ヨハネ パウロ 1 世。 フランシスコ (ローマ教皇)

ベネディクト16世 (ローマ教皇)

ヨハネ パウロ 1 世

枢機卿としての紋章 のの田舎貴族の家に生まれたジョヴァンニ・モンティーニはにされた。 などで学んだ後、の時代にの国務長官パチェッリのもとで働いた。 パチェッリ枢機卿が教皇に選ばれると後任の国務長官 ()枢機卿の下、モンティーニはや、時にイタリアを占領下においたのとの交渉など多くの困難な任務にあたった。 マリオーネ枢機卿が第二次世界大戦中のに死去すると、国務長官の代行としてモンティーニと ()が任じられ、反ドイツの保護に尽力する。 には要職であるのに任じられた。 通常は枢機卿へのステップとみなされる地位であったが、彼の権勢を嫌ったピウス12世はモンティーニには枢機卿職を与えなかった(彼はピウス12世の有力な後継者とみられていた)。 ピウス12世が亡くなってヨハネ23世が教皇職につくと、すぐさまモンティーニは枢機卿に任命された。 教皇 [ ] 訪れた国 「旅する教皇」といわれたパウロ6世は「初めて」づくしの教皇でもあった。 教皇として初めて5大陸をめぐり、初めてを利用した教皇となり、初めて聖地に足を踏み入れた教皇にもなった。 (教会の一致)にも心を注ぎ、教皇として初めてのや、のたちを訪問、のとも会談した。 また、パウロ6世時代に枢機卿団の人数が増やされ、80歳以上の枢機卿のでの投票権を廃するなど教皇選出の方法の改革が行われた。 精力的に活動し、全世界を旅したパウロ6世は第2バチカン公会議後の新しい教皇像を示した。 パウロ6世はにので死去したが、パウロ6世の示した「現代の教皇」としての姿勢は、後継の教皇たちに引き継がれていった。 列福・列聖 [ ] パウロ6世の死から36年後のに、教皇によってされた。 胎児の脳腫瘍が消えたのが彼の執りなしによる奇跡と認められたのだった。 列福式には前教皇も出席した。 2018年3月6日、フランシスコはパウロ6世を含む福者5名のに必要な奇跡を認め、教令の発布を承認した。 5月19日には福者6名の列聖が決定し、10月14日にバチカンで列聖式が執り行われることを発表。 予定通り同日に教皇フランシスコによって福者7名 の列聖式が執り行われ、パウロ6世は聖人であると宣言された。 この結果、ヨハネ・パウロ1世以外の、20世紀後半に着座した教皇全員が聖人となった。 替え玉説 [ ] いくつかの写真を提示し、鼻の形や位置、耳の形の違いによって途中から替え玉がいたのではないかと疑義を示す者がいる。 本物と替え玉を目撃したという証言がある。 中には声紋の違いを指摘する者もいる。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 『20世紀全記録 クロニック』、、企画委員。 、1964年1月4日、p. 928。 なお、アシナゴラスと会談したのは1月5日。 カトリックと正教会の会談は1439年以来525年ぶりである。 、バチカン放送局日本語版、2014年10月19日付け。 「」『』。 2018年10月14日閲覧。 「」『』。 2018年10月14日閲覧。 「」『』、2018年7月25日。 2018年10月15日閲覧。 「」『』、2018年10月14日。 2018年10月15日閲覧。 「」『』、2018年10月14日。 2018年10月14日閲覧。 www. tldm. org. 2018年10月14日閲覧。 imposterpope. tripod. com. 2018年10月14日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 総裁.

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パウロ

ヨハネ パウロ 1 世

ヴィットリオ・ヴェネト司教時代(1964年) にフェルトレの神学校に入ったが、後にベッルーノ教区のに移って学んだ。 にベッルーノの聖ピエトロ教会で司祭にされた。 後にはベッルーノ教区神学校の教授になり、その後にによってのに任命された。 司教に任命された後もサン・マルティーノにある粗末な古城に住み、質素な生活を続けた。 なお、この司教時代におこなわれたには、全会期を通じて参加した。 総大司教 [ ] にのに任命され、同地域の貧困層やの救済、さらにへの支援に尽力した。 なお、「聖職者にならなければになっていた」とよく周辺に話しており、実際にこの頃からやへの投稿を数多く行うなど、積極的に言論活動を行っていた。 そうした中でも清貧の精神を常に失わず、総大司教に任命された時には信者達からの100万の寄贈金があったが、「私がこの地に来た時はポケットに5リラしかありませんでした。 ですから去る時も5リラしか持ちません」と語り、全額を寄付した。 これに対してルチャーニ総大司教はバチカンに抗議をしたものの、マルチンクス大司教がから直々にバチカン銀行総裁に任命されていたことから、パウロ6世へ累が及ばないように巧みに抗議を行ったことなどがパウロ6世に感銘を与え、パウロ6世からの信頼を勝ち取った。 この事も影響し翌年のにはに選ばれた。 教皇 [ ] 「ヨハネ・パウロ1世」 [ ] 教皇就任後にバチカンのバルコニーから演説するヨハネ・パウロ1世(1978年) 1978年にパウロ6世の死去を受けて行われたにおいて、「本命」と目されていたジュゼッペ・シーリ枢機卿や出身のアロイージ・ロシャイデル枢機卿を退け、1日目の3回の投票でアルビーノ・ルチャーニ枢機卿が新教皇に選ばれた。 教皇名は「ヨハネ・パウロ」となり、複合名を初めて採用した教皇となった(これはとパウロ6世前教皇の改革路線を継承するという意志の表れとも言われる)。 また通常初めての名前には2世が表れるまで「1世」と付けないのが通例であったが、就任当初から「ヨハネ・パウロ1世」を自ら名乗っている。 これには「ヨハネとパウロという法王名を組み合わせた初めての例だから」「(バチカンの)刷新の思いを込めた」などの説がある。 改革 [ ] ヨハネ・パウロ1世は様々な意味で型破りな教皇であった。 複合名を初めて採用したことを皮切りに、虚飾的な事柄に対して非常に改革的に臨み、例えば、教皇演説の中で、これまでの教皇が伝統的に自らを「」と呼んでいたのを初めて「私」に変えた他、豪華な教皇やも拒否した。 教皇用のの使用も拒否したが、これは周囲の圧力で使わざるを得なかった。 さらに、難解な宗教用語やラテン語を多用していた表現を、やなどを引用した、一般人にも理解しやすい平坦な表現へと改めたが、「威厳を損なう」などとして保守派からは反感を買うこととなった。 また、や諸国の聖職者をバチカンの要職につけた他、中南米やアフリカ諸国の貧困や独裁体制下で苦悩する民衆への同情を示し、で行われていた「」を進めていた(上記の「ロッジP2」は同大統領を支援していた」)が戴冠式に訪れた際には、直接的な表現でアルゼンチンの現状を非難した。 避妊の解放 [ ] ヨハネ・パウロ1世は、避妊についての禁令を解くつもりでもあった。 9月23日日曜日、ローマ司教の職権によりサン・ピエトロ大聖堂を受け継いだヨハネ・パウロ1世は、の市長と握手を交わし、ミサの後、教会の真の宝である貧しい人々のためには尽力するが、悪人に対しては教皇の教権を憚ることなく行使すると宣言した。 アメリカの幾つかの教会とは既に接触を持っていた。 教皇に選出される直前、アメリカ議会代表団を歓迎し、避妊について女性の排卵期について語った後「どうして妊娠しない期間を、24日から28日にすると罪になるのか、私には理解できません」と述べた。 そして、パウロ6世による旧来の産児制限反対を再確認する回勅『 人間の生命について〔フマナエ・ウィタエ〕』は誤りだったと口にしていた。 「神からの贈り物である子供が出来ないようにする行為は罪である」とするそれまでの主流派に反して、「本当に子供を望んでいる女性のみが妊娠すべきである」との 避妊擁護の考えを持っていた。 バチカン銀行の改革 [ ] リーチオ・ジェッリ(中央)とジュリオ・アンドレオッティ首相(左) 就任後間もなくバチカン銀行の不透明な財政についての改革を表明し、実際に、かつてカトーリカ・デル・ベーネト銀行の売却で暗闘し、その後も「ロッジP2」の代表を含むメンバーや、マフィアなどと深い関係を持ち汚職を続けていただけでなく、偽造公債の発注がの捜査対象になるなど、その言動が国際的にも問題視されていたマルチンクス総裁の更迭を決めていた。 急逝 [ ] 教皇在位33日 [ ] 上記のような改革を表明したことが、多くのバチカン内の改革派と信者からの支持と喝采(そして対象者とその利害関係者からの抵抗と非難)を受けたにも関わらず、ヨハネ・パウロ1世は、教皇在位わずか33日目のの午前4時45分にバチカン内の自室で遺体となって発見された。 わずか33日の教皇在位は、20世紀に入ってから最短の在位記録となった。 「証拠隠滅」 [ ] 通常通りの起床時間になっても起きて来ないことを不審に思ったによって発見された直後に、個人秘書であるマギー神父に連絡が行き、さらに午前5時にはヴィヨ国務長官に連絡が行ったものの、ヴィヨ国務長官はすぐに専属医師団を呼ばず、自らの側近に連絡した後にようやく医師団次席であるレナート・ブゾネッティ医師に連絡を行った。 その後午前6時過ぎに駆けつけたブゾネッティ医師による検死が行われたものの、遺体解剖が行われていないにもかかわらず、ブゾネッティ医師は「死亡推定時刻は27日の午後11時ころで、死因は急性である」と断定し、午前7時27分にによる逝去の発表がされた際にはこの検死内容がそのまま発表された。 なおこの際には、なぜか(聖職者の私室に修道女ではあっても女性が入ってはいけないという理由で)遺体の発見者が個人秘書のマギー神父であると偽って発表され、さらに遺体発見時刻も「午前5時30分」と偽って発表された。 さらに死去後に、ヨハネ・パウロ1世の遺体発見時にベッド周辺に置かれていた眼鏡とスリッパ、就寝前に手元にあったヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教などのバチカン銀行関係者の更迭を含むバチカンの人事異動者リスト、通常は常時用意されている遺言状が、前日ヨハネ・パウロ1世より更迭が言い渡されたヴィヨ国務長官により持ち去られており、その後行方不明になった。 またヨハネ・パウロ1世の遺体が発見されてから15分と経たず、医師団への連絡も行われていない午前5時前には、早くもバチカン御用達の葬儀社であるシニョラッティ社に連絡が行った上に、遺体解剖も行われず、明確な死因もわからないうちから防腐処理が行われたことなど、バチカンによる「証拠隠滅」や「情報操作」と思われる行為が矢継ぎ早に行われたことが、信者やイタリア政界関係者、だけでなく、バチカン内部関係者からも大きな疑惑を呼んだ。 イタリアの有力紙である「」は、遺体解剖がすぐに行われなかったことをの紙面で大々的に批判した(なお、遺体解剖は防腐処理の終了後に秘密裏に行われた)。 「謀殺説」 [ ] ヨハネ・パウロ1世の棺 この様に、死後間もなく不可解な証拠隠滅や情報操作が行われた上に、ヨハネ・パウロ1世によるバチカン銀行の改革と自らの追放を恐れていたマルチンクス大司教が、普段は早朝に起床することがないにも関わらず、なぜか当日午前6時45分に教皇の寝室近辺にいたこともあり、ヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教、そしてマルチンクス大司教と関係の深かった「ロッジP2」のジェッリ代表、さらにこの2人と関係の深いアンブロシアーノ銀行のカルヴィ頭取らによる謀殺説が囁かれることになった。 このほかにもこれらの人物と近い関係にあったマフィアによる暗殺説もあり、マフィアとバチカン、イタリア政界の関係を扱った公開の「」のプロットは、この教皇の謀殺説をもとにしている。 また、2006年に発表され世界的ベストセラーとなったポルトガル人作家によるミステリ小説「」(新潮社刊・原題 O Ultimo Papa )は、この教皇謀殺と秘密結社「ロッジP2」との関連をテーマにしたものである。 葬儀 [ ] 葬儀ミサは同年に執り行われた。 「微笑みの教皇」といわれ、飾らない態度と柔和と謙遜、率直な姿勢が人々の信頼と期待を生み、さらにバチカン銀行の改革を表明していたこともあり、多くの信者からその死去を悲しむ声が聞かれた。 「英雄的な徳」を認定 [ ] 11月9日、バチカンはがヨハネ・パウロ1世の「英雄的な徳」を認定したと発表した。 ヨハネ・パウロ2世 [ ] 1978年10月に行われたで、次の教皇に選ばれたカロル・ヴォイティワは、「ヨハネ・パウロ1世の姿勢を継承する」という意味をこめて「」を名乗ることになる。 しかし、出身のヨハネ・パウロ2世はバチカンの事情に疎く、下において諸国に組み込まれた故郷のポーランドの民主化をはじめとする反活動に力を注ぎ、教義の面では保守的であったため、ヨハネ・パウロ1世が推し進めようとしたバチカン内の様々な改革は後退する結果となったとする見方もある。 その後のバチカン銀行 [ ] ヨハネ・パウロ1世の死去により改革が行われないままとなったバチカン銀行は、その後も主要取引銀行を介して度々マネーロンダリングなどの違法な取引にかかわったと指摘されている。 2代後の時代には、11月と9月の2度に渡り、バチカン銀行とエットレ・ゴッティ・テデスキ総裁が主要取引行の1つのクレーディト・アルティジャーノ銀行を介したマネーロンダリングを行ったとの報告を受けたイタリアの司法当局が捜査を行い、捜査の過程で2300万ユーロの資産が押収されている。 出典 [ ]• 2013年3月24日. 2013年3月24日時点のよりアーカイブ。 2017年11月20日閲覧。 『キリスト教と聖書の陰謀』〔原題: THE FIRST CHRISTIANS〕• 『カトリック新聞』2017年11月19日付。 MSN産経ニュース 2010年9月22日. 2010年9月25日時点のよりアーカイブ。 2011年1月10日閲覧。 参考文献 [ ]• Yallop, David. 1984. In God's Name. デイヴィッド・ヤロップ『法王暗殺』訳、、1985年。 "THE FIRST CHRISTIANS" , Maurice Chatelain モーリス・シャトラン『キリスト教と聖書の陰謀』訳、、1994年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 外部リンク [ ]• -67? -78? -91?

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今日は雨☂️ アジサイが首を垂れています。 ダンスパーティの中でヨハネパウロ2世が宝塚のトップスターのように咲いていますよ。

ヨハネ パウロ 1 世

1989年夏にまずポーランド、続いてハンガリーに共産色のない政権が樹立された。 その年のうちにあのベルリンの壁が取り壊された。 2年後の1991年には、共産主義の本丸だったソビエト連邦が解体に追い込まれた。 一連の東欧革命をリードしたのは、ポーランドだった。 民主的色彩の濃い労働組織「連帯」の存在もあったが、1978年に同国のカロル・ヴォイティワ枢機卿がローマ教皇ヨハネ・パウロ2世となった影響もある。 ポーランドは国民の98%がカトリック教徒である。 同国から教皇を輩出した喜びが、西側への傾斜を加速した。 ソ連が崩壊した時、ヨハネ・パウロ2世は言った。 「東欧の共産主義は消滅した。 しかしこれは、資本主義が共産主義に勝ったわけではない。 そのことをよく認識すべきだ」と。 1978年、新教皇の名が発表された。 『ボイティワ』という名を聞いた時、彼らは新教皇がどこの国の人なのか理解できなかった。 実に460年ぶりにイタリア人でない教皇の誕生である。 ポーランド人のヨハネ・パウロ2世その人だった。 ポーランドの国防相だったヤルゼルスキにとって大司教ボイティワは既に厄介な人物として知られていた。 公の説教でマルクス主義の正当性を何度も否定していたからだ。 彼はそのころ既に精神的レジスタンスの中心人物になっていた。 西側世界のローマ教皇という首長を戴いてネットワーク化しているカトリック教徒はソ連圏では最も不穏な存在である。 カトリックは自由世界と同義であり資本主義とも同義だった。 ポーランドの共産政権は、新教皇の誕生がはらむただならぬリスクを予感した。 クラクフではかつてない100万人もの大群衆を前にして教皇は『冷戦は永遠に続く訳ではない。やがて聖霊がやってきて事態を解放するだろう』と述べた。 群衆はこの勇気ある発言に勢いづいた。 1979年、ソ連のグロムイコ外相がバチカンに教皇を訪ねて協力関係を申し出ていた。 教皇は人間に信教の自由は保証されなければならないと力説し、グロムイコはソ連では宗教で何の問題も起きていないと言い放った。 しかし教皇は、ソ連のキリスト教徒が公職に就けないことをよく知っていた。 1981年7月、経済的困窮にあえぐポーランドで鉄道ストが起こり、瞬く間に全国の工場に広まった。 東ドイツに常駐する50万人のソ連軍にとってポーランドの鉄道は冠動脈である。 国内の緊張は高まった。 ワレサが率いる労働組合『連帯』が海軍造船所を占拠した。 それまでのストでは労働者は大きな組織力を持っていなかったが、今回は違った。 知識人と労働者と教会の三者がしっかりと手を組んでいた。 政府は昇給を約束したが、ワレサは乗らなかった。 自由化と政治犯の釈放などを条件に挙げ、『連帯』の抵抗は長期化した。 国境では戦車隊を先陣とするソ連陸軍の大部隊が侵攻の命令を待って布陣していた。 ブレジネフはポーランドが反乱の状態にあると見なした。 ソ連の代表がバチカンの代表に会見を求めてきた。 もし『 連帯』の動きがソ連の統治に重大なリスクを与えるなら軍事介入すると申し渡された。 1981年1月、ワレサはバチカンにやってきた。 ソ連KGBはイタリア共産党に連絡をとって彼と教皇の会談を中止させようとした。 しかし時の勢いは止められなかった。 ローマに着いた一行はイタリア共産党員にも熱狂的に迎えられた。 教皇のミサにあずかり、会談を果たしたワレサは『息子が父に会いに来たのだ』と語った。 教皇は巧みな弁舌を使ってソ連を直接刺激することなく、しかしはっきりと労働者達の権利を擁護することを宣言した。 国境のソ連軍は遂に動かなかった。 1981年5月13日、レーガン大統領狙撃から1ヶ月半後、教皇は5時に始まる一般信徒の謁見のためにオープンカーで聖ペトロ広場をゆっくり移動していた。 鋭い銃声がして広場の鳩が一斉に舞い上がった。 6メートルの近距離から発射されたブローイング9ミリの拳銃の弾丸は2発とも教皇に命中した。 教皇は一命を取り留めた。 体内から取り出された一つの弾丸はポルトガルに運ばれ教皇自らの手でファティマの聖母像の冠に差し込まれた。 もう一つの弾丸で穴を穿たれた布バンドは後日故郷の黒い聖母に捧げられる。 暗殺者の背後にはブルガリアの諜報局が係わっていたが、その向こうにはソ連の影が見え隠れしていた。 1981年12月、ポーランド政府は遂に戒厳令を発令した。 折しも『連帯』が大々的なデモを予定していたところである。 戒厳令を発表するヤルゼルスキ首相の声明は、ショパンの英雄ポロネーズの演奏と替わるがわるに何度も繰り返して放送された。 ワレサたちは次々に逮捕された。 『連帯』のリーダーが表舞台から姿を消した。 教皇は自らポーランド解放の旗印であることを宣言せねばならない。 早速ヤルゼルスキに手紙を書いた。 ヤルゼルスキも若い時にカトリックの教育を受けた人間だ。 彼は信仰を失ってはいない、いつか必ず教会に戻ってくるはずだと教皇は信じていた。 戒厳令直後、西側諸国はソ連とポーランドに対して経済封鎖を断行した。 民衆はインフレと食糧不足に苦しみ、生活条件は最悪となった。 教皇は戒厳令を弾劾し、それをラジオ・バチカンでポーランドに流した。 CIAが電波をバチカンに提供していた。 1982年6月、レーガンがバチカンにやってきた。 通訳なしの50分の会談。 アメリカはポーランドの地下運動を物質的に支え続け、教皇は精神的に支え続ける。 共に狙撃され、共に神によって救われた二人は東欧の運命を変える使命感のもとに結束した。 1983年6月、教皇は再度故国ポーランドの土を踏むことになる。 戒厳令下の軍事政権はカトリック教会がこの温情ある措置を理解して、反共を煽ることなく宗教活動だけに専念してくれれば良いという期待をこめた取引だった。 しかし、教皇は何も変わっていなかった。 政府に向かって基本的人権の回復を強く迫った。 公のスピーチの中で『連帯』については触れないようにと念を押されていたが、『普通名詞』として連帯という言葉が発せられる度に歓声が湧き起こった。 チェンストホバの修道院の前の草原で100万人の民衆を前にした教皇は、ポーランド国民に希望を与えて下さいと祈り、弾丸に貫かれた帯を黒い聖母に捧げた時100万人の眼は釘付けになった。 垂れ幕を先頭に何万人もが『教皇が我等と共にいる、神が我等と共にいる』と連呼しながら行進した。 教皇は将に主役だった。 1983年11月ブレジネフが死んだ。 後を継いだアンドロポフはヤルゼルスキに対してポーランドがカトリック教会に譲歩し過ぎたこと、その所為で今やカトリックが社会主義体制に対する脅威になっていることを叱責した。 だが1年半も経たない内にアンドロポフも死んだ。 その後を継いだチェルネンコも1年で死んだ。 その次に書記長となったゴルバチョフは4月にポーランドに来てヤルゼルスキと5時間に亙って語り合った。 ヤルゼルスキはこの国でカトリック教会がどんなに影響力を持っているかを力説した。 また教会によってポーランドが西側世界と歴史的にいかに繋がっているかを説明した。 ゴルバチョフはその席上、東西共存のための改革の可能性と共産圏における信教の自由の可能性を示唆した。 ソ連の風は確実に変わっていた。 1987年1月、ヤルゼルスキが初めてバチカンにやってきた。 教皇との会談の中で彼はポーランド共産党が国民の支持を受けていないことを認め、経済回復のために教会の助けを求めた。 ソ連によって任命されたヤルゼルスキ首相がソ連を見限ったのだ。 ソ連は益々孤立した。 2月、教皇の要請を受けた西側諸国は経済封鎖を解除した。 戒厳令も解かれ『連帯』は合法化されて再び歴史の表に出た。 1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。 12月、ゴルバチョフがバチカンを訪れた。 70年以上にわたって悪魔だともカトリックの天敵だとも見做されていたクレムリンのトップを一目見ようとバチカン中の枢機卿や司教たちは仕事の手を止めて窓から身を乗り出し、赤い旗をなびかせたゴルバチョフのリムジンを見つめた。 ローマ教皇とソ連共産党書記長は二人のスラブ人として向かい合った。 東欧をめぐる戦いは既に勝負がついていた。 二人は旧知の如く会談は打ち解けて進んだ。 東欧諸国にもし民主主義と信教の自由が保証されるなら、教皇には放逸に流れる西欧やアメリカよりも、質実剛健な東欧諸国の方が彼の感性に適っていた。 教皇は過去8年、ポーランド解放のためにはアメリカの資金が必要だったし、外国訪問の際もアメリカからもらえる情報は有用だった。 だからこそ軍備の拡張に熱心だったレーガンを今まで一度も批判しなかったが、ここにきてアメリカの物質主義やモラルの混乱はスラブ人である教皇にとってもともと気に入らないものだった。 ゴルバチョフはゴルバチョフで、国内の改革を成功させるために同じスラブ人であり、国際的に絶大な権威を持つ教皇の後ろ盾を必要としていた。 今まで圧迫してきた国内の東方正教会の権威は全く頼りにならなかった。 ゴルバチョフは教皇にぜひソ連に来て下さいと申し出た。 2年後の1991年、遂にソ連は崩壊した。 腹心エリツィンらのクーデターで腐りきった共産政権はあえなく倒れた。 その日、赤の広場のレーニン廟の前に誰かが聖母像を置いた。 1917年にロシアの回心を予言したという聖母、教皇の命を暗殺から守ったという、あのファティマの聖母像だった。 かつて、ポーランドは、スターリンとヒトラーの密約により、国を滅ぼされ、共産主義者とファシストに支配された歴史がある。 しかし、その後、ポーランドの人びとが共産主義体制から祖国を解放したのである。

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