟子「先生、人生の真実とは何ですか?」 老子は口を開けて「歯はあるか?」 弟子「いえ、全て抜けてありません。 」 老子「では、舌はあるか?」 弟子「もちろんあります。 」 老子「そういうことだ」 そう言って老子は去ります。 この意味について解説します。 要は「自分自身で考え、行動する事が真実にたどり着く方法」ということです。 歯は硬い、舌は柔らかい。 変化に応じて柔軟な思考をもったものが残るのであると。 老子がはっきりと答えを言わずに去った事で、弟子は「どういうことだろう?」 と考えました。 このことに関して、弟子は一つの答えを出します。 それは、 「美しくて硬い歯もいずれはなくなる。 しかし、ぐにゃぐにゃと見てくれは気持ち悪いが、柔らかい舌はいつまでも残り続ける。 つまり人生の真実というものも、美しく立派で確固たるものよりも、見た目は悪くても柔軟なものが残る。 」 というものです。 老子は何も言いませんでしたが、これは紛れもなく弟子が考え、導き出した一つの答えです。 この「考える」ということこそが、人生の真実だと老子は言いたかったのです。 自分自身の人生なのだから、誰も答えを知りません。 その答えは自分自身が日々柔軟に考え、行動した先にあるのだと、老子は言いたかったのです。

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五木寛之の『大河の一滴』を読んだ

五木寛之 大河の一滴 あらすじ

「青春の門」「生きるためのヒント」 「親鸞」など 五木寛之氏の著書はたくさんあり、 賞も受賞されています。 五木氏は1932年福岡生まれ、 戦争、引きあげを体験されているおひとりです。 本書は 大ロングセラーになっていて 今でも読み継がれています。 この本の他にも 「古寺巡礼」など 映像化もされている作品もあります。 お寺が好きな人は少なからず古寺巡礼という 作品を聞いたことがあるのではないのでしょうか。 著書は 仏教への造詣も大変深く 「大河の一滴」も親鸞などが登場し 仏教の教えなども交えながら、 話が進められていきます。 キリストや科学者、親鸞の教えも含め、 生き方、何を伝えるかなど 読者にも問いを投げかける作品となっています。 『大河の一滴』はまさに、 新型コロナの不安を生き抜く私たちにとって 生きる希望と勇気を見出してくれる一冊であり、 だからこそ飛ぶ鳥を落とす勢いで 売れているのでしょう。 なんとか前向きに生きたいと思う。 しかし、プラス思考はそう続かない。 そういう人々へむけて、著者は静かに語ろうとする。 「いまこそ、人生は苦しみと絶望の連続だと、あきらめることからはじめよう」「傷みや苦痛を敵視して闘うのはよそう。 ブッダも親鸞も、究極のマイナス思考から出発したのだ」と。 この一冊をひもとくことで、すべての読者の心に真の勇気と生きる希望がわいてくる感動の大ロングセラー、ついに文庫で登場。 「私は自殺を考えたことがある」という、 驚いてしまうような著者の言葉から 「大河の一滴」は始まります。 人生観、死生観、命の大切さなど 著者の思いや考えが書かれたエッセイ集です。 仏教の教えに 「生老病死」という言葉があります。 人生において「生まれること」「老いること」 「病むこと」「死ぬこと」 は 4つの苦とされているという 意味の仏教用語です。 人は生きているうちは、 この4つから逃れることはできない、 それならばどのように、 どのような考えで人生を生きていくか 著者は考えを述べています。 さらにはこの世に生まれてくる 命のひとつひとつは 「大河の一滴」に過ぎず、 多数集まって大河を流れいつしか海に注ぐ。 その一滴は2度とこの世を生きることはない、 かけがえのない一滴と表現しています。 この一滴である かけがえのない命を どんな形で全うしていくか、 たくさんの例や仏教の教えをもって 紹介してくれています。 文章も内容もとてもわかりやすく、 著者そのものが語りかけてくれるような 印象をもつ本になっています。 スポンサーリンク いつかは海へ注ぐ一滴となる 「人はみな大河の一滴である。 その流れに身をあずけて、海へと注ぐ大河の一滴が私たちの命だ。 私たちの生は大河の流れの一滴にしか過ぎない。 しかし無数の一滴たちとともに大きな流れを成して、確実に海へと注ぐ」 という文章が本文の中にあります。 この文章こそ大河の一滴という意味の 核心だと思います。 しかしこれだけだとさっぱり 意味が解らない方もいると思います。 そこでたくさんの例を用いて説明をしてくれています。 人は生まれてから死に向かって進んでいる と著者はいいます。 死に向かい進んでいるということは、 よく考えると当たり前のことと思いますが、 このことを意識して毎日を生活している人は そんなに多くないと思います。 空から一滴の水として現世に生れ落ち、 人生という川の流れに他の無数の一滴たち とともに身を任せて、 いつかしら海(あの世)へと注いでいく。 このように考えるとこれから海へ と向かっていく道のりを、 どのように生きていけばよいか 考える 道しるべのひとつとすることができます。 スポンサーリンク 「生きているだけでもうけもの」は本当かもしれない 「どのように生きたかということも大切だけど、 それは2番目3番目でよい。 生きているだけで人間は大きなことを成しとげているのだ」 と著者は説明しています。 その説明には「ライ麦」の話を用いていて印象に残り、 なるほどと思わせてくれました。 人は生きているだけで 体の中の何万もの細胞が それぞれの役割を果たしてくれています。 息を吸う動作だけで何万の細胞が活躍して くれているのでしょうか。 その 神秘的な行為をしながら私たちは生きています。 人は何を残したか、 何ができたかばかりに目が行きがちで、 できない人は自信を失ってしまうこと も多いのが現状です。 しかしそんなことはなく 「生きていること」そのことだけで すごいと著者は言ってくれています。 大河の一滴として大海原に到着するまで、 どのような道のりになるのか 考えさせられる本となっています。 スポンサーリンク 五木寛之『大河の一滴』映画版 五木寛之氏の 『大河の一滴』は、 東宝で映画化されています。 2001年9月1日に公開されました。 女優の安田成美さん、 俳優の渡部篤郎さん、三國連太郎さんら 豪華俳優陣が出演しています。 五木寛之の同名エッセイを映画化した人間ドラマ。 著者本人が原作のエッセンスをストーリー化し、巨匠・新藤兼人がそれを脚本にまとめ、神山征二郎が監督した。 2月のロシア。 観光に訪れた雪子の心にツアー・ガイド、ニコライの笑顔が深く刻まれる。 10月、東京。 輸入雑貨店で働く雪子はニコライがトランペットのオーディションのため、来日していることを知る。 ニコライに特別な感情を抱きながら彼を応援する雪子のもとに、故郷金沢から父伸一郎が倒れたとの知らせが届く……。 大河の一滴と言えば、小学生の頃、父に連れられて、アニメ以外の映画を映画館で初めて観た思い出。 周りは子供はおろか40代以上の方しかおらず、何故に父は子供を連れて観に行ったのか子供ながらに不思議に思いましたが、そのことがきっかけで映画にはまった私の中での良い分岐点です。 — エンダァ junclucy 少し前に 『大河の一滴』という 書籍と 『大河の一滴』という 映画があった 良い作品だったよ。 — 閑人(かんじんorひまじん) azumainari.

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五木寛之はコロナ騒動を予言していた!?「大河の一滴」の内容を紹介!【世界一受けたい授業】

五木寛之 大河の一滴 あらすじ

大河の一滴 著者:五木寛之 初版:平成10年4月15日 発行所:幻冬舎 先日とあるテレビ番組で約20年前に出版されていた本書「大河の一滴」が紹介されていました。 興味を持ったので、以前父だったか母だったかが読んでいたことを思い出し、実家の本棚から本書を引っ張りだして読んでみることにしました。 20年も前の本なのですが、そこに書かれていたのは、今の時代を生きるヒントにつながり、自分自身、共感できることも多かったので、まとめてみようと思います。 ちなみに、本書は267ページもありますが、ラジオ深夜一夜物語の部分などは、現代とマッチしないところも多く感じられましたので時間の無い方は、冒頭の人は「みな大河の一滴」「滄浪の水が濁るとき」だけでも読むだけでも良いように感じました。 私がこの本から学んだこと• 人間はみな「大河の一滴」であり、特別な自分など存在しない• 人生は苦しみと絶望の連続であると肝に銘じる• 何も期待しないという覚悟で生きる• 「生老病死」生まれたからには必ず老いて、病を得て、いずれ死ぬ• 「地獄は一定」世の中はデフォルトで地獄であると諦める 「人生は苦しみと絶望の連続である」 p13~ 人は生きていく中で耐えがたい苦しみや、思いがけない不幸に見舞われることがしばしばあるものだ。 まず、人生というものはおおむね苦しみの連続であるとはっきりと覚悟すべきなのだ。 むかしの人は、そのことを「人生とは重い荷物を背負って、遠い道のりを歩いてゆくようなものだ」というような言い方をした。 たかだが三、四百年の時が経過したぐらいで、人生のありようが変わるはずがないではないか。 人生の苦しみの総量は文明の進歩と関係なく一定なのだ。 前向きに生きることは悪いことではない。 プラス思考でおのれを励まし、人間性を信じ、世界の進歩を願い、ヒューマニズムと愛をかかげて積極的に生きることも立派な生き方である。 しかし、一方で現代の人間の存在そのものを悪とみて、そこから出発する生き方もあるのではないか。 「人が生きるということは苦しみの連続なのだ」と覚悟することから出直す必要があるのではないか。 「ブッタは究極のマイナス思考から出発した。 」旱天の慈雨という言葉があるが、からからにひび割れ、乾ききった大地だからこそ降り注ぐ一滴の雨水が甘露と感じられるのだ。 暗黒のなかだからこそ、一点の遠い灯に心が震えるのである。 私たちは人生は明るく楽しいものだと最初から思い込んでいる。 中略 「人は泣きながら生まれてくるのだ」赤ん坊の産声は恐ろしくて不安でならない孤独な人間の叫び声なのだ。 「泣きながら生まれてきた」人間、「生老病死」の重い枷をはめられた人間。 そのような人間の一人としての自分がそれでも豊かに、生き生きと希望をもって生きる道があるのか?人生は苦しみの連続である。 人間というものは地球と自然にとって悪をなす存在である。 人は苦しみ、いやおうなしに老い、すべて病を得て、死んでいく。 私たちは泣きながらに生まれてきた、そして最後は孤独のうちに死んでいくのだ。 なにも期待しないという覚悟で生きる p18~ そのような覚悟をもって生きることを著者は述べている。 なにも期待していないときこそ、思いかけず他人から注がれる優しさや小さな思いやりが<旱天の慈雨>として感じられるのだ。 そこにおのずとわきあがってくる感情こそ、本当の感謝というものだろう。 親切になれてしまえば感謝の気持ちも自然と消えてゆく。 他者と自分の関わりのなかで、一時的ではあれ連帯感のようなものが成立する瞬間があったとしたら、それは素晴らしいことだ。 私たちはそのことを奇蹟に出会ったように感動し、感謝すべきである。 そして、この世にはまれにそういう瞬間が成立しうるのだという記憶を深く心に刻みつけておこう。 「小さな人間像への共感」 p20~ 私たちはふたたび、人間はちっぽけな存在である、と考え直してみたい、だが、それがどれほど小さくとも、草の葉の上に一滴の露にも天地の生命は宿る。 それから降った雨水は樹々の葉に注ぎ、一滴の露は森の湿った地面に落ちて吸い込まれる。 そして地下の水脈は地上にでて小さな流れをつくる。 やがて渓流は川となり、平野を抜けて大河に合流する。 その流れに身をあずけて海へと注ぐ大河の水の一滴が私たちの命だ。 濁った水も、汚染された水も、すべての水を差別なく受け入れて海は広がる。 やがて太陽の光に熱せられた海水は蒸発して空の雲となり、ふたたび雨水となって地上に注ぐ。 人間とは常に物語をつくり、それを信じることで「生老病死」を超えることができるのではないか。 自殺するしかない人は、そうすればよいのだ。 死のうとして死ねないときがあるように生きようと努力してもそういかない場合もあるからである、だが、大河の一滴として自分を空想するようになったとき、私はなにもわざわざ自分で死ぬことはないと自然に感じられるようになってきたのだ。 「地獄は一定」と思いたい p30~ 「一定」とはいま、たしかにここにある現実のこと、と読む。 救いがたい愚かな自己。 欲望と執着を断つことのできぬ自分。 その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きるいま現在の日々。 それを地獄という。 私たちはすべて一定、地獄の住人であると思っていいだろう。 死や、病への不安、差別する自己と差別される痛み、怒りと嫉妬。 極楽とは地獄にさす光であり、日々の暮らしのなかでも、一瞬、そのことがたしかに信じられる瞬間がある、それが極楽である。 しかし、極楽の時間だけが長く続くことは、ほとんどない。 現実に生きるとは、そのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず行き来しながら暮らすことだ。 そして「浄土へ往生する」という意味は、生前どのような人であったとしても、すべての人は大河の一滴として大きな海に還り、ふたたび蒸発して空に向かうという大きな生命の物語を信じることにほかならない。 「地獄は一定すみかぞかし」 親鸞 歎異抄より この「地獄は一定すみかぞかし」という親鸞の言葉の解釈として川村妙慶氏 僧侶 は次のように述べている。 地獄こそが最高の居場所であり、極楽の門が開かれているのだから、力を抜いて自分の人生を楽しみみなさい、そうすると地獄であろうと極楽と気にならなくなる。 それが気楽ということだ。 どんな出来事も「このことには何かある」と自分の人生を愛でることで、地獄と思ったことが極楽に転換していく。

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