大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立 意味。 大江山

百人一首『大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立』現代語訳と解説(掛詞/品詞分解など) / 古文 by 走るメロス

大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立 意味

『小倉百人一首』060 おほえやま いくののみちの とほければ まだふみもみず あまのはしだて 小式部内侍(こしきぶのないし) 女性 c. 999-1025 『金葉集』雑上・五五〇 「歌合せの 代詠の作品は、 丹後の国におられる母上の 和泉式部から、 もう届きましたか?」 とあなたはからかうけれど、 大江山越え 生野路の丹後への道のりは、 踏み越えて行くには遠いので、 私はまだ、御当地名物の 天の橋立を この足で踏みしめたこともなければ、 母から送られて来る手紙を 目にしたこともないのですよ。 【文法・修辞法】掛詞+縁語+歌枕... 「 大江山」は、実在の山だとしてもどの山を指すのかに諸説ありますが、意外にこれは「(学芸の家柄として有名な)大江氏」のことを指すのかもしれません:この歌はあの「 和泉式部(実家が大江氏)」に縁のある歌なので。 これは、天才歌人 和泉式部が、最初の夫( 橘道貞)との間にもうけた一人娘の 小式部内侍の歌。 彼女が、京の都の 歌合せに出ることになった時、「(二番目・・・数え方によっては三番目・・・の夫である 藤原保昌に従って 丹後の国に下っていた)母の 和泉式部が代詠するのでは?」と噂が立って、時の中納言の藤原 定頼(和歌の 大御所藤原 公任の息子で、「あさぼらけ・・・」の作者。 当時、 小式部内侍とは恋仲だった)が、「 丹後のお母上からの使者はもう帰って来ましたか?」と冷やかしたところ、彼女が 即興で詠んだのがこの歌、とされています・・・この話が真実だとしたら、母親譲りの「考えずとも口から 出任せに名歌がすらすら出て来る言葉の魔術師」(by紫式部)ですし、たとえ事前に用意していた歌だとしても、傑作である点に変わりはありません。 その才能を見込まれて、彼女もまた母の 和泉式部同様、藤原 道長の娘である 中宮 彰子の 後宮に 宮仕えに出ています。 「 小式部」という呼び名は、母である和泉の「式部」と区別するためのもので、言うなれば「ちびっ子和泉/和泉ジュニア」の感覚ですね。 そんな 小式部内侍、恋多き女としての男性遍歴でも母親譲りだったようで、藤原 教通との間に男児、藤原 範永との間に女児を 儲けていますが、三人目の夫藤原 公成との間に生まれた男児の出産の際に、二十八歳で落命してしまいます・・・四十八歳で娘に先立たれた母親 和泉式部の哀傷歌は、次のようなものでした: とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり 「この世に置き去りにしてしまった多くの 愛しい人たちの中で、あの娘はいったい、誰を一番痛切に想うのかしら・・・やはり我が子、でしょうね・・・私だって、一人娘を 亡くした今、痛いほどよくわかるもの・・・やはり、子を思う親の愛情こそ、どんな愛よりも強いものだったのだわ、と。 」 「恋多き」母娘としての 和泉式部/ 小式部内侍という脈絡で読んでください・・・残酷なまでに 波瀾万丈な彼女らの人生模様が、この歌をどれほど見事に盛り立てていることか。 逆に、この歌のおかげで、見ようによっては 醜聞まみれの彼女たちの恋愛遍歴が、どれほど見事な 昇華を果たしていることか・・・これぞ文学、詩の美学です。 あの世からこの世に未練を残しているであろう娘の思いが主役の前半部と、この世に残された母からあの世に旅立ってしまった娘へと注がれる和泉の 哀惜の視線の後半部が、真正面から向き合い、静かに深く対話しているようなこの詩文構成の見事さは、その構造美が下手をすれば生身の感情の激しい哀しさを 呑み込んでしまいそうなのに、そうはならずに美しく切ないのは、和泉が、頭で考える前に心が口をついて出て来る天性の詩人だったからこそ、でしょう。 とにかく、すごい母娘・・・ 和泉式部と 小式部内侍のお話でした。

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百人一首の意味と文法解説(60)大江山生野の道の遠ければまだ文も見ず天橋立┃小式部内侍

大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立 意味

山としての大江山 [ ] 全体を大江山連峰と呼ぶため大江山と呼ばれる頂上をもった峰があるわけではない。 連山には北東寄りから鍋塚(なべづか、763. 0メートル)、鳩ヶ峰(はとがみね、746メートル)、千丈ヶ嶽(せんじょうがたけ)、赤石ヶ岳(あかいしがたけ、736. 2メートル)と呼ばれる峰がある。 このうち、千丈ヶ嶽がで832. 5メートルの標高があり地方最高峰である。 千丈ヶ嶽には「千丈ケ岳」、鍋塚には三等三角点「大江山」、赤石ヶ岳には三等三角点「赤石岳」が設置されている。 登山口としては、、がある。 山腹にはのが広がり、稜線付近はや、山頂にはが広がる。 詳細は「」を参照 的には地球の深部から隆起した地層で()の岩盤を持つ。 金属鉱脈が豊富で周辺には金屋など金属にまつわる地名が多く見られる。 古くから鉱床があることは認識されていたが、大江山北西山麓の(旧)において日本火工(の前身)の子会社が(9年)に探鉱を開始し、低品位ながら無尽蔵の鉱石があることを確認した。 その後、(昭和13年)から(昭和15年)にかけて大江山の鉱石をする実験を試みた結果ついに成功し、1940年(昭和15年)からフル操業を開始した。 当初の製錬は大江山から遠く離れた石川県七尾の元セメント工場で行われたが、のための兵器製造に不可欠なを大量に確保するため大江山から近い、に面した(現在の)に新しい製錬所を建設し、そこへ専用鉄道(かつてのと日本冶金工業専用線)で輸送し、製錬した。 また大江山東側山麓の福知山市(旧)佛性寺には(こうもりこうざん)跡があり、により(6年)から(昭和48年)まで、および少量のの採掘が行われていた。 主な鉱石は、、、およびなどである。 大江山ニッケル鉱山跡 鬼退治伝説 [ ] 大江山には3つの退治伝説が残されている。 一つは、『』に記された、の弟の日子坐王()が(くぐみみのみかさ)を退治したという話。 二つめはの弟の()が英胡、軽足、土熊を討ったという話、三つめがとが活躍したことで知られる、有名な伝説である。 を参照の事。 これはの演目『』(五番目物の鬼退治物)にもなっている。 これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃鉱となった跡に(5年)(現在はの一部)によってが作られた。 なお、酒呑童子の本拠とした「大江山」は、この丹後の大江山であったという説のほかに、にあるとの境、山陰道に面した(おおえやま)という説もある。 鬼退治伝説の意味 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2014年1月) 大江山では鉱山技術により富を蓄積していた。 これに目を付けた都の勢力は兵を派遣、富を収奪し支配下に置いた。 このような出来事が元になり自分達を正当化、美化しようとの思いから土蜘蛛退治や鬼退治伝説が生まれたのではないかとする説もあり、が山賊化し非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もある。 なお、具体的な鬼退治伝説としては、「酒呑童子伝説」、「日子坐王の鬼退治」及び、「麻呂子親王の鬼退治」が有名である。 短歌 [ ] には「大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立」()という歌がある。 ここでの大江山は本項でのものとの大枝山をかけているとの説もある。 中腹に「」があり、館長は鬼の子孫と自称する人物であり、各地で講演など行っている。 脚注 [ ] []• 国土地理院. 2014年3月26日閲覧。 GNSS測量等の点検・補正調査による2014年4月1日の国土地理院『日本の山岳標高一覧-1003山-』における改定値。 なお、旧版での標高は833m。 2010年7月15日, at the. 川崎吉光 『大阪周辺の山250』 、2001年• 参考書籍 [ ] 1. 日本冶金工業社史編纂委員会編『日本冶金工業六十年史』(1985(昭和60)年、日本冶金工業).

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小倉百人一首 小式部内侍の和歌(短歌)の意味を解説

大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立 意味

【2000年12月10日配信】[No. 内侍は、 和泉式部の娘。 幼いときから天才的な歌才を見せた人ですが、あ まりに歌の出来がいいので、母の和泉式部の代作だろうと思われ ていました。 鬼退治で有名な丹 後の大江山とは別。 大枝山とも書く。 【いく野の道】 生野は、丹波国天田郡(現在の京都府福知山市字生野)にある 地名で、丹後へ行くには生野の里を通りました。 この「いく野」には「野を行く」の「行く」を掛けています。 【遠ければ】 遠いので、という意味です。 形容詞「遠し」の已然形に、確定 の助詞「ば」を付けています。 【まだふみも見ず】 「ふみ」に「踏み」と「文(ふみ)」つまり手紙を掛けた掛詞 (かけことば)です。 行ったこともないし、母からの手紙もま だ見てはいない、ということを重ねて表しています。 さらに、 「踏み」は「橋」の縁語でもあります。 小式部内侍の華麗なテ クニックが伺えるでしょう。 【天の橋立】 丹後国与謝郡(現在の京都府宮津市)にある名勝で、日本三景 のひとつです。 1000?〜1025)。 橘道貞(たちばなのみちさだ)の娘で、母親は和泉式部(「和 泉式部日記」で有名。 百人一首56番に収載)。 一条天皇の中宮彰子 (しょうし)に仕えました。 幼少時から才気を謳われ、この歌をめ ぐる定頼とのエピソードは非常に有名で、多くの説話集に収められ ています。 若くして逝去しました。 当時、小式部内侍は年少ながら非常に歌が上手いと評判でした。 しかし、あまりに上手なので、母の和泉式部が代作しているのでは ないかと噂が出るほどでした。 そこで、同じ歌合に招かれていた藤原定頼が、意地悪にも「歌は 如何せさせ給ふ。 丹後へ人は遣しけむや。 使、未だまうで来ずや」 と尋ねました。 つまり「歌会で詠む歌はどうするんです? お母様 のいらっしゃる丹後の国へは使いは出されましたか? まだ、使い は帰って来ないのですか」と、代作疑惑のことを皮肉ったのです。 そこで、小式部内侍が即興で歌ったのがこの歌です。 天の橋立 なんて」。 生野と行くと掛け、さらに「踏みもみず」と「文も見ず」を掛け た華麗な歌。 これを即興で詠むことで、小式部内侍は、これまでの 歌が全部自分の才能の賜であり、噂はデタラメであることをずばり と証明してみせたのです。 定頼はさだめし驚いたことでしょう。 今で言うなら、部長のセク ハラ発言を、ずばり自分の才知で切り返してしまった新入女子社員 といったところでしょうか。 このエピソードは非常に有名になり、後の多くの物語や研究書に も引用されました。 内侍が若くして逝去したことが惜しまれます。 現在の京都府宮津市の宮津湾にあり、3. 3キロにも及 ぶ細長い松林が、湾を塞いで伸びています。 この姿から、イザナギ ノミコトが天にかけた梯子が倒れたとの伝説を生み、平安期から幾 多の文人達が訪れました。 天橋立を望む笠松公園は、両足を広げて股の間から覗く「股のぞ き」の場所として有名です。 訪れる場合は、JR山陰線を乗り継ぎ、 宮津線天橋立駅で下車します。

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