和田アキ子 デビュー当時。 和田アキ子の身長は何センチ?サバ読みしてるって本当なの!?

和田アキ子の生い立ちが壮絶!父親の暴力と叔父の逮捕・韓国人から帰化した経緯まとめ|KININARU JORNAL

和田アキ子 デビュー当時

スポンサーリンク 81年、31歳の時に現在の夫・飯塚浩司さんと再婚したが、 再婚1カ月後に子宮がんと宣告された。 「(子宮を)全摘出しないとダメ」「子供は一生産むことができない」と医師から告げられ、「本当に気が狂うぐらい泣いた」という。 和田アキ子さんにはお子さんはいらっしゃいませんでした。 その理由は彼女が子供が欲しいと思った時、なんと 子宮癌だと宣告されていたからでした。 医者から命を守るためには 子宮を全摘出しないとダメと言われた和田アキ子さん。 彼女にとって子供は絶対に欲しい存在だったため、本当に気が狂うと思うくらい泣きまくったんだそうです。 31歳の時に子宮がんを宣告され、子宮を全摘出。 「子供がほしかった」と号泣 命に別状はないものの子供が産めなくなる体になったことときのことが伝えられた。 戸惑う和田の姿を横目に、 飯塚はすぐ手術の同意書にサインをしたため、和田は思わず「子供を産めなくなるねんで。 あんたに女の気持ちが分かるか」と激怒したという。 そして、「もう別れてもええ」と言った和田に、 飯塚は「子供のために結婚したんじゃない。 アコ(和田)が好きなんだ」と告げたという。 「 (子供が産めないと分かって)山の中に行って、浩司の精子で浩司の子供産んで」と母親に頼んだことを明かした。 母親は「 半狂乱になってた、オカン」と壮絶な思いをしたことを明かしていた。 子宮を全摘出すれば命に別状はないと言われた和田アキ子さんでしたが…。 どうしても子供が欲しかった和田アキ子さんは、 手術同意書のサインを渋ったそうです。 しかし隣にいた旦那様は手術することを即決。 しかし子供を諦められなかった和田アキ子さんは、 旦那様の精子をお母さんのおなかの中に入れて子供を産みたいと頼んでいたこともあったんだそうです。 私は個人的には子供がいるかいないかは人生の全てではないと思っています。 自分の母に大変な思いをさせるくらいなら子供はいなくていい…そう思ってしまうのです。 和田アキ子さんは なぜそこまでして子供が欲しかったのでしょうか…。 和田アキ子の子供いないエピソードは世間でも大反響 和田の知られざる壮絶な過去に、スタジオで聞いていた菊地亜美や川田裕美は涙。 ネット上でも、「和田アキ子さんのテレビに 涙 」 「旦那さんとの馴れ初め再現VTR見て号泣…」 「和田アキ子の、子宮摘出のお話、子供が欲しかった、と 涙目で語るアッコさんを見て泣いた」 と涙したという声が多く上がり、「和田アキ子の夫婦愛の話ですさまじく号泣した」 「和田アキ子の話で大号泣…旦那さんが素敵すぎて、 こんな夫婦が理想の夫婦やね」 「和田アキ子の夫婦素敵だ」と夫婦愛を称賛する声も上がっている。 和田アキ子さんがお母さんに頼んでまでも子供が欲しかった理由…世間から集められた声などを読んでいると…。 それだけ 旦那様を失いたくなかった…。 子供がいなければ また離婚されてしまうかもしれない。 彼との子供がどうしても欲しい…そんな気持ちだったのかなと想像しました。 和田アキ子さんは子供はいないかもしれませんが、旦那様に愛されるという 最高の幸せの1つを掴んだ幸せな女性だと思います。 和田アキ子に養子はいない!しかし和田アキ子は叔父の養子になっていた!その経緯は? 和田アキ子さんの叔父さん(父の弟)の名前は、和田忠浩さん。 実は、忠浩さんは、 アッコさんの戸籍上の「父」に当たります。 これは、 芸能界にデビューする時に、在日韓国人だとわかる名前をまずいと思った実父が、いち早く帰化して「和田」姓だった叔父の養子にしたためです。 忠浩さんは、金融業や不動産業を手広く展開しており、 漫画「ミナミの帝王」のモデルになった人物とされていました。 そして、この金融業を通じて、何と 俳優の藤田まことさん夫妻にも5億円を超える貸出金があったことが分かっています。 子供が出来なかった和田アキ子さんは養子縁組をしたのかなと思いましたが…。 実は養子になっていたのは 和田アキ子さん本人でした。 現在の若い人たちは なぜ在日韓国人が韓国人であることを隠すのか?? その理由を知らない人も多くなったと思います。 しかしかつては在日韓国人だと分かると 差別されていたことがありました。 芸能界デビューする娘が在日韓国人だとわかると売れなくなるかもと思った実の父親がいち早く帰化した叔父の苗字を名乗れるよう養子縁組していたのです。 なぜ在日韓国人の人が自分たちの隠すのか…それを責めるよりも… 隠さなくていい時代が来ることを願っています。 スポンサーリンク 和田アキ子には2度の結婚歴あり!元夫と現在の夫(旦那)の名前や職業についてご紹介! 現在は2度目の結婚! 和田アキ子さんの旦那さんというと、和田アキ子さんの個人事務所でもあるエーアンドケイの代表取締役社長を務めている 飯塚浩司さんです。 しかし、実はその前に 1度結婚していたのです。 和田アキ子さんがどうしても子供が欲しいと願った相手、それは現在の旦那様飯塚浩司さんですが…。 実は和田アキ子さん彼の前に 元マネージャーの男性と結婚していたことがありました。 元夫:マネージャーの小林甫 1976年に、当時マネージャーだった小林甫さんと結婚をしています。 同棲生活5年を経ての結婚。 当時は、公私ともに和田アキ子さんを支える存在だったんですね! 上の画像の 結構ハンサムな男性が和田アキ子さんの元マネージャーです。 5年間の同棲生活を経て結婚されたということですが、和田アキ子さんはテレビで言われているよりも もっとずっとモテた女性なのかもしれません。 離婚理由は何だったの? 結婚したことを機に、 小林甫さんは和田アキ子さんの担当マネージャーを外れることになりました。 今まで公私ともに生活を共にしていた二人ですが、 すれ違いが多くなり別れを決意するまでに。 2人の離婚理由は何だったのかと言うと、結婚後マネージャーを辞めさせられていた和田アキ子さんの旦那様は次第に和田アキ子さんと 会う機会が少なくなってしまったそうです。 マネージャーを続けていた方がうまくいっていたのかもしれませんね。 再婚相手の夫:カメラマンの飯塚浩司 和田アキ子の旦那である飯塚浩司の職業について調べてみた所、和田アキ子と結婚するまでは カメラマンをやられていたそうです。 現在はどんな仕事をされているのでしょうか。 現在の和田アキ子の旦那の職業について調べてみた所、 和田アキ子の個人事務所でもあるエーアンドケイの代表取締役社長をされているそうです。 さらに、和田アキ子がオーナー?をしているという 美容室の経営者とも言われています。 2番目の旦那様の画像が上の左の めちゃくちゃ優しそうな男性です。 結婚前まではカメラマンをされていたそうですが、現在は和田アキ子さんの事務所の社長、他には美容室の経営などもされているそうです。 最初はめちゃくちゃ強そうな和田アキ子さんという女性と結婚するなんてこの男性に一体何が起きたのか!?なんて思ってしまいましたが…実際はその反対! 和田アキ子さんと結婚したことで 飯塚浩司さんはとっても幸せな人生を送っていらっしゃるようです。 ちなみに、 会社名は夫婦2人の名前の頭文字からつけられたというエピソードがあります。 こういった会社名をみても2人の関係性の深さが見えてくるようです。 ビジネスパートナーとして大活躍する和田アキ子さんの現在の旦那様飯塚浩司さん。 ビジネスの方は大成功しているようで、 お2人は公私ともにとても仲が良いそうです。 和田アキ子さんという女性、私生活では旦那様を大事に立てる、凄く女性らしい方なのかもしれません。 和田アキ子の子供時代(子供の頃)のエピソードについて 天王寺区にある大阪市立真田山小学校を卒業後、私立城星学園中学校へ入学。 そのまま私立城星学園高校に進学するも 父親が勝手に退学届けを出したため、在学期間はわずか3日間で中途退学となった。 小学5年生の頃に洋楽に憧れ、 15歳の頃からジャズ喫茶やゴーゴークラブで歌い始める。 174cm(デビュー当時)の長身から発せられるパワフルな歌声は評判を呼び、ホリプロ(当時:ホリプロダクション)社長・堀威夫直々にスカウトされる、当時はグランプリズ(夏夕介が在籍)というバンドを組み、大阪と神戸三宮で活動していたが実際にデビューできたのはボーカルの和田とオルガンの夏のみであった。 芸名の「アキ子」の「アキ」がカタカナなのは、 本名(当時は通名)の「現子」が普通に読めないため、当時のホリプロの社長が付けた。 本名は当て字である。 そんなこんな調べていると和田アキ子さんという女性がとても気になったので、 子供の頃について調べてみることにしました。 すると高校に進学するも お父さんが勝手に退学届を出しなんと3日間でやめていたことがわかりました。 洋楽が大好きだった和田アキ子さんは15歳の頃からジャズ喫茶やゴーゴークラブで歌い始めます。 15歳で174CMだったと言われていますので、相当 大人っぽかったのではないかと思われます。 歌を続けていると芸能界からスカウトされた和田アキ子さん。 現在は68歳なのでなんと 54年間も歌い続けているということがわかりました!! 今後は喉の調子など、加齢で声が出なくなっていってしまうと思いますので…。 和田アキ子さんが歌うシーンは毎度 とても貴重なものになっていきそうです。

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和田アキ子の年収は?中学生で不良になった理由は?!和田アキ子がいじめられていた?!おぞましい芸能界の裏事情・・

和田アキ子 デビュー当時

和田アキ子 菊の花束事件とは? 和田アキ子さんが売れ始めるとイジメは、公の場でも起こっていました。 一番怖かったのは、レコード大賞を受賞した時に、「菊の花束」を渡されたことです。 1972年、11枚目のシングル「あの鐘を鳴らすのはあなた」が大ヒット。 「第14回日本レコード大賞最優秀歌唱賞」を受賞式で事件が起こりました。 他の歌手たちには「華やかな花束」が手渡される中、和田アキ子さんだけが「菊の花束」だったのです。 レコ大の関係者しか出入りができない状況で、すり替えられたのか?始めから用意されていたのかはわからないそうです。 和田アキ子さんの受賞を認めたくない、面白くないと思っていた誰かの仕業だったと言われています。 この時の事を、2019年8月30日放送の「金スマ」で本人が語っていました。 「背の高い女は売れない」こんな風に言われ続け、「男は出て行け」とイジメられ、耐えに耐えてきた。 ついに売れた!その喜びで、歌っている時は全く「菊の花束」だとは気づかなかった。 受賞が嬉しくて、嬉しくて、母親に「テレビ見てくれたか?」と喜びの電話をした時に、 「なんで、菊の花持って歌ってたの?」 と言われて、慌ててVTRを確認して、はじめて認識した。 自分をイジメた人を、今でも忘れないという和田アキ子さん。 幼少期には、父親からの虐待に耐え、現実から逃げるように芸能界入りをげ決意したそうです。 それなのに、芸能界でもイジメに耐えていたなんて壮絶すぎます。 バラエティにも挑戦をし、今では芸能界の重鎮として君臨していますが、苦労の連続だったのですね。

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和田アキ子 デビュー当時

デビュー前後のころ デビュー前は不良で、喧嘩ばかりしていたという武勇伝がある。 そのことをまず聞いてみた。 「すべて本当です(笑)。 盗みやクスリはしなかったんだけど、喧嘩ばかりしていた不良中の不良でした(笑)。 身体がデカイので、通りすがりに『ウワー、デカ!』とやじられる。 それで、何だよって鉄拳が飛び交うことになるんです。 強かったですよ(笑)。 ただ、『女番長』というのは東京に出てからマスコミが付けたものですけど」 和田さんは歌手になりたいと思ったことはなかったそうだ。 「子どもが大好きだったので、保母さん、今で言う保育士になりたかった。 でも親が猛反対。 『アカン、あんたはすぐ手が出るから絶対にダメ』と言われて。 『古い日記』は1974年2月25日に発売された18枚目のシングル。 「あの頃は ハッ!」というものまねで有名だが、随所に入る「ハッ!」という掛け声は、スティービー・ワンダーを意識したもの 中学に途中入学した時(そこは幼稚園から英語教育を取り入れていた学校)、『ハウ・ドゥー・ユー・ドゥー』という英語を初めて聞いて、これは何やろという感じ。 これはアカン、ハッタリをかまさなアカンと思い、レコード店へ行って洋楽のレコードを買って覚えて、それを学校で歌っていたらみんなビックリしました。 ジャズ喫茶やダンスホールへ行くと、そこで歌ってるのがあんまりうまくなかった。 『それなら歌ってみな、キーは?』と言われて、キーって何ですかという感じで、全く何も知らなかった。 その後、気に入ってもらってレギュラーで歌っている時に、ホリプロの創始者、堀威夫社長(当時)にスカウトされデビューしたんです。 デビュー曲はヒットしなくて、とてもショックでした。 それから、その年の新人賞が取れなかったのもとても悔しかった。 『大人の歌手、世界に通用するシンガーに育てたい』と会社も力をかけてくれ、絶対に売れると太鼓判を押してくれてもいたので…。 いつも『記録に残る歌より、記憶に残る歌を歌いたい』と言ってるんですが、新人賞は欲しかった。 一生に1度しかチャンスがないじゃないですか、新人賞は」 デビュー曲はヒットしなかったが、次の『どしゃぶりの雨の中で』がヒット。 その後、4枚目となるシングル『笑って許して』が大ヒットし、その曲で1970年の『第21回NHK紅白歌合戦』にも初出場。 現在もホリプロに所属しているので、会社のことを聞いてみた。 「ホリプロとは10代から60代まで6世代にわたって付き合っていて、これだけ長くお世話になっているタレントも珍しいのでは。 昔は辞めてやる辞めないでくれなんて押し問答もありましたが、今は『辞めてくれって言われても辞めないぞ』と言ってます。 「当時、楽屋が個室じゃなかったので、女性歌手は全員が1室を共有するわけです。 私が一番新人だったのでイジメられましたね。 『今日は男がいるから着替えができないわ』とか、化粧品などを目の前で足蹴にされたり、当時黒のドレスを1着しか持ってなかったのですが、先輩の歌手が『私が黒のドレスを着るので、あなたは着ないで』と怒られたり。 関西弁が生意気と言われたり、お茶をひっかけられたり、それから私が大事にしていた白いバスケット・シューズに黒いマジックでバカと書かれたり、いろいろありましたよ」 「今紅白にも出て第一線に残っているのは和田さんくらい。 当時のそういう人とどこかで遭遇した時、『10倍返しだ!』とイジメ返してやろうとは思いませんか」と聞くと、 「(笑)。 私が先輩という立場になった時、こういうイジメだけは絶対にすまいと心に誓いました」 紅白歌合戦 紅白は連続出場と思っていたのだが、意外にも1979年に不出場になり、それ以来8年間続いていた。 「そうなんです。 皆さんそう思ってらっしゃる人が多いんですが、落ちてるんですよ。 落ちた時はそれはもう大ショックでした。 今でもその時のことはよく覚えています。 喧嘩もトラブルも起こしてないのに(笑)、何でという感じ。 で、暮れにはいつも外国へ行っていました。 『アッコさん、これは断る理由はないですよ』って。 その言葉がなるほどと思い気に入って、カムバックを果たしたんです」 紅白といえば、1998年に大トリでマイクなしで『今あなたにうたいたい』を歌い、感動のステージとなったのを外すことはできない。 「これは友達の加藤登紀子さんから25周年のお祝いにプレゼントされた曲なんです。 当時は、オペラから民謡までいろいろな音楽を聞いていたんですが、オペラ歌手の発声法を採用すれば、マイクなしでシアターの隅々にまで声が届くと分かり、自分のコンサートではファンの方への感謝の気持ちを込めていつもやっていたんです。 それをNHKの方が観ていて、ぜひやってほしいと頼まれたんです。 ただ、テレビで電波を通すことになると、いろいろな規制があって無理ですと渋っていたんですよ。 ものすごいパワーが必要で、10曲分くらいの力がいりますから。 紅白に対する現在のスタンス?出させていただくことは、とても名誉なことでありがたいと思っていますが、すべてではないです。 出ると決まればもちろんベストを尽くします」 46年を超えるキャリア戦 キャリアの中で1つのハイライトだと思われる、ニューヨークのアポロ・シアターでショーを持ったことを聞いてみた。 「30周年記念では、レイちゃんがわざわざ私のために日本へ駆けつけてくれたんです。 その時、40周年にも絶対来てねという話になり、そうだアポロでのショーもありだよねという会話があって…。 ただ、今でもアポロでのショーをなぜ実現できたのかは分からない。 あそこは黒人歌手の殿堂で、白人はダメだし、アジア人もダメですから。 選択肢として、アポロかカーネギーかというのがあったんですが、カーネギーはこれまで日本人歌手もやってますし、アポロで初めての日本人のショーをやりたいという強い希望がありました。 5キロも痩せました。 アポロに出場が決まって、禁煙し、ボイス・トレーニングもスタートし、歌に対して、いい時にいいことをやり出したなという感じがします。 「私はお酒もよく飲むし、平気で酔っぱらうし、たぶん大先輩から見ると非常に面白いキャラだったんでしょうね。 皆素敵な人で、ご一緒の時間はとても楽しかったですね。 最近亡くなられた千代っち(島倉千代子さん)もそうです。 私のことをアッコ先輩って呼ぶんです。 お友達になってほしいとおっしゃったんだけれど、自分より先輩から先輩なんて呼ばれるのは嫌だし『それじゃ、千代っち、バカやろうって怒鳴ってごらん』って言うと、『そんなこと言えません』というので、『じゃ友達になれない』って言うと、『じゃ言います。 バカやろう』って蚊の鳴くような声で言ってました(笑)。 とても可愛い人でしたね」 昔は大柄だったことがとても嫌だったそうだが、今は大きなプラスだと思っている。 「今、ドレスを着て歌う人は少ないんですよ。 でも、(私みたいに)手足が長いとドレス姿がステージでピタリと決まるんです(笑)。 これまでで一番嬉しかったこと?よく聞かれる質問ですが、今歌っていられることです。 一番悔しかったことは、それは遠い昔に忘れちゃいました(笑)。 芸能界はひと言で言うと虚飾の世界。 でも自分というものをちゃんと持っていれば、こんないい世界はないと思います。 70歳ぐらいになってまだ声さえ出ていれば、お腹が出ていようとお尻が垂れていようと、顔がしわくちゃでも、真っ赤なマニキュアをしてブルースを歌いたいというのが私の夢です。 日本では思いきり高いお金で、海外では小さいクラブで。 向こうでは一流のアーティストが、小さいクラブで前座的によく歌ってるんですよ」 大好きなゴールドコースト 和田さんは1997年に日豪親善のオパール・クイーンに選ばれ、大々的に発表される予定だったのだが、同時期にダイアナ妃が急死したため、あまり話題にならなかったとのこと。 また2006年にはゴールドコーストの親善大使に任命されるなど、オーストラリアとの関係は深い。 「長年の友達がゴールドコーストに住んでいて、とてもいい所だから1度いらっしゃいよと勧められていたんです。 それで行ってみたらすごく気に入って、別荘を買ったんです(ただしこの別荘は売却されており、現在は毎年の来豪は変わらないが、ホテルにステイしている)。 海が大好きで、キャプテン・クックの船が座礁したので有名な場所の海は最高。 近くにフライドチキンのショップがあって、そこでチキンを買って海を見ながら食べるのが最高なんです(笑)。 ゴールドコーストはリフレッシュの時間ですね。 ゴルフをしたり、コンラッドでギャンブルをしたり。 オーストラリア人はおっとりとした印象がありますが、芯は強い。 自分をちゃんと持っていて、その上で他人への思いやりがある。 一方で、ほっといてくれるというか自由にさせてくれる。 そういうところが大好きですね」 毎年来豪しているが、ゴールドコーストだけで、シドニーへは1度も行ったことがないそうだ。 「歌うということは和田さんにとってどういう意味を持ちますか」という最後の質問に、「私を表現できる唯一のもの。 私のすべて、命です。 歌と水がなければ死んじゃいます(笑)」と即答。 そして、本紙読者にメッセージをいただいた。 「オーストラリア人の良いところを取り入れながら、日本人の良いところを忘れないでくださいね。 そして、ゴールドコーストで私を見かけたら、日豪プレスの記事を読んだよって、声をかけてください」 インタビューが終わった後、用意していた45周年記念にリリースされたCDへのサインと握手をお願いした。 握手の際、和田さんは「大きい手でしょう」と笑った。 確かに指も長く大きな手だが、46年にわたって、歌い続けるためにマイクを握った手は、アーティストの手という印象を持った。 (本紙発行人 坂井健二).

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