古代 中国 よみがえる 伝説。 ☆古代中国 よみがえる英雄伝説

古代中国 よみがえる英雄伝説・始皇帝と乱世の名臣たち~春秋戦国・天下統一への道~ : Art & Bell by Tora

古代 中国 よみがえる 伝説

NHKで、再放送「古代中国 よみがえる英雄伝説:伝説の王・禹~最古の王朝の謎~」を視聴した。 紀元前2000年ごろに荒れ狂う太古の自然を 最初に歴史最古の王朝を築いた男が禹である。 これまで禹について書かれたものは、「史記」ぐらいしかなく、謎のベールに包まれていたが、近年発掘調査が進んできている。 番組はこのような観点から中国古代史の謎に迫っていた。 中国の小学校で教えられているのは「華夏」という言葉で、現在の中国人はその子孫の末裔とされている。 現代の中国は経済格差や価値観が多様化する中、自らのルーツを学ぼうとしている。 司馬遷の「史記」には、「夏王朝」や「禹王」について、次のように記されている。 遥か昔、この世は洪水が相次ぐ激しい時代だった。 王たちがどのような手を講じても、荒れ狂う大河を制することは出来ず、人々は貧しい生活を余儀なくされていた。 ある日、一人の若者に白羽の矢が立った。 禹という男である。 この男が全国の治水に邁進した。 厳しい自然との戦いで、若々しかった肉体は老人のように不自由になったが、それでも禹は歩き続けることを止めなかった。 そして13年後に、禹は中国全土の治水に成功し、生まれ変わった土地で民の暮らしは一変した。 周囲から押された禹は王となり、夏を大いに繁栄させた。 中国各地には、禹にまつわる伝説がたくさん残っている。 「羌族」では、祭りの際に「禹歩」という歩き方をする。 はるか昔、片足を引きずりながら治水に回った禹と土着信仰が混ざったもので、洪水等の災難から守ってくれると信じている。 また、全国に禹を祀った廟がある。 禹はまさに、中国の国づくり伝説そのものだが、多くは謎のベールに包まれたままだった。 前述の「史記」が書かれたのは漢の時代で、伝説や伝承がもとになっている。 そんな中、考古学上の大発見があった。 1928年殷墟の発掘で。 である。 殷の発見により、夏王朝の遺跡の発見が期待されたが、日中戦争が始まり、文化大革命が起こり、中国の考古学は、長い停滞期に入った。 しかし、20世紀の終わりに国家的研究プロジェクト「夏商周王朝断代工程」が発動された。 考古学の発掘と研究を通じて夏王朝の存在を証明することは、自分たちのルーツを知るということであった。 そして、神話や伝説として語られてきた実像が形となって解ってきた。 紀元前3000年から2000年、中国には別々の文化圏が分立していた。 その場所の一つである長江河口の「良渚」には5300年から4300年前に作られた全長7キロの巨大な城壁がある。 地質や鉱物を研究した結果、城壁は数キロ離れた山から運ばれた材料で作られていることが分かった。 さらにこの巨大集落の繁栄を示す栽培種である「コメ」や「水田」が発見された。 計画的なコメの量産体制が出来ていたのである。 強力な王の存在を示す「玉器」も出てきた。 集落の中心では、王自らが宗教儀式を行っていた。 王は五穀豊穣を願い、地上の意思を神に伝える存在だった。 この玉に対する信仰が周りに広がり、専制的な支配が強大な力となっていた。 他方、内陸部の山西省にも別な国ができていた。 ここでは柱の跡が発掘されているが、それは暦として役立つ太陽の観測施設だった。 暦は農業と密接している。 粟を主食としていたこの地方では、たくさん収穫するためには暦が必要だった。 暦の働きをする太陽観測施設を使うことが出来たのは特別な人間、すなわち王だけだった。 人々はこの王に従い、強大な権力となった。 このように、古代中国には強大な力を持つ王の文化圏があったが、繁栄を謳歌していたしていた集落が衰退していった。 その原因は繰り返し襲う洪水だった。 紀元前3000年から2000年にかけて、気候変動によって、中国全土を寒冷化、干ばつ、長雨による洪水などが襲い、農業に頼っていた集落を直撃した。 この頃、世界各地でも気候変動が起こっていた。 エジプトでもピラミッドを造った古王朝が崩壊、メソポタミアでも中核都市が廃墟になったが、中国ではより複雑な気候条件が重なりさらに凄まじい変化が起こった。 黄河上流にある青海省「喇家遺跡」は、中国のポンペイとも呼ばれている。 発掘調査によると、高い文化を持っていた集落が、洪水などで一瞬にして土砂に埋もれてしまっており、人々は逃げる間もなく犠牲になっていた。 このような未曽有の天変地異によって中国の古代集落は次々に崩落していった。 史記にあった禹の伝説は、洪水の歴史でもあった。 中国大陸の厳しい自然は、古代集落の黄河文明を破壊し、また新たな黄河文明を生み出していった。 そこに禹を信仰する伝説の生まれる余地があった。 人々は「国を治めるには、まず黄河を治めること」と信じており、治水によって自然を制した禹王のような人物が、神のように信仰されていくようになった。 自然が多くの文化圏を崩壊させていった一方で、河南省「二里頭村」だけが繁栄していった。 二里頭村では、これまで例に見ない宮殿跡がいくつも発掘されており、そこからはトルコ石の龍まで出土している。 この龍は、中国の王の権威の象徴の最古のものである。 そして、青銅を薄く鋳造する技術、そこにトルコ石を装飾した青銅器文化があった。 ここが、禹の作った夏王朝の都ではないかと考える考古学者が少なくない。 ただし、この都には文字が見つかっていないので、その王が禹であったという確実な証拠はない。 他の地域が衰退していく中、二里頭文化だけがどうして急速に発展・繁栄したのだろうか。 土を採取した結果、五穀(粟・黍・小麦・大豆・水稲)が見つかった。 まだ多くの地域が限られた作物しか栽培していなかった時代に、5種類もの作物が作られていたのである。 二里頭村の人たちだけが、気候変動に対応できたようである。 その鍵となるのは川であり、二里頭村周辺には、中国の主要な河である黄河・長江・伊河・洛河の支流が流れていた。 この川の流域から、二里頭村の礼器が発見されている。 ここに身分の高い人々を常駐させ、情報を得ていたのではないかと言われている。 史記には、禹は「人々に湿地に植える苗を与え 食べ物が少なければ 余裕のあるところから集め 人々が平等になるように分け与えた そして自ら各地に出かけ 地域によって その地の貢ぎ物に出来るものや 山や川のもう通の便を視察した」と記されている。 民が飢えることのないように活動したと思われる記述であり、禹は本当にいたのかもしれない。 二里頭以前の古代集落が相次いで崩壊した原因は、環境が激変する中、王が権力を維持できなくなっていたからだった。 山西省の「陶寺村」では、歴史の意外な事実が発見された。 高い文化を持っていた陶寺遺跡は、たくさんのバラバラな状態で出てきた人骨を残していた。 その理由は、人々の反乱で、貴族たちに復讐し、遺体をうち捨てたのだった。 「良渚」でも、食糧難の中、王が求心力を失っていった。 良渚の玉琮には不純物の鉛が含まれるようになっていくが、これは良質な材料の不足によるものと考えられる。 また、この地の玉琮は次第に大型化していったが、これは質的な低下を補うものであった。 ここに、王の権威が失墜していったことが伺える。 古代中国の集落は、脆弱なシステムしか持ち合わせていなかったのである。 中国人が愛する玉文化。 それは永遠に色あせることのない、朽ち果てることのないものだった。 玉は長い権力者の歴史の中で愛されてきた。 春秋戦国時代には、一つの玉が15の城と同じ価値だとされたほどである。 数千年を経た現在の中国でも、玉は高価である。 好景気な現在、飛ぶように売れている。 古代から名産地とされてきた新疆ウイグル自治区・ホータンの山々では、今も採掘がおこなわれている。 「玉石混合」という言葉も、この玉からきている。 玉は中国人にとって、ただの美しい鉱物ではなく、政治や歴史のシンボルとして、崇拝の対象になっている。 多くの文化圏が崩壊していった古代中国で、夏王朝の禹に対しては、民の信望が篤かったと思われる。 禹に対して人びとはそれぞれの地元の名産物を献じたが、こうした土地は五千里の彼方まで広がり、はるか遠くまで及んでいた。 王に即位した禹がどのような政治を行ったのかについての記述は残っていない。 しかし二里頭遺跡からの出だ土器には、大きな特徴がある。 大切な儀式や祭事に使われたと思われる「酒器」が非常に多いことである。 そこに夏王朝の秘密が隠されているのではなかろうか。 宮殿の構造にも、他に見られない大きな特徴がある。 「一号宮殿」は回廊に囲まれた建物で、中には1000人以上も収容できる広場がある。 多くの人が入ることのできる建物を造ることは、夏に始まったものであるが、後の中国の王朝にも受け継がれている。 清の紫禁城もほぼ同じ配置で、とてもよく似ている。 この広場を有する建物は、夏王朝に始まる「宮廷儀礼」に使われた。 夏王朝は「神の力」よりも人としての「王の力」を優先していた。 王が一人の人間として家臣と向き合うシステムである。 「宮廷儀礼」は、夜明け前に行われた。 宮殿に入ることが出来るのは、貴族と近隣の集落の首長で、参加者は献上品を持って参上した。 そこには王の権威を象徴する工夫がなされていた。 最後に入場する王の手に握られているのは貴重な石でできた「玉璋」である。 玉璋は他の地域の神聖なシンボルで、これを持つことで王の権威を高めていた。 さらに取り出したのは、まだ誰も見たことのない青銅の酒器「銅爵」である。 外の文化を取り入れ、文化を融合させていくことは、広大な地域を治めているという権力の証だった。 身分の高い貴族は壇上に上げられ、全ての文化の頂点に立った王から酒を賜ることになる。 下から見守る参列者たちは、人びとは、王との身分の違いを痛感し、王を崇めるようなった。 軍事力だけでは、長く権威を維持させることは不可能なので、このような「宮中儀礼」というシステムを編み出したと考えられる。 広大な範囲から銅が集められている。 遠くは1000キロ先から銅を集めることが出来たのは、周辺地域と何らかの同盟関係があったからと思われる。 香港で、同じ形の玉璋が発見された。 さらに1600キロ以上離れたベトナム北部・ソムレン遺跡でも玉璋が発見された。 さらに福建省、広東省、四川省へと、伝播していた。 この時期東アジアでは、文明が花開いていたため、ハイレベルな成熟した文化を学ぶ必要があった。 二里頭のすべての玉璋の柄の部分には、龍の頭、背びれが刻まれている。 龍はもともと、中国東北部で宗教的なシンボルとして信仰されてきた空想上の生き物であるが、二里頭はこの龍を、権力の象徴として利用し始めたのである。 このように龍と王の結びつきは二里頭から始まり、龍は中国の歴代の王朝に権力の象徴として脈々と受け継がれていった。 「王は常に龍と共に」である。 今からおよそ4000年前の二里頭から多様な人々を治めるシステムが生まれた。 その二里頭の文化的な影響力は広がっていった。 これは武力によってではなく、文化の力によって成し遂げられたもので、歴史上初めて現れた文化の革新だったのである。 厳しい自然や荒ぶる人々を治めた「禹王」や「夏王朝」は、二里頭に存在したのだろうか。 紀元前1600年ごろ、第2の王朝「殷王朝」が台頭してきた。 殷は青銅器で夏王朝を徹底的に破壊した。 夏王朝に関する遺跡からは、殷に虐殺されたであろう人々の骨がたくさん発見されている。 しかし殷は、意外な行動に出ていた。 宮殿だけは破壊せず、一定期間使ったのである。 夏王朝の「宮廷儀礼」という文化的な統治システムは殷にとって大変魅力的なものだったと思われる。 夏王朝の「龍のシンボル」も歴代王朝へ伝わっていった。 それを最大限に利用したのは、秦の始皇帝。 禹を祀った山を参拝することで、始皇帝は自分こそが夏王朝の後継者であることを示そうとした。 「中華」と呼ばれる世界観や「華夏」とよぶ歴史観によって、国を一つにまとめようとする時、古代の英雄伝説はこれから先も生き続けるのだろう。 管理人 とら.

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古代中国 よみがえる英雄伝説「伝説の王・禹~最古の王朝の謎~」 : 日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

古代 中国 よみがえる 伝説

これまで禹について書かれたものは、史記ぐらいしかなく、謎のベールに包まれていましたが・・・いろいろなものが発掘されてきています。 中国古代史の謎に迫ります。 中国の小学校で教えられているのは・・・ 「華夏」その子孫の末裔だそうです。 経済格差や価値観が多様化する中、自らのルーツを学ぼうとしているのです。 夏王朝・・・夏とはどんな王朝で、禹はどんな人だったのか? 史記には・・・ 遥か昔、この世は洪水が相次ぐ激しい時代だった。 王たちがどのような手を講じても、荒れ狂う大河を制することは出来ず、人々は貧しい生活を余儀なくされていました。 ある日・・・一人の若者に白羽の矢が立ちます。 禹という男・・・全国の治水に邁進します。 厳しい自然との戦いで、若々しかった肉体は老人のように・・・不自由になった。 それでも禹は歩き続けることを辞めなかった。 そして13年後、禹は中国全土の治水に成功、生まれ変わった土地で民の暮らしは一変します。 周囲から押された禹は王となり、夏を大いに繁栄させました。 中国各地には、禹にまつわる伝説がたくさんあります。 羌族には禹歩という歩き方があります。 遥か昔・・・片足を引きずりながら治水に回った禹と土着信仰が混ざったものです。 洪水等の災難から守ってくれると信じています。 また、全国に禹を祀った廟があります。 禹はまさに、中国の国づくり伝説そのものですが、多くは謎のベールに包まれたままでした。 史記が書かれたのは漢の時代。 伝説や伝承がもとになっています。 そんな中、考古学上の大発見がありました。 1928年殷墟の発掘です。 殷の発見により、夏王朝の遺跡の発見が期待されますが・・・ 日中戦争が始まり、文化大革命・・・中国の考古学は、長い停滞期に入ったのです。 そして、20世紀の終わりに・・・国家プロジェクトが発動されます。 夏王朝の研究です。 考古学の発掘と研究を通じて夏王朝の存在を証明する事。 それは、自分たちのルーツを知るということです。 そして、神話や伝説として語られてきた実像が形となって解ってきました。 紀元前3000年から2000年・・・ 中国には、別々の文化圏が分立していました。 ここに・・・伝説の禹に匹敵する王が発見されるのでしょうか??? その場所・・・長江河口の良渚には・・・ 5000年前に作られた巨大な城壁があります。 地質や鉱物を研究した結果、数キロ離れた山から運ばれました。 壁の全長は7キロ・・・巨大な集落でした。 5300年から4300年前のものだそうです。 さらに・・・巨大集落の繁栄を示す・・・栽培種であるコメが発見されました。 水田も発見されました。 計画的なコメの量産体制が出来ていたのです。 そして・・・強力な王の存在が。。。 集落の中心では、王自らが宗教儀式を行っていたようです。 五穀豊穣を願います。 地上の意思を神に伝える存在でした。 その玉による信仰が・・・周りにも広がり、専制的な支配・・・強大な力となっていたようです。 内陸部でも国が!! 山西省に・・・発掘されたのは柱の跡・・・それは太陽の観測施設・・・暦でした。 暦は農業と密接しています。 当時粟を主食としていたこの地方、たくさん収穫するために・・・ そのための太陽観測施設で、使うことが出来たのは特別な人間だけ・・・王だったようです。 この王に従う・・・強大な力となりました。 古代中国には、強大な力を持つ王の文化圏がありました。 ところが・・・繁栄を謳歌していたしていた集落が衰退していきます。 その原因は繰り返し襲う洪水でした。 中国全土を襲う気候変動・・・紀元前3000年から2000年にかけて、寒冷化や干ばつ、そして長雨による洪水・・・農業に頼っていた古代中国の集落を直撃します。 この頃、世界各地でも気候変動が起こっていました。 エジプトでもピラミッドを造った古王朝が崩壊、メソポタミアでも中核都市が廃墟に・・・中国では複雑な気候条件が重なり凄まじかったようです。 その遺跡は、黄河上流にある青海省喇家遺跡です。 遺跡は、中国のポンペイとも呼ばれています。 高い文化を持っていた集落が、洪水などで一瞬にして土砂に埋もれてしまった・・・逃げる間もなく犠牲になったのでした。 未曽有の天変地異に中国の古代集落は次々に崩落していきました。 史記にあった禹の伝説は、洪水の歴史でもあったのです。 黄河・・・中国大陸の厳しい自然に古代集落はなすすべもなく・・・ 文明を破壊し、また文明を生み出す黄河・・・ そこには禹を信仰する風潮・・・伝説があります。 国を治めるにはまず、黄河を治めること。。。 禹王を信仰しています。 治水をし・・・自然を制する。 中国ではそんな人物こそが、神のように進行していくようになるのです。 多くの文化圏を崩壊させていった自然・・・ しかし、繁栄していったのは・・・河南省二里頭村。 此処には禹とかかわりのあるかもしれない国・・・ これまで例に見ない宮殿跡がいくつも発掘され・・・ そこにはトルコ石の龍までありました。 この龍は、中国の王の権威の象徴の最古のものです。 そして、青銅を薄く鋳造する技術、そこにトルコ石を装飾した青銅器文化。 ここが、禹の作った夏王朝の都ではないかと考えました。 その都は・・・文字が見つかっていないので、その王が禹であったのかはわかっていません。 でも、他の地域が衰退していく中・・・どうして急速に発展・繁栄したのでしょうか? 土を採取した結果・・・粟・黍・小麦・大豆・水稲・・・まだ多くの地域が限られた作物しか栽培していなかった時代に、5種類もの作物を作っていました。 つまり、気候変動に対応できたのです。 二里頭村の人たちだけが、どうして5種類も??? 鍵となるのは川でした。 二里頭村周辺には、黄河・長江・伊河・洛河・・・中国の主要な支流が流れていました。 この川から流れてきたのかも??? そして、この川の流域から、二里頭村の礼器が発見されています。 ここに身分の高い人々を常駐させ、情報を得ていたのではないか?と言われています。 民が植えることのないように・・・ 始動したと思われる記述です。 禹は本当にいたのかもしれません。 二里頭以前に相次いで崩壊した古代集落・・・ その崩壊の原因は、環境が激変する中、王が権力を維持できなくなっていたからでした。 山西省陶寺村では・・・ 意外な歴史の事実が発見されました。 高い文化を持っていた陶寺遺跡では・・・たくさんの異常な人骨を残し、崩壊していました。 バラバラな状態で出てきた骨・・・ その理由は、反乱だったようです。 貴族たちに復讐し、うち捨てられたものだったのでは??? 瞬く間に崩壊してしまいました。 良渚でも・・・食糧難の中、王が求心力を失っていきます。 玉宗には不純物が含まれるようになっていきます。 材料の不足。。。 しかし、大型化。。。 ここに、王の権威が失墜したのが伺えます。 古代中国の集落は、脆弱なシステムしか持ち合わせていなかったのです。 中国人が愛する玉文化・・・。 それは、永遠に色あせることのない、朽ち果てることのないもの。。。 玉は、長い権力者の歴史の中で愛されてきました。 春秋戦国時代には、一つの玉が15の城と同じ価値だとされたほどです。 数千年を経た中国でも高い価値があります。 好景気な現在、飛ぶように売れていきます。 古代から名産地とされてきたのが、新疆ウイグル自治区・ホータン。 切り取った山々では、今も採掘がおこなわれています。 玉石混合という言葉も、この玉からきています。 玉は中国人にとって、ただの美しい鉱物ではなく、政治や歴史のシンボルとして、崇拝の対象になっていきます。 多くの文化圏が崩壊していった古代中国。 しかし、夏王朝の禹に対しては、民の信望が篤かったようです。 禹の功績は大きかった。 人びとはそれぞれの地元の名産物を献じた。 こうした土地は、五千里の彼方まで広がり、はるか遠くまで及んだ。 しかし、王に即位した禹がどのような政治を行ったのか??? その記述はありません。 二里頭遺跡には・・・??? その土器には、大きな特徴があります。 酒器がたくさんあります。 大切な儀式や祭事に使われたようです。 そこに夏王朝の秘密が隠されているのでしょうか??? 宮殿の構造も、他に見られない大きな特徴があります。 一号宮殿・・・ 回廊に囲まれた建物、1000人以上収容できる広場。 たくさんの人が入ることのできる建物。。。 後の中国の王朝にも受け継がれています。 清の紫禁城と比べると・・・ほぼ同じ配置、とてもよく似ています。 それ以前にはなかったものでした。 その使われ方は??? もちろん宮廷儀礼です。 この宮廷儀礼の始まりも、夏王朝とされています。 神の力よりも、王の力!! 夏王朝は、神よりも人を優先していたようです。 王が一人の人間として家臣と向き合うシステムです。 宮廷儀礼は夜明け前に行われます。 宮殿に入ることが出来るのは、貴族と近隣の集落の首長。 献上品を持ってきます。 そこには王の権威を象徴する工夫がなされています。 最後に入場する王。 その手に握られているのは貴重な石でできた玉璋・・・ 玉璋は神聖なもの・・・。 他の地域の神聖なシンボルを持つことで、権威を高めます。 さらに、取り出したのは・・・まだ誰も見たことのない青銅の酒器・銅爵。。。 文化を融合させていきます。 外の文化を取り入れて、融合させていくこと・・・それは広大な地域を治めているという権力の証でした。 身分の高いものが壇上にあげられます。 全ての文化の頂点に立った王から・・・酒を賜る貴族。。。 下から見守る参列者たち・・・ 人びとは、王との身分の違いを痛感します。 そして、王を崇めるようなるのでした。 軍事力だけでは、長く維持させることは出来ません。 何らかのシステムを以て・・・それが、儀礼だったのです。 周辺地域に影響を与えていきます。 広大な範囲から銅が集まられています。 遠くは1000キロ先から・・・。 広い範囲から銅を集めることが出来たのは、その地域と何らかの同盟関係があったと思われます。 影響力はさらに広がり・・・香港で、同じ形の玉璋が発見されました。 さらに・・・ベトナム北部・ソムレン遺跡、ここでも玉璋が発見されました。 1600キロを超えていました。 さらに福建省、広東省、四川省・・・と、伝播していました。 この時期東アジアに文明が花開いていました。 その為、ハイレベルな成熟した文化を学ぶ必要がありました。 二里頭の玉璋・・・この柄の部分は、竜の頭、背びれ、全ての玉璋に刻まれています。 龍はもともと、中国東北部で宗教的なシンボルとして信仰されてきた空想上の生き物です。 二里頭は、この龍を、権力の象徴として利用し始めたのです。 中国の歴史の中で、龍と王の結びつき・・・それは、二里頭から始まったのです。 龍は、歴代の王朝に権力の象徴として脈々と受け継がれていきます。 王は常に龍と共に!! 今からおよそ4000年前の二里頭の王。 そこから多様な人々を治めるシステムが生まれました。 そんな二里頭の文化的な影響力は広がっていくのです。 武力によってではなく、文化の力によって成し遂げられたものでした。 歴史上初めて現れた文化の革新だったのです。 厳しい自然や荒ぶる人々を治めた二里頭・・・ 禹は・・・夏王朝は存在したのでしょうか??? 二里頭で繁栄を謳歌した夏王朝・・・しかし、紀元前1600年ごろ、新たな国が・・・ 台頭してきたのは第2の王朝・殷王朝・・・殷は青銅器を以て夏王朝を徹底的に破壊。 夏王朝に関する遺跡からは、殷に虐殺されたであろう人々の骨がたくさん発見されています。 しかし殷は、意外な行動に・・・??? 宮殿だけは破壊しなかったようです。 この宮殿を一定期間使ったようです。 宮廷儀礼をそのまま取り込んで・・・文化的な統治システムは大変魅力的なものだったのでしょう。 そして・・・龍のシンボルと共に、歴代王朝へ!!! それを最大限に利用したのは、秦の始皇帝です。 禹を祀った山を参拝することで、始皇帝は自分こそが夏王朝の後継者であることを示そうとしたのです。 中華と呼ばれる世界観をもって、一つにまとまろうとするとき・・・ 古代の英雄伝説は、これから先も生き続けるのでしょう。

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古代中国 よみがえる伝説「曹操と孔明~乱世の英雄 知られざる素顔~」(2018年1月2日再放送)

古代 中国 よみがえる 伝説

TV番組予約をしている際に気付いたこと。 出演者は「【出演】吉川晃司,【語り】礒野佑子」とのこと。 上記にリンクした記事にあるようにこのダイジェスト版は「古代中国 英雄伝説」というタイトルで、ダイジェスト版じゃない方の放送は久々。 「曹操」パートから「孔明」パートへのギャップは印象的。 下記に内容紹介文を引用する。 前回の再放送時の文と同じだけどね。 なので、詳細も続いて引用する。 第1集は、奸臣・曹操に悲劇の名軍師・諸葛孔明が挑む三国志の物語。 3回シリーズの第1集は、奸臣・曹操に悲劇の名軍師・諸葛孔明が挑む三国志の物語。 実は私たちが知るエピソードの多くは、後の時代に脚色された物語にすぎない。 ところが曹操墓が発見され、遺骨などの映像が外国メディアに初めて公開された。 曹操と孔明の知られざる実像に迫る。

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